種を蒔く人のたとえ 2014年8月31日(日曜 朝の礼拝)

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種を蒔く人のたとえ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 13章1節~23節

聖句のアイコン聖書の言葉

13:1 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。
13:2 すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。
13:3 イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
13:4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
13:5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。
13:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
13:7 ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。
13:8 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。
13:9 耳のある者は聞きなさい。」
13:10 弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。
13:11 イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。
13:12 持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。
13:13 だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。
13:14 イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。
13:15 この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』
13:16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。
13:17 はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」
13:18 「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。
13:19 だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。
13:20 石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、
13:21 自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。
13:22 茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。
13:23 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」マタイによる福音書 13章1節~23節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝はマタイによる福音書13章1節から23節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

 1節から3節前半までをお読みします。

 その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。

 前回、私たちは、家の内にいるイエス様の弟子たちこそ、イエス様の父の御心を行う兄弟姉妹であることを学びましたが、今朝の御言葉では、イエス様は家の外へと出て行かれます。ここでの「家」とは、今で言う「教会」のことであります。と言いますのも、初代教会は、信者の家に集まって礼拝をささげていたからです。イエス様は、教会を出て、湖のほとりに座っておられたのです。すると、イエス様のそばに大勢の群衆が集まってきました。それでイエス様は、舟に乗って腰を下ろされ、岸辺に立っている群衆にたとえを用いて多くのことを語られたのです。この書き出しは、5章から7章までに記されていた山上の説教の書き出しと少し似ています。福音書記者マタイは、5章から7章までに、イエス様の弟子たちへの教えをまとめて記したように、13章に、イエス様が群衆に語られた多くのたとえをまとめて記しているのです。その最初のたとえが、今朝の御言葉の「種を蒔く人のたとえ」であるのです。3節後半から9節までをお読みします。

 「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。他の種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、他の種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」

 当時のイスラエルでは、種を蒔いてから土地を耕したと言われています。土地を耕してから種を蒔くのではなくて、種を蒔いてから土地を耕したのです。それゆえ、種を蒔く人は、後で耕すことになる道端にも種を蒔いたのです。また、種を蒔く人は、「石だらけで土の少ない所」にも、「茨の間」にも種を蒔くのですが、種を蒔いた時には、そこが「石だらけで土の少ない所」であることも、「茨」があることも分かりませんでした。「石だらけで土の少ない所」は外から見ても分かりませんし、「茨」も後から伸びたのですから、種を蒔いた時には、そこに茨も植わっているとは分からなかったわけです。種を蒔く人は、そのようなことは考えず、気前よく種をばらまくのです。

 このたとえの意味については、18節以下に記されていますから、後でお話したいと思いますが、10節以下には、「たとえを用いて話す理由」が記されています。

 10節から15節までをお読みします。

 弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見てもみず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めなさい。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』

