安息日の主イエス 2014年6月22日(日曜 朝の礼拝)

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安息日の主イエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 12章1節~8節

聖句のアイコン聖書の言葉

12:1 そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。
12:2 ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。
12:3 そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。
12:4 神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。
12:5 安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。
12:6 言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。
12:7 もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。
12:8 人の子は安息日の主なのである。」マタイによる福音書 12章1節~8節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、11章28節から30節にあるイエス様の御言葉、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」という御言葉について学びました。それに続く今朝の御言葉には、その具体例とも言える出来事が記されています。そのことを念頭に置きながら、今朝の御言葉をご一緒に学びたいと願います。

 12章1節、2節をお読みします。

 そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。

 イエス様の時代、安息日は週の七日目、いまでいう土曜日でありました。もう少し正確に言えば、金曜日の日没から土曜日の日没までが安息日とされていたのです。今朝のウェストミンスター小教理問答で告白したように、安息日にはあらゆる労働が禁じられておりました。安息日については十戒の第四戒に記されておりますが、出エジプト記20章8節から11節にはこう記されています。旧約の126ページです。

 安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。

 このように安息日には、「いかなる仕事もしてはならない」と命じられておりました。そして、それは御自分の仕事を離れ、安息なさった主の安息にあずかるためであったのです。イスラエルの民は、安息日に神様を礼拝することによって、その日を神様の日として聖別し、神様の祝福にあずかったのです。

 では今朝の御言葉に戻ります。新約の21ページです。

 イエス様が麦畑を通られたとき、弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めました。このこと自体は、してもよいことでありました。申命記の23章26節にはこう記されています。「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」。このように、空腹になった弟子たちが麦の穂を摘んで食べたこと自体は、してもよいことであったのです。問題は、「安息日にしてもよいか」ということであります。ファリサイ派の人々は、「安息日にはしてはならない」と考えたのです。すなわち、彼らは、麦の穂を摘むことが、安息日に禁じられている労働、刈り入れにあたると考えたのです。それゆえ、ファリサイ派の人々は、イエス様に、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言ったのです。ファリサイ派の人々は、真面目な人たちでありまして、安息日にしてはならない「いかなる仕事」にどのような仕事が含まれるのかをリストアップし、細則として定めておりました。そして、これが、民衆を疲れさせる重荷となっていたわけです(23:4参照)。

 3節、4節をお読みします。

 そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。」

 イエス様は、ファリサイ派の人々から、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言われて、「すみません。これからしないようにさせます」とは言われませんでした。そうではなくて、聖書に基づいて、自分の弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べてもよいのだということを論証されるのです。イエス様がファリサイ派の人々の非難に対する論証として先ず挙げられたのは、サムエル記上21章に記されているダビデの記事であります。サムエル記上の21章1節から7節をお読みします。旧約の463ページです。

 ダビデは立ち去り、ヨナタンは町に戻った。ダビデは、ノブの祭司アヒメレクのところに行った。ダビデを不安げに迎えたアヒメレクは、彼に尋ねた。「なぜ、一人なのですか、供はいないのですか。」ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王はわたしに一つの事を命じて、『お前を遣わす目的、お前に命じる事を、だれにも気づかれるな』と言われたのです。従者たちには、ある場所で落ち合うように言いつけてあります。それよりも、何か、パン五個でも手もとにありませんか。他に何かあるなら、いただけますか。」祭司はダビデに答えた。「手もとに普通のパンはありません。聖別されたパンならあります。従者が女を遠ざけているなら差し上げます。」ダビデは祭司に答えて言った。「いつものことですが、わたしが出陣するときには女を遠ざけています。従者たちは身を清めています。常の遠征でもそうですから、まして今日は、身を清めています。」普通のパンがなかったので、祭司は聖別されたパンをダビデに与えた。パンを供え替える日で、焼きたてのパンに替えて主の御前から取り下げた、供えのパンしかなかった。

 ここに、「安息日」という言葉はありませんが、律法によるとパンを供え替える日は安息日であったので、このダビデのお話は安息日のことであると考えられておりました(レビ24:8参照)。このようにダビデは、安息日に、自分と供の者たちの空腹を満たすために、ただ祭司のほかには食べてはならない供えのパンを食べたのです。

