預言者以上の者 2014年5月11日(日曜 朝の礼拝)

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預言者以上の者

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 11章7節~15節

聖句のアイコン聖書の言葉

11:7 ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。
11:8 では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。
11:9 では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。
11:10 『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの前に道を準備させよう』/と書いてあるのは、この人のことだ。
11:11 はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。
11:12 彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。
11:13 すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。
11:14 あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。
11:15 耳のある者は聞きなさい。マタイによる福音書 11章7節~15節

原稿のアイコンメッセージ

 先程は、11章2節から15節までを読んでいただきましたが、前回、2節から6節までを学びましたので、今朝は7節から15節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っています。

 7節から10節までをお読みします。

 ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に荒れ野へ行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に荒れ野に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。」

 イエス様は、ヨハネの弟子たちが帰ると、群衆にヨハネについて話し始められましたが、このところは3章の記述を背景にして語られています。それで今朝は、記憶を新たにするために、もう一度3章1節から12節までを読みたいと思います。新約の4ページです。

 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」

 ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、またヨルダン川沿いの地方一体から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履き物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

 少し長く読みましたが、5節に、「そこで、エルサレムとユダヤ全土から、またヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て」とありますように、洗礼者ヨハネのもとに、多くの人々が集まったのです。そして、その人々の中に、イエス様の周りにいた群衆も含まれていたのです。イエス様は、かつて彼らがヨハネのもとへ行ったことを思い起こさせつつ、「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか」と問われるのです。では、今朝の御言葉に戻ります。新約の19ページです。

 イエス様は、群衆に、「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか」と問われますが、なかなかその答えを仰いません。ヨルダン川の川辺に生えている風にそよぐ葦を見に荒れ野へ行ったのではないことは明らかであります。また、しなやかな服を着た人を見に荒れ野へ行ったのでないことも明らかであります。なぜなら、しなやかな服を着た人は荒れ野ではなく、王宮にいるからです。では、彼らは何を見に荒れ野へ行ったのでしょうか?イエス様は、「預言者である」と言われます。いや、「預言者以上のものである」と言われるのです。なぜなら、洗礼者ヨハネこそ、『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わしあなたの前に道を準備させよう』と預言されていた預言者であるからです。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう」。この御言葉は、旧約聖書のマラキ書3章1節からの引用であります。イエス様は、マラキ書の預言を引用しつつ、ヨハネこそ、御自分の前に遣わされた、御自分の道を準備させる使者である、と言われたのです。それゆえ、イエス様は、洗礼者ヨハネを「預言者よりも優れた者」と言われるのです(新改訳参照)。

 11節をお読みします。

 「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」

 ここで「はっきり言っておく」と翻訳されている言葉は、直訳すると「アーメン、私はあなたがたに言う」となります。これは、イエス様が権威をもって語られる決まった言い回しであります。イエス様は、御子としての権威をもって、「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」と断言されたのです。これは、洗礼者ヨハネに対する最高の賛辞、ほめ言葉であります。この時、ヨハネは、領主ヘロデ・アンティパスによって、捕らえられ、牢の中におりました。牢の中から、弟子たちを送って、イエス様に「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねたのです。前回の説教でも言いましたように、このヨハネの問いは重たい問いであります。ヨハネの生涯がかかった問いであったのです。なぜなら、ヨハネは、自分こそ来たるべき方の前に遣わされた者であると自覚していたからです。そのようなヨハネに、イエス様は、イザヤ書の御言葉を引用しつつ、自分こそが来たるべき方、メシアであることを示されたのでありました。そして、御自分を信じる幸いに生きるよう、ヨハネを招かれたのです。そのようなヨハネについて、イエス様は、「預言者以上の者である」とお語りになり、さらには、「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」と言われるのです。これは、イエス様の洗礼者ヨハネについての評価でありますね。イエス様はヨハネが神様から与えられた使命をしっかりと果たしたことを公言されたのです。

 しかし、気になるのは、それに続く、イエス様の御言葉であります。「しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」。ここで、イエス様はヨハネを引き下げているわけではありません。むしろ、この言葉によって、ヨハネの偉大さ、大きさがどこにあるのかをお示しになるのです。イエス様は、「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」と言われましたが、ヨハネの偉大さ、大きさは、彼の資質や能力によるものではありません。ヨハネの大きさ、されは神様からいただいた恵みの大きさであるのです。そのことは、11節を口語訳聖書の翻訳で読むと分かりやすいと思います。「あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起こらなかった。しかし、天国でもっとも小さい者も、彼よりは大きい」。新共同訳聖書では「偉大」と訳されている言葉が、口語訳聖書では「大きい」と訳されています。イエス様は、何をもって大きいとか、小さいとか言われたのでしょうか?それは、神様から受けた恵みをもってであります。洗礼者ヨハネは、来たるべき方であるイエス様の前に遣わされた旧約の最後の預言者でありました。これまでの預言者たちは、救い主が来られることを預言しましたが、ヨハネはその救い主にお会いして、この方こそ来たるべきお方であると、イエス様を人々に紹介したのです。それゆえ、ヨハネは旧約の預言者の中で、さらには旧約の人々の中で、最も大きな恵みにあずかったのです。しかし、イエス様は、天の国で最も小さな者でも、彼よりは大きいと言われるのであります。「天の国で最も小さな者」とは、イエス・キリストを信じて、神様の御支配に生かされている私たちのことであります。イエス・キリストにおいて、天の国はこの地上に到来しました。その天の国に生かされている私たちは、洗礼者ヨハネよりも大きな恵みをいただいているのです。私たちは、イエス・キリストにあって、神様の御前にすべての罪が赦され、正しい者、神の子とされているのです。約束の聖霊を与えられ、神様をアッバ父よと呼び、祈ることのできる幸いにあずかる者とされているのです。ですから、私たちは洗礼者ヨハネよりも大きな者であるのです。