 弟子たちは、イエス様と共に、舟の中にいたのでしょうか?弟子たちはイエス様に近づいてこう尋ねます。「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話になるのですか」。この弟子たちの質問は、たとえが、必ずしも分かりやすくするためのものではなく、謎のような面もあったことを教えています。私たちは、たとえとは、分かりやすく説明するためのものであると考えがちですが、聖書においてたとえは、もっと幅の広い意味をもっております。聖書において、たとえは、教訓や比喩や謎をも意味する言葉であるのです。「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話になるのですか」という質問に対して、イエス様はこうお答えになりました。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである」。ここでイエス様は、弟子たちと群衆とを明らかに区別しておられます。弟子たちとは、イエス様の言葉を聞いて、イエス様に従う決心をした者たちであります。他方、群衆とはイエス様の言葉を聞いて驚いても、イエス様に従う決心をしない者たちであります。興味本位からイエス様のもとに集まって来ますけれども、彼らは自分を変えようとはしないわけです。イエス様の言葉を聞いて、なぜ、ある人はイエス様の弟子となり、ある人は群衆として留まるのでしょうか?イエス様は、神様が弟子たちには天の国の秘密を悟ることをお許しになったのに対して、群衆にはそれを許されなかったからだと言うのです(10:25参照)。「天の国の秘密」とありますが、「秘密」とは「奥義」とも訳せる言葉であります。秘密でも、奥義でも、一部の人しか知らないから秘密であり、奥義であるわけです。では、「天の国の秘密」、「天の国の奥義」とは何でしょうか?それは、天の国がイエス様において、この地上に到来しているということであります。イエス様は12章28節で、「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と言われましたが、イエス様において、神の国が到来していることこそ、天の国の秘密、天の国の奥義であるのです。群衆は、イエス様が神の霊によって悪霊を追い出しているのを目の当たりにして驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言ったのですが、イエス様に従う決心までにはいたりませんでした。群衆は悪霊を追い出していただいた空き屋のような状態に留まっていたのです。そして、それは神様が、彼らに天の国の秘密を悟ることを許されなかったからであるのです。12節の「持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」という御言葉は、当時のことわざであったと考えられていますが、ここでの「持っている人」とは「天の国の秘密を悟る心を与えられている人」という意味であります。また、「持っていない人」とは「天の国の秘密を悟る心を与えられていない人」という意味であります。イエス様は群衆にたとえを用いて話されることによって、群衆の中から「持ている人」と「持っていない人」とをふるい分けられるのです。たとえは、持っている人には、いきいきと天の国について教えるものでありますが、持っていない人にとっては、よく分からない謎となるのです。13節に、「だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである」とありますが、ここに、イエス様が群衆にたとえを用いて話す理由が記されています。なぜ、イエス様は、群衆に、たとえを用いて話されるのか?それは、彼らが見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからです。福音書記者マタイは、5章から7章までに山上の説教としてイエス様の権威ある教えを記しました。また、8章から9章で、イエス様の権威ある業について記しました。このどちらも、群衆は聞いており、見ていたわけです。山上の説教の終わり、7章28節にはこう記されています。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆は非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」。このように、群衆もイエス様の権威ある教えを聞いていたのです。しかし、彼らは、驚くだけであるのです。また、9章32節、33節にはこう記されています。「二人が出て行くと、悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れられて来た。悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、『こんなことは、いままでイスラエルで起こったためしがない』と言った」。このように、群衆はイエス様の力ある業を見たわけです。しかし、彼らはただ驚くだけであるのです。このように、群衆は、イエス様の権威ある言葉を聞き、イエス様の権威ある業を見て来たのですが、それが何を意味しているのかを理解することはできなかったのです。つまり、彼らは、イエス様において天の国が到来していることを悟ることができなかったのであります。それで、イエス様は、彼らに、聞く者に考えさせる、主体的に聞かないと意味を理解することができない、たとえを用いて語られるのです。そのようにして、イエス様は群衆の中から、御自分に従う弟子たちを選り分けられるのです。イエス様は、「見てもみず、聞いても聞かず、理解できない」彼らによって、イザヤ書の預言が実現したと語っておりますが、ここで、私たちが教えられますことは、イエス様が、見ても見ず、聞いても聞かず、悟らない者たちの存在を受け入れているということです。私たちは、だれでも分かりやすく話せば、イエス様のことを信じるはずだと考えがちでありますが、イエス様はそのようには考えませんでした。むしろ、御自分の権威ある言葉を聞いても、御自分の権威ある業を見ても、そこで起こっていることを悟ることのできない群衆に、イザヤの預言の成就を見ておられるのです。

