神の僕イエス 2014年6月29日(日曜 朝の礼拝)

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神の僕イエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 12章9節~21節

聖句のアイコン聖書の言葉

12:9 イエスはそこを去って、会堂にお入りになった。
12:10 すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。
12:11 そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。
12:12 人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」
12:13 そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。
12:14 ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。
12:15 イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、
12:16 御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。
12:17 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
12:18 「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。
12:19 彼は争わず、叫ばず、/その声を聞く者は大通りにはいない。
12:20 正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。
12:21 異邦人は彼の名に望みをかける。」マタイによる福音書 12章9節~21節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、「安息日に麦の穂を摘む」というお話を学びましたが、今朝の御言葉は、その続きであります。安息日に麦畑を通っておられたイエス様は会堂にお入りになりました。安息日は週の七日目で、今で言う土曜日にあたります。安息日は、神様の創造の御業を覚えて休み、神様の贖いの御業を覚えて礼拝する日でありました。今朝は初めに、そのことを確認いたしましょう。申命記の5章12節から15節までをお読みします。旧約の289ページです。

 安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るように命じられたのである。

 このように、イスラエルは、安息日ごとに、エジプトの奴隷状態から導き出されたことを覚えて、いかなる仕事も止めて、神様を礼拝したのです。その安息日に、イエス様は神様を礼拝するために会堂へ入られたのです。

 では今朝の御言葉に戻ります。新約の21ページです。

 イエス様が会堂にお入りになると、そこに片手の萎えた人がおりました。人々はイエス様を訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねました。この「人々」とは2節に出てきた「ファリサイ派の人々」であると思います(14節も参照)。ファリサイ派の人々は、真面目な人々で、神様の掟を熱心に守っておりました。それゆえ彼らは、安息日にしてはならない「いかなる仕事」にどのような仕事が含まれるかをリストアップして、細則として定め、それを守るように人々を教え、さらには人々がちゃんと守っているかを監視していたのです。当時のファリサイ派の人々の考えでは、安息日に治療することは禁止されている労働に当たりました。ただし、例外として、命の危険に関わるときは許されていると考えていたのです。片手の萎えた人は、今日、治療しなければ死んでしまうといった命に関わる症状ではありませんから、ファリサイ派の人々の考えからすれば、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていない」わけです。この人は安息日ではなく、働くべき日に、癒してもらうべきであるのです(ルカ13:14参照)。しかし、イエス様はこう言われました。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている」。ここでイエス様は、人々が当然していることを引き合いに出されて論じておられます。「誰もが、安息日であっても、自分の羊が穴に落ちれば、手で引き上げて助けてやるではないか。そうであれば、羊よりもはるかに大切な人間を助けてやることがどうしてゆるされないのか?それゆえ、安息日に善いことをするのは許されている」、そうイエス様は言われるのです。ここでの「善いこと」とは具体的に言えば、「病気を治すこと」であります。ファリサイ派の人々は、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねましたが、イエス様は、「安息日に善いことをするのは許されている、律法に適っている」と言われたのです。イエス様は、前回学んだ7節で、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」というホセア書の御言葉を引用されましたけれども、神様が求める憐れみの業こそ、片手の萎えた人を治すことであるのです。それゆえ、イエス様はその人に、「手を伸ばしなさい」と言われたのであります。そして、その人がイエス様の御言葉どおりに、手を伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなったのであります。これを見て、ファリサイ派の人々はどうしたでしょうか?イエス様の力ある業を目の当たりにして、神様をほめたたえたでしょうか?そうではありませんでした。「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」のです。ファリサイ派の人々は、イエス様のうちに働いている神様の知恵の正しさを認めることができず、イエス様を安息日を汚す危険人物として殺そうとするのです。

 イエス様はそのことを知って、そこを立ち去られました。しかし、大勢の群衆はイエス様に従いました。この人たちも病気を患っていたようです。それで、イエス様はすべての人の病気を癒して、御自分のことを言いふらさないように戒められました。イエス様が御自分のことをいいふらさないように戒められたことは、これまでにも何度か記されておりましたが(8:4、9:30参照)、福音書記者マタイは、「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった」と記します。「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける」。ここで、マタイが引用しているのは、イザヤ書42章の御言葉であります。イザヤ書からそのことを確認したいと思います。旧約の1128ページです。

