だれでも私のもとに来なさい 2014年6月08日(日曜 朝の礼拝)

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だれでも私のもとに来なさい

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 11章28節~30節

聖句のアイコン聖書の言葉

11:28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」マタイによる福音書 11章28節~30節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、はじめての方をお招きしての伝道礼拝であります。また、教会の暦によれば、聖霊降臨を記念するペンテコステの礼拝であります。それで、今日は午後2時半から、この教会において、埼玉東部地区合同のペンテコステ集会が行われます。埼玉東部地区にある大宮教会、せんげん台教会、草加松原伝道所、南越谷コイノニア教会、南浦和教会、羽生栄光教会、東川口教会の七つの教会の信徒たちが、このところに集まって、礼拝をささげ、祈りと交わりの時を持ちます。ぜひ、多くの方に出席していただきたいと願っています。

 先程は、マタイによる福音書11章28節から30節までに記されている、イエス・キリストの御言葉を読んでいただきました。

 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

 ここで、イエス様は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」と招いておられます。初めて教会に来られた方でも、気後れする必要はありません。なぜなら、イエス様は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」とすべての人を招いておられるからです。ちょうど、先週、私たちは、今朝の御言葉の直前にある25節から27節までを学んだのでありますが、そこでイエス様は、こう言われておりました。27節。「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父の他に子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」。ここで、イエス様は、父なる神様だけが、御子である御自分を知っておられること、そして、父なる神様を知るのは、御子である自分と自分が示そうと思う者だけであると言われました。そのような神の御子として、イエス様は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」とすべての人を招いておられるのです。このイエス様の招きに答えて、イエス様のもとへ行くとき、私たちは、御子イエス様を通して、天地の主である神様を父として知ることができるのです。そのようにして、私たちは休みを得ることができるのです。

 イエス様は、御自分のもとに来る疲れた者、重荷を負う者に、休みを与えようと言われますが、29節では、御自分について次のように言われています。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」。イエス様は、御自分を「柔和で謙遜な者である」と言われます。そのイエス様の軛を負い、イエス様に学ぶとき、「あなたがたは安らぎを得られる」と言われるのです。「軛」とありますが、軛とは何でしょうか?お配りした週報の「主の日の礼拝順序」の下に、『聖書辞典』の一部を載せておきました。そこにはこう記されています。「くびき 下面に二つのくぼみをつけたがんじょうな横木で造られた道具で、2匹の家畜(特に牛など)の首に固定させて車やすきを引かせた。2匹の牛を一つのくびきにつけたのを1くびきの牛と言う。象徴的には、苦難、服従、連帯性を意味する」。雄牛とくびきの絵があって、分かりやすいと思いますが、軛とは、2匹の家畜の首に固定させて車や鋤を引かせるための道具であります。もちろん、ここでイエス様は、文字通りの道具としての軛のことを言われているわけではありません。イエス様が、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言われる「わたしの軛」とは象徴的な意味です。では、「わたしの軛」とは何でしょうか?結論から申しますと、「わたしの軛」とは「わたしの律法」、「わたしの掟」「わたしの教え」のことです。当時のユダヤ人は、13歳で成人式を迎え、律法を守る義務を負いました。そして、そのことを「律法の軛を負う」と言ったのであります。そのような社会において、イエス様は、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言われたのです。ここで問題となるのが、「わたしの軛」と言われる「キリストの律法」が、モーセを通して与えられた神の律法とどのような関係にあるのか?ということであります。そのことを知る手がかりが、5章17節、18節の御言葉にあります。5章17節、18節で、イエス様はこう言われておりました。新約の7ページです。

 わたしが来たのは律法や預言者を廃しするためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消え失せるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。

 ここでイエス様は、御自分が来たのは、律法を廃止するためではなく、完成するため、満たすためであると言われております。私たち人間は、罪や弱さのために、神様の掟を完全に守ることはできませんが、イエス様は、その私たちに代わって、神の掟を完全に守ってくださるのです。そのようなお方として、イエス様は、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と、私たちに言われているのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の21ページです。

