裁きの日には 2014年5月25日(日曜 朝の礼拝)

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裁きの日には

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 11章20節~24節

聖句のアイコン聖書の言葉

11:20 それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。
11:21 「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。
11:22 しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。
11:23 また、カファルナウム、お前は、/天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。
11:24 しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」マタイによる福音書 11章20節~24節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、マタイによる福音書11章20節から24節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。

 20節から22節までをお読みします。

 それからイエスは、数多くの奇跡が行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたに違いない。しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が軽い罰で済む。」

 今朝の御言葉で、イエス様は、町々を叱っておられます。なぜ、イエス様は、町々を叱られたのでしょうか?それは、イエス様が数多くの奇跡を行われたのに、町々が悔い改めなかったからであります。私たちが用いている新共同訳聖書は、「奇跡」と翻訳していますが、新改訳聖書を見ますと、「力ある業」と翻訳しています。イエス様は、御自分が数多くの力ある業を行った町々が悔い改めなかったので、その町々を叱り始められたのです。このことは、前回学んだ19節の御言葉と関係しています。イエス様は、19節でこう言われました。「人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される」。ここで「働き」と訳されている言葉は「もろもろの業」とも訳すことができます。そして、この「もろもろの業」こそ、2節に記されていた、ヨハネが牢の中で聞いた、キリストのもろもろの業であり、さらには、4節に記されていた、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」というもろもろの業であったのです。神の知恵は、そのようなキリストのもろもろの業によって正しいとされたのでありました。イエス様は数多くの力ある業によって、御自分が来たるべき方、メシア、救い主であることをお示しになられたのです。しかし、その数多くの力ある業を見ても、人々は悔い改めませんでした。悔い改めるとは、神様に立ち返ることでありますが、その町々の人々はイエス様の数々の力ある業を目の当たりにしながら、イエス様のうちに働いておられる神様へと立ち返ろうとしなかったのです(ヨハネ5:36参照)。このことは、私たちにとって、ある種の驚きではないでしょうか?私たちは、イエス様のような力ある業をすることができさえすれば、神様を信じる人がもっと起こされるのに、と考えるのでありますが、実際、イエス様が数多くの力ある業を行っても、それを見た人々は、悔い改めなかったのです。彼らは、イエス様のうちに働いている神様の知恵を認めることができなかったのです。そして、このことに、イエス様御自身が誰よりも驚いておられるのです。数多くの力ある業を行ったにも関わらず、悔い改めない人々の不信仰にイエス様は驚かれ、そして、こう叱り始められるのです。「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりもまだ軽い罰で済む」。イエス様は、ここでガリラヤの町、コラジンとベトサイダの名前を挙げておりますが、コラジンについては、このところと、ルカ福音書の並行箇所にしか出てきませんので、よく分かりません。巻末の聖書地図の「6 新約時代のパレスチナ」を見ますと、カファルナウムの少し上にコラジンと記されています。コラジンはカファルナウムの北3キロメートルに位置する町でありました。マタイによる福音書は、イエス様がコラジンで行った数多くの力ある業について記しておりませんが、今朝の御言葉から私たちは、イエス様がコラジンにおいても、数多くの力ある業を行ったことが分かります。つまり、マタイによる福音書は、イエス様がなされたすべての業を記しているわけではないのです。ヨハネによる福音書の最後のところに、「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」とありますが、福音書記者マタイも、イエス様がなされた数多くの力ある業から代表的なものを私たちに示してくれているに過ぎないのです(ヨハネ21:25)。ですから、私たちは、8章から9章に渡って記されているイエス様の力ある業が、コラジンにおいても、またベトサイダにおいても行われたと考えてよいのです。

 イエス様は、「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ」と言われていますが、これは断罪の言葉でも、呪いの言葉でもありません。事実を事実として語る、いわば叙述の言葉であります。コラジンも、ベトサイダも不幸であるのです。その不幸がどれほどの不幸であるかを、イエス様は、旧約聖書に記されているシドンやティルスと比較することによって教えられるのです。「ティルスやシドン」は、地中海沿岸に位置する異邦人の町でありますが、旧約聖書を見ますと、しばしばティルスやシドンに対する裁きの言葉が預言されています。ティルスやシドンは、海上貿易によって築いた富を誇る高慢の罪のゆえに、さらには神でないものを神とする偶像礼拝の罪のゆえに、主によって裁かれたのです。主なる神は預言者アモスを通して、「わたしはティルスの城壁に火を放つ。火はその城郭をなめ尽くす」と言われましたが、その預言は、後にギリシア帝国によって現実のものとなったのです(アモス1:10)。そのティルスやシドンで、イエス様がコラジンやベトサイダで行われた力ある業を行っていれば、ティルスやシドンはとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めにちがいないと言われるのです。コラジンやベトサイダに住む人々は、ティルスやシドンに住む人々よりも不信仰であるとイエス様は言われるのです。コラジンやベトサイダに住む人々は、当然、自分たちはティルスやシドンに住む人々よりは信心深いと考えておりました。しかし、イエス様はそのようなコラジンとベトサイダに住む人々にはっきりと言われるのです。「裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む」。誤解のないように言いますが、このイエス様の御言葉は断罪する言葉でも、裁きの言葉でもありません。これは、いわば警告の言葉であります。悔い改めなかった町々に、悔い改めを迫る言葉です。そもそも、叱るとは、そのようにならないことを願って叱るわけです。このイエス様の言葉を読んで、イエス様がかつて裁かれたティルスやシドンで力ある業を行っていたら、本当に悔い改めただろうかと考えても意味はありません。ここで、イエス様が仰いたいことは、かつて裁かれたティルスやシドンよりも、裁きの日には重い刑罰を受けなければならないことを覚えて、コラジンやベトサイダが悔い改めることであるのです。

