来たるべき方 2014年5月04日(日曜 朝の礼拝)

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来たるべき方

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 11章2節~6節

聖句のアイコン聖書の言葉

11:2 ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、
11:3 尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」
11:4 イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。
11:5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。
11:6 わたしにつまずかない人は幸いである。」マタイによる福音書 11章2節~6節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、マタイによる福音書11章2節から6節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

 2節、3節をお読みします。

 ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」

 ここでの「ヨハネ」とは、3章に記されておりました「洗礼者ヨハネ」のことであります。「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた」とありますように、このとき、洗礼者ヨハネは囚われの身でありました(4:12参照)。洗礼者ヨハネは領主ヘロデ・アンティパスによって捕らえられ、牢に入れられていたのです。その理由については、14章3節、4節にこう記されています。「実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻へロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。ヨハネが、『あの女と結婚することは律法で許されていない』とヘロデに言ったからである」。洗礼者ヨハネは、領主ヘロデが近親相姦の罪を犯していることを非難したゆえに、捕らえられ、牢獄の中にいたのです。そして、その牢獄の中で、キリストのなさったことを聞いたのです。元の言葉から直訳すれば、「キリストのもろもろの業を聞いた」のであります。ここで、「キリスト」とありますが、これは福音書記者マタイによる叙述の言葉でありまして、ヨハネがイエス様を「キリスト」と言っているわけではありません。なぜなら、ヨハネは、自分の弟子たちを送って、こう尋ねさせているからです。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たねばなりませんか」。「来るべき方」とはキリスト、メシア、救い主のことであります。福音書記者マタイは、「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた」と記すのですが、ヨハネは、イエス様が来たるべき方、キリストであるのかを疑っているのです。私たちは、このヨハネの質問に驚きを覚えるのではないでしょうか?なぜなら、洗礼者ヨハネこそ、イエス様を「来たるべき方」として紹介した人物であったからです。3章1節から15節までをお読みします。新約の4ページです。

 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」

 ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。

 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来られる方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履き物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕をもって、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。

 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。

 少し長く読みましたが、ヨハネがイエス様に「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」と言っておりますように、ヨハネはイエス様が自分の後から来る方、聖霊と火で洗礼をお授けになる方であることを知っておりました。しかし、今朝の御言葉において、ヨハネは弟子たちを通じて、「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たねばなりませんか」と質問するのです。なぜ、ヨハネは、弟子たちを通じて、このようなことを質問したのでしょうか?色々なことが考えられますが、その最たる理由は、ヨハネが思い描いていた来たるべき方と、イエス様が違っていたからであると思います。ヨハネが思い描いた来たるべき方、それは何よりも裁き主としてのメシアであります。「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」とヨハネが言っておりますように、ヨハネにとって、来たるべき方は、何よりも裁き主であるメシアであったのです。裁きによって神の義を実現してくださるメシア、それがヨハネの思い描くメシア、救い主の姿であったのです。しかし、牢の中にいるヨハネの耳に聞こえてくるイエス様のうわさは、裁き主であるメシアとはかけ離れたものでありました。それゆえ、ヨハネは、牢の中から弟子たちを送って、イエス様に、「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねたのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の19ページです。

 4節から6節までをお読みします。

 イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」

 イエス様は、「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」と言われました。ここでの「見聞きしていること」は、もう少し丁寧に訳すと、「聞いたことと見たこと」となります。イエス様は、「行って、聞いたことと見たことをヨハネに伝えなさい」と言われたのです。この「聞いたことと見たこと」は、これまでの福音書記者マタイの記述を反映しております。福音書記者マタイは、5章から7章に渡って、イエス様の教えについて記しました。そして、8章、9章に渡って、イエス様の業について記したわけです。ですから、この福音書を最初から学んできた私たちも、イエス様の教えを聞き、イエス様の業を見たということができるのです。イエス様はヨハネの弟子たちが聞いたことと見たことを具体的にこう言われました。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」。ここでイエス様が言われていることは、これまでなされてきた力ある業と権威ある教えの要約でありますが、実は、旧約聖書のイザヤ書の預言を背景として語られています。その預言とは、イザヤ書の35章5節と61章1節であります。まず、イザヤ書35章から見て行きたいと思います。旧約の1116ページです。イザヤ書35章1節から6節までをお読みします。

 荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ/大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ/カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。

 弱った手に力を込め/よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。

 そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように踊り上げる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。

 預言者イザヤは、「神が来て、あなたたちを救われるとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように踊り上げる。口の利けなかった人が喜び歌う」と預言しました。イエス様は、このイザヤの預言を背景にして、自分がなした力ある業についてヨハネに伝えるよう言われたのです。つまり、イエス様は御自分において、イザヤの預言が成就していることをヨハネに悟らせようとしておられるのです。イエス様は、イザヤの預言を成就する救いをもたらす方として、目の見えない人を見えるように、足の不自由な人を歩くことができるようにされるのです。また、イエス様はイザヤの預言を実現する者として、貧しい人々に福音を告げ知らせるのです。イザヤ書の61章1節に次のようにこう記されています。旧約の1162ページです。

 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には開放を告知させるために。」

 イエス様は、主から油を注がれたメシア、神の霊を限りなく注がれた方として、貧しい人々に福音を宣べ伝えられます。イエス様は御自分において、天の国が到来していることを宣べ伝えられるのです。イエス様は、今も、説教者を通して、貧しい人々に福音を告げ知らせておられるのです。それゆえ、このところにも確かに神の国は来ていると言えるのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。

 イエス様は、ヨハネへの伝言の最後に、「わたしにつまずかない人は幸いである」と言われました。これは、牢の中にあって、イエス様が来たるべき方であるかどうかを不信に思っているヨハネに対する招きの言葉であります。イエス様は、御自分のもろもろの業を、イザヤ書の預言の成就として理解することにより、御自分をキリスト、救い主として信じ続ける幸いへと、ヨハネを招いておられるのです。ヨハネだけではありません。ここに集う、私たち一人一人を御自分を信じる幸いへと招いておられるのです。

 「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、他の方を待たなければなりませんか」。この洗礼者ヨハネの問いは、まことに重い問いであります。なぜなら、この問いにはヨハネの生涯がかかっているからです。そして、そのことは、イエス・キリストを信じて生きる私たちにおいても同じなのではないでしょうか?「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、他の方を待たなければなりませんか」。このヨハネの問いは、私たち自身の問いであると言えるのです。いや、現代の日本社会に生きる私たちの問いは、もっと深刻であるかも知れません。「神様はいるのでしょうか?それともいないのでしょうか?」そのような深刻な問いを抱くことがあるのではないでしょうか?そのような深刻な問いに答えてくださるのは、聖書の御言葉を通して御自身を証ししてくださる神様御自身であります。そして、神様は、御自分をイエス・キリストにおいて、最終的に、決定的にお示しになられたのです。それゆえ、私たちは、イエス・キリストが御言葉と聖霊において出会ってくださる主の日の礼拝においてこそ、神様がおられることを知り、イエス様が救い主であることを知ることができるのです。神様に依り頼む、貧しい者として、福音に耳を傾けることにより、私たちは、イエス様を救い主と信じる幸いに生きることができるのです。

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