 見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。

 小見出しに、「主の僕の召命」とありますように、42章の御言葉はイザヤ書にある四つの僕の歌の第一の歌であります(42:1~4、49:1~6、50:4~9、52:13~53:12参照)。マタイは、イエス様こそ、イザヤが預言していた、国々の裁きを導き出す主の僕であると記すのです(8:17)。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の22ページです。

 「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける」。この御言葉は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた場面を私たちに思い起こさせます。3章16節、17節にこう記されておりました。

 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえた。

 このように、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたイエス様に神の霊である聖霊が授けられ、天から、イエス様こそ神様の愛する子であり、神様の御心に適う者であることが宣言されたのでありました。そのイエス様は、神様の御心に従う僕でもあるのです。イエス様は仕えられるためではなく、仕えるために来られた僕であられるのです(20:28参照)。そして、それゆえに、イエス様は柔和で謙遜なお方であるのです(10:29参照)。

 また、19節に、「彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにいない」とありますように、イエス様はファリサイ派の人々と争わず、そこを立ち去られました。また、群衆に御自分のことを言いふらさないようにと戒められ、大通りで自分のことを宣伝するようなことはなさいませんでした。しかし、それは正義を勝利に導くまでのことであります。イエス様は正義を勝利に導くまで、傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さないのです。「傷ついた葦」、「くすぶる灯心」とは何を指しているのでしょうか?それは、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている人々のことであります(9:36参照)。イエス様は、傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消すないメシア、救い主であられるのです。片手の萎えた人を、羊よりもはるかに大切であると見なし、安息日であっても治してくださるメシア、救い主であるのです。そのようにして、イエス様は神の御心を行う僕として、正義を勝利へと導かれるのです。ここでの「勝利」とは、十字架の死からの復活を指しております。ファリサイ派の人々は安息日に善いことをされたイエス様を殺そうとするのですが、そして実際に十字架にかけて殺してしまうのですが、神様はその十字架において、御自分の正義を満たしてくださり、イエス様を復活という勝利へと導かれるのです。それによって、ユダヤ人以外の異邦人にも正義が知らされ、すべての人がイエス様の御名に望みをかけるようになるのです。

 このイザヤ書に預言されているメシア、救い主の姿は、当時の人々が期待していたメシア、救い主の姿とはまるで違ったものでありました。それゆえ、ファリサイ派の人々は、イエス様がイザヤ書に預言されていたメシアであることを見抜くことができなかったのです。彼らが待ち望んでいたのは、傷ついた葦を折り、くすぶる灯心を消してしまうような、力強いメシア、救い主でありました。それこそ、自分たちをローマ帝国の支配から解放してくれるような力ある王を待ち望んでいたのです。しかし、イザヤが預言していたメシアであるイエス様はそのようなお方ではありませんでした。イエス様は神様の僕として、御自分を隠し、傷ついた葦やくすぶる灯心に喩えられる弱い人々を大切にし、守られるのです。そして、その弱い人々の中に、ここに集う私たちも含まれているのです。イエス様は、今も私たちを大切にお守りくださり、私たちをも勝利へと導いてくださるのです。

 私たちもイエス様によって、正義を知らされ、イエス様の名に望みをかける者たちであります。神様の正義、それは何よりもイエス・キリストの十字架において行われた神の裁きによって示されました。神様は御自分の独り子を私たちの罪のために十字架につけることによって、御自分の正義を示されたのです。ローマの信徒への手紙3章25節、26節で、使徒パウロはこう記しています。新約の277ページです。

 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。

 イエス・キリストの十字架は、全人類の罪に対する裁きでありました。神様は、イエス・キリストを十字架につけることによって、御自分の正義を世に示されたのです。そして、それは、イエス・キリストを信じる者すべてを正しい者とする、神の正義であったのです。イエス・キリストの十字架において示された神の義は、罪人を滅ぼしてしまう神の義ではなくて、罪人を救う神の義であったのであります。それゆえ、私たちは、イエス・キリストの御名に希望を置いて歩むことができるのです。イエス・キリストの御名だけが私たち人間に与えられている唯一の希望であるのです。

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