カナンの女の信仰 2014年11月09日(日曜 朝の礼拝)

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カナンの女の信仰

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 15章21節~28節

聖句のアイコン聖書の言葉

15:21 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。
15:22 すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。
15:23 しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」
15:24 イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。
15:25 しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。
15:26 イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、
15:27 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
15:28 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。マタイによる福音書 15章21節~28節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、マタイによる福音書15章21節から28節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

 イエス様は、ゲネサレトをたち、ティルスとシドンの地方に行かれました。ティルスとシドンとは、ガリラヤ湖の北北西に位置するフェニキア地方の町であります。イエス様は、ガリラヤ地方を離れて、異邦人の住むフェニキア地方へ行かれたのです。なぜ、イエス様は、異邦人の住むフェニキア地方へ行かれたのでしょうか?マタイによる福音書は、その理由を記しておりませんが、マルコによる福音書の並行箇所を見ますと、イエス様は人を避ける目的でティルス地方に行ったことが記されています。ガリラヤにおいて、イエス様はいつも群衆に取り囲まれておりましたから、休息を得るために、群衆のいないティルス地方へ行かれたのかも知れません。しかし、イエス様に気づいた人物がおりました。それが、この地に生まれたカナンの女であります。カナン人とは、イスラエルの民がヨシュアに導かれてパレスチナの地に入る前から住んでいた先住民のことであります。そのカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだのです。ここでカナンの女は、イエス様を「主よ、ダビデの子よ」と呼びかけております。このカナンの女は明らかに異邦人ですが、聖書の神様を信じていたようです。カナンの女は、約束の救い主がダビデの子孫から生まれるという神様の約束を知っていたのです。それで、カナンの女は、イエス様のことを「ダビデの子よ」と呼びかけたのです。また、カナンの女は、イエス様があらゆる病を癒されたことを聞いていたようです。それゆえ、カナンの女は、「わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫ぶのです。「悪霊によって苦しめられている私の娘を助けてほしい」と叫んだのです。それも一度だけ叫んだのではありません。彼女は何度も叫んだのです。しかし、イエス様は何もお答えになりませんでした。イエス様が何もお答えにならないので、カナンの女は叫び続けたのです。それで、弟子たちはイエス様に近寄って来てこう願いました。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので」。私たちが用いている新共同訳聖書は、「追い払ってください」と翻訳していますが、元の言葉は、「解放する」「去らせる」という言葉であります。そこである翻訳では、「(願いをかなえて)彼女を去らせて下さい」と翻訳しています。「追い払ってください」と翻訳すると、願いを断って去らせてくださいと解釈できるわけですが、「去らせてください」と翻訳すると願いを叶えて去らせてくださいと解釈できるのです。新改訳聖書は、「あの女を帰してやってください」と翻訳していますが、これも願いを叶えて、安心して帰れるようにしてやってください、という意味であろうと思います。弟子たちは、叫びならがついて来るカナンの女うんざりして、イエス様に、この女の願いを叶えることによって、去らせるよう願ったのです。しかし、イエス様はこうお答えになりました。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」。ここには、イエス様が誰によって遣わされたか記されておりませんが、これは言うまでもなく、神様によってであります。イエス様は、イスラエルの家の失われた羊のところに遣わされたメシア、救い主として、カナンの女の叫びに何も答えられないのです。ここにあるのは、イエス様の遣わされた者としての自意識、使命感であります。イエス様は御自分が神の民イスラエルのところに遣わされた救い主、メシアであることを強く自覚しておられたのです。それゆえ、イエス様は、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と答えられたのです。

 しかし、この女は来て、イエス様の前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言いました。すると、イエス様は、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と答えられたのです。ここでの「子供たち」とはイスラエルの失われた羊であるユダヤ人のことであります。また、「小犬」とは、神の民イスラエル以外の民族のことであります。ティルス地方に生まれたカナンの女は、「子供たち」ではなく、「小犬」であるわけです。ここまで言われれば、「わたしを犬扱いするとは」と言って腹を立て、帰ってもよさそうなものですが、この女はそのようなことはしませんでした。女はこう言ったのです。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」。彼女は、イエス様のお言葉、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」という言葉を聞いて、「主よ、ごもっともです」と受け入れました。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない。それはごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくではありませんか」と女は言うのです。それを聞いて、イエス様は彼女にこうお答えになるのです。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」。イエス様は、女の言葉を聞いて、「あなたの信仰は立派だ」「あなたの信仰は大きい」(直訳)と言われたのです。それでは、カナンの女の信仰の大きさはどの点にあるのでしょうか?26節、27節に記されている、イエス様とカナンの女のやりとりを読むと、頓知問答のような印象を受けます。確かに、ここでカナンの女は知恵を働かせて答えております。そして、その背景には、メシアであるイエス様によってもたらされる恵みは溢れるほど豊かであるとの信仰があるのです。彼女は、イエス様によってもたらされる恵みは、イスラエルの民だけではなく異邦人に及ぶほど豊かであるである信じていたのです。イエス様は、その女の信仰を御覧になって「あなたの信仰は大きい。あなたが願いどおりになるように」と言われたのです。そして、「そのとき、娘の病気はいやされた」のであります。このようにして、イエス様は、彼女の大きな信仰に応えてくださったのです。

