聖霊に言い逆らう罪 2014年7月13日(日曜 朝の礼拝)

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聖霊に言い逆らう罪

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 12章22節~32節

聖句のアイコン聖書の言葉

12:22 そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。
12:23 群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。
12:24 しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。
12:25 イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。
12:26 サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。
12:27 わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。
12:28 しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。
12:29 また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
12:30 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。
12:31 だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。
12:32 人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」マタイによる福音書 12章22節~32節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、マタイによる福音書12章22節から32節より、ご一緒に御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

 22節から24節までをお読みします。

 そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。

 「そのとき」とありますが、これは、その前に記されていた安息日の出来事であることを必ずしも意味していません。むしろ、その前に記されていた安息日とは別の日の出来事のようであります。しかし、文脈としてはつながっているのだと思います。14節に、「ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」とありましたように、イエス様とファリサイ派の人々との対立が決定的となった、そのときの出来事が今朝の御言葉に記されているのです。イエス様の癒しによって、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人は、ものが言え、目が見えるようになりましたが、これはイザヤ書35章に記されている預言、「そのとき、目の見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く」という預言の成就であります。それゆえ、このことを目の当たりにした群衆は我を忘れるほど驚き、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言ったのです。「ダビデの子」とは、約束のメシア、救い主を表す呼び名であります。サムエル記下の7章に記されているように、来るべきメシア、救い主は、ダビデの子孫から生まれると約束されておりました。群衆は、イエス様こそ、そのダビデの子ではないだろうか、と言ったのです。しかし、この群衆の言葉を聞いて、ファリサイ派の人々は、こう言いました。「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」。ここで、ファリサイ派の人々も、イエス様が悪霊を追い出しておられることは認めています。実際に、目が見えず口の利けない人が、イエス様によって、ものが言え、目が見えるようになった以上、ファリサイ派の人々も、イエス様が悪霊を追い出されていることは認めざるを得ませんでした。しかし、彼らは、イエス様が悪霊を追い出すことができるのは、悪霊の頭ベルゼブルの力によってである、と言うのです(9:34、10:25参照)。そのようにして、彼らは、イエス様を魔術を用いる者として殺そうとするのです。

 25節から30節までをお読みします。

 イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」

 ファリサイ派の人々は、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言いましたが、イエス様は彼らのそのような考えに対して反論いたします。第一の反論は、ファリサイ派の人々が言っているように、イエス様が悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出しているのであれば、サタンがサタンを追い出すことになり、内輪もめをしていることになる。そうであれば、サタンの国は成り立たなくなる、という反論です。ここで、イエス様はサタンの存在を、さらにはサタンの王国の存在を前提としておられます。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立っていかない」。この真理は、サタンの国にも当てはまるのです。それゆえ、イエス様が悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出しているという主張は、この真理に反しており、到底受け入れられない主張であるのです。

 ファリサイ派の人々に対するイエス様の第二の反論は、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で悪霊を追い出しているのか、という反論です。当時は、ファリサイ派の人々の仲間も悪霊払いをしていたようです(使徒19:13参照)。あなたたちは、その自分の仲間も、ベルゼブルの力によって悪霊を追い出していると言うのか、とイエス様は言われるのです。もし、そんなことを言えば、彼ら自身があなたたちを裁く者となるであろう。彼らによって、あなたたちは有罪とされるであろうとイエス様は言われるのです。ファリサイ派の人々は、自分たちの仲間に対しては、「ベルゼブルの力によって悪霊を追い出している」とは言いませんでした。しかし、イエス様に対しては、「ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言ったのです。そのように彼らの考えは一貫していなかったのです。

 28節で、イエス様は、御自分が悪霊の頭ベルゼブルの力ではなくて、神の霊で悪霊を追い出していると言われます。前々回に学んだ12章18節に、「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる」とありましたように、主の僕であるイエス様は、神の霊、聖霊を授けられたお方であるのです(3:16参照)。イエス様は聖霊を授けられた主の僕、メシア、救い主として、人々から悪霊を追い出し、様々な病や障害を癒されたのです。そして、これこそが、イエス様において、「神の国があなたたちのところに来ている」ことを表すしるしであるのです。イエス様は、ファリサイ派の人々の仲間が悪霊を追い出していることを前提としておりますが、しかし、ここで、彼らと御自分との間に一線を引き、区別しておられます。イエス様は、ファリサイ派の人々の仲間が神の霊によって悪霊を追い出しているとは一言も仰っていません。ただ御自分についてだけ、「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と言われたのです。そして、このことは、イエス・キリストの名によって二人または三人が集まる教会において、言えることであるのです。私たちは、イエス様を信じたからと言って、さまざまな病や障害が癒されたわけでありません。しかし、神の霊によって悪霊の支配から解放されて、イエス様を主と告白する者たちとされているのです。それゆえ、「イエスは主である」と告白する私たちのところに、神の国は来ているのであります。