 では今朝の御言葉に戻ります。新約の21ページです。

 イエス様は、ファリサイ派の人々への反論として、安息日であってもダビデは、自分と供の者たちの空腹を満たすために、祭司のほかには食べてはならない供えのパンを食べたことを挙げられましたが、これは少し分かりづらいかも知れません。と言いますのも、イエス様の弟子たちが麦の穂を摘んで食べ始めたことは律法で赦されていることでしたが、ダビデとその供の者たちが供えのパンを食べたことは律法で禁じられていたことであったからです。しかし、ここで前提とされたいることは、聖書がダビデとその供の者たちの振る舞いを罪に定めていないということです。少なくとも、当時の律法学者たちやファリサイ派の人々はそのように理解しておりました。それはこの行為が神の僕であり、イスラエルの王ダビデによってなされた行為であったからです。そのことを前提してイエス様は、「ダビデよりも偉大なものであるわたしの弟子たちが、安息日に律法でゆるされている麦の穂を摘んで食べたからといって、どうして、安息日を汚すことになるのか」と反論されたのです。イエス様は少し先の12章43節で、「ここに、ソロモンにまさるものがある」と言われますけれども、今朝の御言葉において、「ここに、ダビデにまさるものがある」と言われているのです。すなわち、ここでイエス様は、御自分がダビデに勝る権威を持つメシアであると主張しているのです(22:43参照)。

 5節、6節をお読みします。

 安息日に神殿にいる祭司は、安息日を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。

 イエス様はファリサイ派の人々への反論として、安息日に神殿で働いている祭司について言及されています。律法の書である民数記の28章9節に、「安息日には、無傷の一歳の羊二匹をささげ、上等の小麦粉十分の二エファにオリーブ油を混ぜて作った穀物の献げ物とぶどう酒の献げ物を添える」とありますように、祭司は、安息日においても献げ物をささげること、働くことが命じられていたのです。それゆえ、祭司は安息日に働いても、安息日を汚すことにはならないと理解されていたのです。このイエス様の御言葉も、よく分からないかも知れません。なぜなら、イエス様の弟子たちは祭司ではないからです。しかし、イエス様は、御自分が神殿よりも偉大なものであると主張することにより、弟子たちを神殿にいる祭司以上の者であると言われるのです。イエス様は、御自分を神殿よりも偉大なものと言われましたが、これは御自分を神殿に住まわれる神その方であると言われたのと同じであります。それゆえ、イエス・キリストに仕える弟子たちは安息日に働いても、安息日を汚したことにはならないのです。

 7節、8節をお読みします。

 もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。」

 ここで、イエス様はホセア書6章6節の御言葉を引用しております。9章に、「マタイを弟子にする」というお話が記されていましたが、そこでも、イエス様は、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」というホセア書の御言葉を引用しておりました。おそらく、このホセア書の御言葉は、イエス様の律法解釈の鍵となる御言葉であったと思います。ファリサイ派の人々は、神様の掟を守ることに熱心でありました。「安息日には、いかなる仕事もしてはならない」という掟を守るために、安息日に禁じられている仕事のリストを作り、その仕事をしないように人々教え、人々を見張っていたのです。しかし、イエス様は、「神様が求めるのは憐れみであって、いけにえに象徴される規定を守ることではない」と言われるのです。空腹になって麦の穂を摘んで食べ始めた弟子たちに目くじらを立て、イエス様を非難するファリサイ派の人々の心に、憐れみはありません。彼らの心には、神様が喜ばれる愛がないのです。それゆえ、彼らは罪もない人たちを罪に定めていたのです。そのようにして、神様の安息にあずかる安らぎの日が、何とも窮屈な日となってしまっていたのです。イエス様は、そのことを「安息日の主」として彼らに、また私たちに教えられるのです。イエス様は、第七の日を祝福し、聖別された「安息日の主」として、安息日においても、いや、安息日においてこそ、神様が喜ばれるのは愛であっていけにえではないと宣言されるのです。

 私たちは、イエス・キリストが復活され、弟子たちに現れてくださった週の初めの日を、安息日に準じた主の日として過ごしております。その主の日を、私たちはどのように過ごすべきであるのか?そのことを今朝、イエス様は私たちに教えてくださっているのです。そして、その鍵となる御言葉が、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」という御言葉であるのです。「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げものではない」(ホセア6:6)。この御言葉を心に留めて、私たちは主の日を、主イエス・キリストに喜ばれる日して過ごしたいと願います。

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