 今朝の御言葉を読んで、皆さんはどのような印象を受けられるでしょうか?いつものイエス様と違う、何だか冷たいと思われたのではないかと思います。そのような印象は、旧約の区分から言えば、私たちも異邦人であることを思い起こすならば一層強くなると思います。話は少し遡るようでありますが、先週、先々週と私たちは、イエス様とファリサイ派の人々との汚れについての論争を学びました。ファリサイ派の人々は洗わない手、汚れた手で食事をすることによって汚れると教えておりました。それに対して、イエス様は、むしろ人を汚すのは、人の心から出て来る言葉であると教えられたのです。この「汚れ」というキーワードから、今朝の御言葉を読むならば、異邦人であるカナンの女は、「汚れた民」でありました。ファリサイ派の人々は異邦人を汚れた民と呼び、神の祝福から排除していたわけです。しかし、イエス様はそのようにはされなかったわけです。イエス様にとりまして、神の救いは、先ずイスラエルの民に与えられるべきものでありますが、しかし、そこで異邦人は排除されていないのです。イエス様にとって、イスラエルの民に福音を宣べ伝えることは独占的なことではなく、最優先にすべきことであるのです。なぜなら、イエス様を遣わされた神様の御計画は、イスラエルを通して、全世界の民が神の祝福にあずかることであったからです(創世12:3「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」、出エジプト19:6「あなたたちはわたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる」参照)。そのことは、復活されたイエス様が、弟子たちに「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられたことからも明かであります。福音書記者マタイは、この福音書を、イエス様の系図から書き始めました。1章1節に「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とあるとおりです。なぜ、約束の救い主は、アブラハムの子ダビデの子としてお生まれになったのか?それは、神様がアブラハムに、またダビデに、あなたの子孫から救い主が生まれると約束しておられたからです。その約束のとおりに、神様はアブラハムの子、ダビデの子として、イエス・キリストを誕生させられたのであります。ダビデの子孫であるヨセフのいいなずけであるマリアの胎に、聖霊によって宿るという仕方で、神の御子が人となられたのです。神様は、イスラエルとの約束を実現されるために、イエス様をこの地上に遣わしてくださったのです。イエス様の「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」という言葉の背景には、イスラエルの先祖たちとの約束を果たされる神の誠実があるのです(ローマ15:8参照)。

 ある研究者(雨宮慧)は、24節、26節のイエス様の御言葉が誰に対して答えたか記されていないことから、ここで、イエス様は自分自身に答えて言われたのではないかと推測しています。新共同訳聖書は、28節も「イエスはお答えになった」と翻訳していますが、元の言葉を見ますと、「彼女に」という目的語が記されています。しかし、24節、26節は、目的語が記されておらず、誰に答えたのかが記されていないのです。そして、この研究者は、イエス様は誰よりも自分自身に答えていたのではないか?自分自身に言い聞かせていたのではないかと言うのであります。イエス様は、十字架の死から復活された後、「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言われるお方でありますから、カナンの女の願いを叶えてやりたいという思いは持っておられたと思います。その思いを押さえつけるように、イエス様は、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と自分に言い聞かせたのです。また、イエス様は、自分を礼拝するカナンの女を助けてやりたいと思いましたが、その思いを押さえつけるように、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と自分に言い聞かせられたのです。しかし、イエス様は、思いがけない言葉を女の口から聞くわけです。「あなたがイスラエルにもたらす祝福は、私たち異邦人にも及ぶほどに、豊かなものではありませんか」。そのような信仰の言葉を聞くのです。そして、イエス様は、イスラエルの民だけではなく、異邦人にも及ぶ豊かな祝福を与えられるお方として、彼女の願いを叶えてくださったのです。ここで起こっていることは、故郷のナザレで起こったことと全く反対のことであります。イエス様は、ナザレの人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさりませんでした。ナザレの人々の不信仰が、イエス様の力ある業を妨げたのです。しかし、今朝の御言葉では、イエス様の思いを超えて、カナンの女の信仰が、イエス様に力ある業を行わせるのです。イエス様は、カナンの女の信仰を喜ばれ、彼女の願いどおり、娘の病気を癒されたのです。

 今朝の御言葉から私たちが教えられますことは、イエス様がもたらされる祝福は異邦人にも及ぶ豊かな祝福であるということです。そして、その祝福にあずかるには、自分はそれに値しないことを認めつつも、願い続ける信仰が必要であるのです。イエス様の祝福は、ここに集っている30名ほどにしか及ばない貧しいものではありません。イエス・キリストの祝福は、羽生市に住む全ての人、北関東に住むすべての人に及ぶ豊かなものであるのです。私たちはそのイエス様の祝福の豊かさを信じて、忍耐強く祈り続け、福音を宣べ伝えていきたいと願います。

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