 23節、24節をお読みします。

 「また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられると思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」

 カファルナウムは、イエス様が住まわれた町であり、ガリラヤ宣教の拠点とも言える町でありました(4:13、9:1参照)。しかし、カファルナウムに住む人々も、イエス様の数多くの力ある業を目の当たりにしながら、悔い改めませんでした。イエス様において、天の国が、神の王的支配が到来しているにも関わらす、人々は神の王的支配を受け入れないのです。そればかりか、彼らは、自らを誇る高慢の罪を犯すのです。「カファルナウム、お前は、天にまで上げられると思っているのか。陰府にまで落とされるのだ」。このイエス様の御言葉は、イザヤ書14章に記されている「バビロンの滅亡」の預言を背景にしています。イザヤ書の14章12節から15節までをお読みします。旧約の1082ページです。

 ああ、お前は天から落ちた/明けの明星、曙の子よ。お前は地に投げ落とされた/もろもろの国を倒した者よ。かつて、お前は心に思った。「わたしは天に上り/王座を神の星よりも高く据え/神々の集う北の果ての山に座し/雲の頂に登って/いと高き者のようになろう」と。しかし、お前は陰府に落とされた/墓穴の底に。

 イエス様は、御自分が住んでおられることで高ぶっているカファルナウムを、自分を神のようなものとしたバビロンになぞらえて、「お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ」と言われるのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の20ページです。

 さらに、イエス様は、「お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったに違いない」と言われます。「ソドムの滅亡」については創世記の19章に記されていますが、ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していたゆえに、天から降ってきた硫黄の火によって滅ぼされたのでありました(創世13:13、19:24、25参照)。今、ソドムは、死海の底に沈んでいると言われております。しかし、イエス様は、カファルナウムでなされた数多くの力ある業が、ソドムで行われていれば、ソドムは悔い改め、滅ぼされることはなかったであろう、と言われるのです。カファルナウムに住む人々は、自分たちはソドムの人々よりも善良であり、重い裁きを受けることはないと考えていました。しかし、イエス様は、「裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである」と言われるのです。ここでもイエス様は、カファルナウムを断罪しているのでも、裁いてしまっているのでもありません。むしろ、裁きの日に、ソドムよりも重い罰を受けることがないように、悔い改めることを求めておられるのです。このままでは、あなたたちはソドムの住民よりも重い罰を受けることになる。そうならないように、悔い改めなさい、わたしの力ある業に神の知恵を認めて、わたしをメシア、救い主と信じなさい、と招いておられるのです。

 今日の御言葉において、私たちが、先ず教えられることは、イエス様が数多くの力ある業を行ったにも関わらず、ガリラヤの町々に住む人々が悔い改めなかったということであります。では、イエス様は、ガリラヤの町々に住む人々に滅びを宣言されたかと言えば、そうではありません。今朝の御言葉は滅びの宣言ではなく、滅びてはならないというお叱りの言葉であります。イエス様は、ここで深く悲しみ、うめいておられるのです。新共同訳聖書は、21節を、「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ」と翻訳していますが、新改訳聖書は、この所を「ああコラジン、ああベツサイダ」と翻訳しています。元の言葉は、「ウーアイ」という言葉で、深い悲しみを表す感嘆詞としても用いられるのです。イエス様は、悔い改めない町々のためにうめきとも言える深い悲しみを抱いておられるのです。それは、イエス様が、「裁きの日」を見据えているからです。私たちは、どうでしょうか?私たちは、イエス様のように力ある業を行うことができませんけれども、この町で福音を告げ知らせています。私たちの教会は、この地で35年ほどの歩みを重ねております。しかしながら、多くの人々は悔い改めて、イエス様を神の子、救い主とは信じておりません。そのような現状に対して、私たちはどのような思いを抱くでしょうか?おそらく、諦めに似た思いを抱いているのではないでしょうか?しかし、私たちの主であるイエス様は、決してそうではありません。イエス様は、悔い改めない人々のために深く悲しみ、叱られるのです。なぜ、私たちは、悔い改めない人々を深く悲しみつつ、叱ることができないのでしょうか?それは、私たちが、裁きの日を真剣に考えていないからではないかと思います。多くの日本人は、人は死んだら誰もが天国に行くことを期待しています。私も時々、本当にそうであったらどんなによいか、と考えることがあります。しかし、もし、そのように考えるならば、私たちはソドムの罪よりも重い罰を受けることを覚悟しなくてはならないのです。なぜなら、それはイエス・キリストの十字架と復活を否定することであるからです。

 イエス様は、裁きの日の到来を見据えて、悔い改めない町々のために深く悲しみ、叱られました。イエス様は彼らの罪を担って、十字架の上で裁きを受けられるお方として、彼らのために深く悲しみ、叱られるのです。マタイによる福音書は、イエス様が十字架につけられた「昼の十二時に全地は暗くなり、それが三時まで続いた」と記しておりますが、十字架につけられたイエス様の上に、主の裁きは降ったのです。それゆえ、イエス様は十字架の上で、すべての人の罪を担い、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです。イエス・キリストの十字架において、主の裁きは、隠れた仕方で行われたのです。その隠れた仕方でなされた主の裁きが、誰の目にも明らかな仕方で公になされるのが、イエス・キリストが栄光の主として再び来られる終わりの日であるのです。私たちはイエス・キリストの十字架において既に到来した裁きの日と、イエス・キリストの再臨によってこれから到来する裁きの日を視野におさめながら、粘り強く、福音を宣べ伝えてゆきたいと願います。

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