 12節をお読みします。

 彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。

 この御言葉は、大変解釈が難しい御言葉であります。いろいろな解釈がありますが、私の解釈を申しますと、ここでイエス様は、到来した天の国に対して加えられる迫害、暴力について述べておられます。ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスが洗礼者ヨハネを捕らえ、牢の中に入れたのも、天の国を力ずくで奪い取ろうとする営みであるのです。ヘロデがヨハネを牢に入れた理由については、14章3節に、「実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻へロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた」と記されていますが、それだけではなかったと思います。ヘロデは、洗礼者ヨハネの影響力が人々にこれ以上広がることを恐れて、ヨハネを捕らえ、牢に入れたのです(ヨセフス『ユダヤ古代史6』50頁参照)。

 イエス様は、「彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている」と言われましたが、このことは21章に記されている「ぶどう園と農夫のたとえ」を思い起こすとよく分かるのではないかと思います。農夫たちがぶどう園を自分のものとするために、主人から遣わされた僕たちを殺してしまったように、さらには、主人の息子を殺してしまったように、天の国は力ずくで襲われているのです。そのような文脈において、洗礼者ヨハネは首を切られ、イエス様も十字架に磔にされてしまうのです。神様の御支配ではなくて、自分の支配を打ち立てようとする力ある者たちが、その力によって、天の国を奪い取ろうとしている。力ある者たちは、自分を神として崇めることによって、自分に絶対的な服従を求めることによって、神の国を奪い取ろうとしているのです。ヨハネの黙示録に記されている宗教的権威と結びついた国家権力は、その最たるものであります(かつての日本の国家神道体制、天皇制と結びついた国家主義!)。キリストの教会である私たちは、そのような激しく襲う者たちと戦っていかなくてはならないのです。

 13節から15節までをお読みします。

 「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。耳のある者は聞きなさい。」

 イエス様は12節で、ヨハネの活動の始まりから天の国が到来したかのようにお語りになりましたが、ここでは、「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである」と、ヨハネを旧約の最後の預言者としてお語りになります。さらに、イエス様は、「あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである」と言われるのです。このイエス様の御言葉もマラキ書の預言を背景にしております。マラキ書の3章19節から24節をお読みします。旧約の1501ページです。

 見よ、その日が来る/炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は/すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには/義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように/躍り出て跳び回る。わたしが備えているその日に/あなたたちは神に逆らう者を踏みつける。彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため/ホレブで掟と定めを命じておいた。見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。

 23節に、「見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす」とありますように、イエス様の時代の人々は、主の日の到来の前に、エリヤが遣わされると信じておりました。エリヤについては、列王記下の2章に、生きたまま、天に上げられたことが記されています。ですから、人々は、生きたまま天に上げられたエリヤその人が、主の日の前に遣わされると信じていたのです。しかし、イエス様は、洗礼者ヨハネこそ、「現れるはずのエリヤである」と言われるのです。しかし、それは誰にでも認められることではありません。「あなたがたが認めようとすれば分かることだが」と言われているように、洗礼者ヨハネが現れるはずのエリヤであると分かるには、あることを認める必要があるのです。それは、イエス様こそ、世の終わりに来られる主なる神その方である、ということであります。マラキ書は、「わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように」という主の御言葉で終わっておりますけれども、その「わたし」こそが、主イエス・キリストであられるのです。洗礼者ヨハネが証しした来たるべき方を来たるべき方として受け入れるとき、ヨハネが現れるはずのエリヤであることを認めることができるのです。そして、このことは、私たちが今朝、注意して聞くべきことであるのです。

 今朝の説教題を「預言者以上の者」とつけました。「預言者以上の者」、それは洗礼者ヨハネのことでありますが、また、イエス・キリストを信じ、天の国の恵みにあずかっている私たちのことでもあります。私たちは、洗礼者ヨハネ以上に、イエス・キリストにおいて到来した神の国について語ることができるのです。神の国に今、生かされている者として、その恵みを自らの体験として証しすることができるのです。そのことを覚えて、私たちはかつて来られ、やがて来られる主イエス・キリストを宣べ伝えて行きたいと願います。

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