 イエス様は、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と言われるのですが、このイエス様の御言葉は、当時の人々が律法の軛を負って、疲れていたことを前提としています。イエス様は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われましたが、当時の人々は、神の律法という軛によって疲れ果ててたのです。しかし、これはおかしなことであります。なぜなら、神の律法は、本来、命を与えるものであるからです。詩編19編にこのように記されています。「主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めは真実で知恵を与える。主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え/主の戒めは清らかで、目に光りを与える」。このように、本来、神の律法は、魂を生き返らせ、心に喜びを与え、目に光りを与えるものであるのです。では、なぜ、人々は、神の律法によって疲れ果てていたのでしょうか?それは、神の律法を教える律法学者たちやファリサイ派の人々が、人間の教えを付け加えて、人間の教えをあたかも神の掟であるかのように教えていたからです。そのようにして、彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せていたのです(23:4参照)。また、神の掟が人々の疲れの原因となり、重荷となっていたのは、律法学者たちやファリサイ派の人々が律法を守ることによって、神様の御前に正しい者とされると教えていたからでありました。しかも彼らは、そのように教えながら自分は実行せず、人が実行するために、指一本貸そうともしなかったのです(23:4参照)。そのような律法学者たちやファリサイ派の人々から、当時の民衆は背負い切れない重荷を負わされて、疲れ果てていたのです。しかし、イエス様はそのようなお方ではありません。イエス様は、私たちに代わって神の律法を落ち度なく守り、なおかつ、私たちに代わって律法違反者として呪いの死を死んでくださるお方であるのです。そのようなイエス・キリストを通して、私たちは神の掟を与えられているのです。私たちは、イエス・キリストの御手から神の律法を受け取ったものたちであるのです。それゆえ、私たちにとって、神の律法とは、何よりもキリストの律法であるのです(一コリント9:19~21参照)。

 律法学者たちやファリサイ派の人々は、「神の律法を守れば、神に正しい者としていただける」と教えておりました。そして、このこと自体は間違ってはおりません。確かに、「律法の定めを果たす者は、その定めによって生きる」のです(ガラテヤ3:12参照)。しかし、問題は、そのように教えている者たちが、神の掟を守っておらず、また、他の人が神の掟を守ることができるように指一本貸そうとはしない、ということであるのです。そして、ここに罪と弱さを持つ人間の限界があるのです。そのような人間を救うために、神の御子イエス・キリストが、罪のない人間として生まれてくださったのです。そして、神の掟を完全に守られる方として、さらには神の掟の刑罰である十字架の死を死なれるお方として、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言われるのです。

 イエス様は、30節で、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と言われます。ここで、私たちが注意しなくてはならないのは、イエス様のもとに来たからといって、軛を負わなくてよいわけでも、荷を負わなくてもよいわけでもない、ということであります。イエス様のもとに来たら、軛を外して、何の荷も負わないでよいのではありません。私は時々、すべてのことを捨てて、南の島に行きたいと思うのですが、そのようなことをイエス様は約束されているわけではありません。依然として負うべき軛と荷はあるのです。しかし、キリストの軛は負いやすいのです。もっと大胆に翻訳すれば、キリストの軛はやわらかく、心地よいのです(岩隈訳参照)。そのキリストの軛を負うとき、荷は軽くなるのです。キリストのもとに行き、キリストの律法の中で、キリストに学んで生きるとき、私たちの人生の重荷が軽い荷となるのです。では、なぜ、キリストの律法は負いやすく、心地よいのでしょうか?それは、私たちが神の御前に正しい者とされるかどうかが私たちの行いにかかっているのではないからです。私たちは、私たちに代わって神の掟を落ち度なく守ったお方の掟として、律法をいただくのです。イエス・キリストにあって神の御前に正しいとされた者として、イエス・キリストの御手から律法をいただくのです。このキリストの律法の中で、キリストに学んで生きるとき、私たちは安らぎを得ることができるのです。なぜなら、キリストは、私たちの罪のために死に、私たちの初穂、最初の実りとして復活されたお方であるからです。

 軛は、2匹の家畜に車や鋤を引かせるための道具でありました。ですから、ある説教者は、イエス様御自身が私たち一人一人と共に、軛を負ってくださるのだと語っております。イエス様が「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言われるとき、その「わたしの軛」とは、イエス様が私たち一人一人と共に負ってくださる軛であると言うのです。このように聞いて、皆さんはどう思われるでしょうか?イエス様と共に軛を負って、歩むことなど到底できないと思われるでしょうか?しかし、そのようなを心配する必要はありません。なぜなら、イエス様は、柔和で謙遜なお方であるからです。イエス様は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負われるほどに、柔和で謙遜なお方であるのです(イザヤ53:10参照)。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」と言われるイエス様は、御言葉と聖霊において私たち一人一人と共にいてくださり、共に歩んでくださるお方であるのです。

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