 16節、17節をお読みします。

 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。

 ここでの「あなたがた」とは、神様によって天の国の秘密を悟ることが許されている弟子たちのことであります。群衆がイエス様の権威ある業を見ても驚くだけであったのに対して、弟子たちはイエス様の力ある業に神の国の到来のしるしを見ることができました。また、群衆がイエス様の権威ある言葉を聞いても驚くだけであったのに対して、弟子たちはイエス様の権威ある言葉を受け入れて、それに従う者とされたのです。そして、そのような弟子たちを、イエス様は幸いであると言われるのです。この御言葉は、今朝、私たちにも語られている御言葉であります。私たちは、イエス・キリストの名によって集い、礼拝をささげておりますが、私たちはここに天の国の到来のしるしを見ているわけです。また、聖書を読み、その解き明かしである説教を聞いているのですが、それを生けるイエス・キリストの権威ある言葉として聞いているわけです。そのような私たちの目、また、そのような私たちの耳を、イエス様は「幸いである」と言ってくださるのです。そして、それは、旧約の預言者や正しい人たちが、見たい、聞きたいと切に願っていたことであったのです。すなわち、旧約の預言者や正しい人たちが待ち望んでいた神の国、天の国が、わたしにおいて到来していると、イエス様は言われるのです。

 では、天の国の秘密を悟ることが許されている弟子たちは、先程のイエス様のたとえをどのように聞くべきなのでしょうか?

 18節から23節までをお読みします。

 「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも、御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐに喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いていても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉をふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」  今朝の説教の準備をしていて、私は、正直、このこのたとえは難しいなぁと思いました。18節以下にイエス様による説明がありますから、分かりますが、この説明がなかったら、分かったであろうかと思います。それは、このたとえが何のたとえであるかが、書いてないからなのですね。次週学ぶことになる、「毒麦のたとえ」には、「天の国は次のようにたとえられる」という前置きがあって、たとえが語り出されますから、分かりやすいのですが、「種を蒔く人のたとえ」には、何も前置きがないのです。ですから、このたとえは、分かりづらい、難しいと思うのです。で、今朝の「種を蒔く人のたとえ」とは何のたとえなのだろうかと言うと、これは、これまでのイエス様の福音宣教を総括するたとえであるのですね。種を蒔く人とは、他でもないイエス様であるのです。イエス様は出て行って、御国の言葉を分け隔て無く人々に語りました。それは、気前よく種をばらまく人の姿にたとえられます。しかし、イエス様が語る御国の言葉を聞いて、人々はいろいろな反応を示したわけです。そのことが先の12章に記されていました。宗教的指導者である律法学者たちやファリサイ派の人々は、イエス様を安息日を汚す者として殺そうと相談しました。彼らは、イエス様が神の霊によって悪霊を追い出しているにもかかわらず、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」とイエス様と聖霊を冒涜したのです。また、群衆は、イエス様の言葉を聞いても、イエス様の業を見ても、その意味を悟ることができず、ただただ驚くばかりでありました。彼らは、イエス様に従う弟子となる決心をせずに、興味本位から集まってくる烏合の衆でありつづけたのです。しかし、他方、イエス様を信じて、イエス様の弟子となった人たちがいたのであります。この違いがどこから生じるのでしょうか?蒔かれたのは同じ種、同じ御国の言葉であるのです。ですから、その違いは、蒔かれた土壌、その心にあるのです。御言葉は神の言葉ですから、生きて働く力ある言葉であります。では、聞く者の心の状態は関係ないかと言えば、そうではありません。御言葉を聞く人の側にも、責任が問われるのです。群衆は、神様から天の国の秘密を悟る心が与えられなかったから、彼らに罪はないとは言えないのです。なぜなら、群衆は、今、イエス様から御国の言葉を聞いているからです。イエス様は、たとえを用いて、群衆の心に、御言葉の種を蒔いておられるのです。群衆の中から御言葉を悟る者が起こされることを願って、イエス様はこのたとえを語っておられるのです。イエス様は今朝、私たちの心にも、御言葉の種を蒔いておられるのであります。イエス・キリストの言葉を、生ける神の言葉として、権威ある言葉として聞き、従うとき、私たちは、本当に御言葉を悟る人であると言うことができるのです。御言葉によって自分を変えていただきたいと願って御言葉に聞くとき、私たちは豊かな実を結ぶ者となるのです。

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