 ファリサイ派の人々に対するイエス様の第三の反論は、御自分が悪霊の頭ベルゼブルと結託する者ではなく、むしろ、ベルゼブルを縛り上げる者であるという反論です。29節に、「まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取る事ができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ」とありますが、ここでの「強い人」とは家の主人、ベルゼブルのことであります。また、ここでの「家」や「家財道具」は、悪霊に取りつかれている人間を指しています。イエス様が悪霊に取りつかれている人から悪霊を追い出すことができるのは、イエス様が家の主人、ベルゼブルを縛ることのできる「より強い人」であるからなのです。なぜなら、イエス様は神の霊を授けられた、神の選んだ僕、神の愛する独り子であるからです。それゆえ、イエス様に味方しない者は神様に敵対する者であり、イエス様と一緒に集めない者は、神の敵であるサタンと同じ働きをする者、散らしている者であるのです。ファリサイ派の人々は、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言うことによって、自分を神の敵であるサタンの仲間に、またサタンと同じ、神の羊を散らす働きをする者にしてしまっていると、イエス様は警告されるのです。さらに、イエス様は、彼らが赦されない罪を犯していると警告されるのです。

 31節、32節をお読みいたします。

 「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、霊に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」

 「人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、霊に対する冒涜は赦されない」。このイエス様の御言葉を理解する鍵は、サムエル記上の2章25節にある、祭司エリの言葉にあるのではないかと思います。サムエル記上2章22節から25節までをお読みします。旧約の431ページです。

 エリは非常に年老いていた。息子たちがイスラエルの人々すべてに対して行っていることの一部始終、それに、臨在の幕屋の入り口で仕えている女たちとたびたび床を共にしていることも耳にして、彼らを諭した。「なぜそのようなことをするのだ。わたしはこの民のすべての者から、お前たちについて悪いうわさを聞かされている。息子らよ、それはいけない。主の民が触れ回り、わたしの耳にも入ったうわさはよくない。人が人に罪を犯しても、神が間に立ってくださる。だが、人が主に罪を犯したら、誰が執り成してくれよう。」

 しかし、彼らは父の声に耳を貸そうとしなかった。主は彼らの命を絶とうとしておられた。

祭司エリは、25節で、「人が人に罪を犯しても、神が間に立ってくださる。だが、人が主に罪を犯したら、誰が執り成してくれよう」と言いました。そのようにして、エリは息子たちに、主に対して罪を犯さないようにと諭すのです。新約の時代に生きる私たちは、神様と私たちとの間に、執り成してとして、イエス・キリストがおられることを知っております。それゆえ、私たちは神様に罪を犯しても、悔い改めて、罪の赦しをいただき、神の民として歩み続けることができるのです。しかし、イエス・キリストへの信仰を与えてくださる聖霊を冒涜する罪を犯したならば、どうなるでしょうか?もし、聖霊を冒涜する罪を犯すならば、イエス・キリストを信じることはできなくなります(一コリント12:3参照)。そうすれば、神様と私たちの間に立って、執り成してくださる方はいなくなってしまうのです。それゆえ、イエス様は、「人が犯す罪や冒涜はどんなものでも赦されるが、聖霊に対する冒涜は赦されない」と言われたのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の22ページです。

 32節で、イエス様は、「人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」と言われましたが、この御言葉はマタイ福音書にしか記されていない、解釈の難しい御言葉であります。私は、おそらくマタイ福音書が執筆された紀元80年頃が時代背景となっているのだと思います。そのことを念頭において解釈しますと、「人の子に言い逆らう者」とは、無知からイエス様に言い逆らう者のことであります(使徒9:4,5、一テモテ1:13参照)。無知のために、イエス・キリストに逆らう罪を犯しても、悔い改めて、イエス・キリストを信じるのであれば赦されるのです。では、「聖霊に言い逆らう者」とはどのような人のことを言うのでしょうか?それは、教会を通して語られる聖霊に言い逆らう者のことであります。聖霊は、聖書を通して、聖書の説き明かしである説教を通して、語っておられます(二コリント4:1~15参照)。その聖霊に言い逆らって、イエス・キリストを信じないならば、それはこの世でも後の世でも赦されることはないのです。

 聖霊は、私たち教会を用いて、すべての人をイエス・キリストのもとへと招いておられます(二コリント2:14~17参照)。この光栄を覚えて、私たちは、この地で、礼拝をささげ続けていきたいと願います。

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