自分の十字架を担って従う 2014年3月30日(日曜 朝の礼拝)

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自分の十字架を担って従う

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 10章34節~39節

聖句のアイコン聖書の言葉

10:34 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
10:35 わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。
10:36 こうして、自分の家族の者が敵となる。
10:37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
10:38 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。
10:39 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」マタイによる福音書 10章34節~39節

原稿のアイコンメッセージ

 マタイによる福音書10章には、弟子たちに対する宣教についての教えがまとめて記されております。今朝は、34節から39節までをご一緒に学びたいと願っています。

 34節から36節までをお読みします。

 わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。

 イエス様は、「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない」と言われます。このことは、来たるべきメシア、救い主が平和をもたらすと考えられていたことを前提としています。イザヤ書9章5節に、「その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」とありますように、来たるべきメシアは、平和をもたらしてくださると考えられていたのです。しかし、イエス様は、「平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」と言われるのです。ここでの「剣」は、争いの象徴であります。イエス様は、「わたしは平和ではなく、争いをもたらすために来た」と言われるのです。そして、その争いは、最も親密な関係にある家族の間にもたらされるのです。そのようにして、旧約聖書の預言が現実のものとなるのです。35節後半に、「人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして自分の家族の者が敵となる」とありますが、これはミカ書7章6節からの引用であります。実際に確かめて見たいと思います。旧約の1457ページです。

ミカ書7章1節から7節までをお読みします。

 悲しいかな/わたしは夏の果物を集める者のように/ぶどうの残りを摘む者のようになった。もはや、食べられるぶどうの実はなく/わたしの好む初なりのいちじくもない。主の慈しみに生きる者はこの国から滅び/人々の中に正しい者もいなくなった。皆、ひそかに人の命をねらい/互いに網で捕らえようとする。彼らの手は悪事にたけ/役人も裁判官も報酬を目当てとし/名士も私欲をもって語る。しかも、彼らはそれを包み隠す。彼らの中の最善の者も茨のようであり/正しい者も茨の垣に劣る。お前の見張りの者が告げる日/お前の刑罰の日が来た。今や、彼らに大混乱が起こる。隣人を信じてはならない。親しい者にも信頼するな。お前のふところに安らう女にも/お前の口の扉を守れ。息子は父を侮り/娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。人の敵はその家の者だ。しかし、わたしは主を仰ぎ/わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる。

 ここには、「見張りの者が告げる日」、「刑罰の日」である主の日に起こる大混乱が預言されています。そのような文脈の中で、6節の「息子は父を侮り/娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。人の敵はその家の者だ」という御言葉が記されているのです。イエス様は、御自分が来られたことにより、このミカ書の預言が実現しているとお語りになったのです。それにしても、イエス様が来られたことにより、なぜ、自分の家族が敵となるような事態が生じるのでしょうか?それは、家族の中から、イエス・キリストを信じる者と信じない者とが出てくるからであります。イエス・キリストを、息子も父も、娘も母も、嫁もしゅうとめも信じれば仲たがいは起きないわけですが、実際は、家族の中から、イエス・キリストを信じる者と信じない者とが出てくるので、家族の中に争いが生じるのです。現代の日本社会においては、日本国憲法で、信教の自由が保証されておりますから、それほど激しい争いが生じるということはないかも知れません。しかし、現実には、イエス・キリストを信じることによって、他の家族との間に亀裂が生じたり、悪口を言われ、寂しい思いをすることはあると思います。それは、イエス様がミカ書の預言を実現されるメシアとして、来られたからであるのです。では、今朝の御言葉に戻ります。新約の19ページです。

 37節から39節までをお読みします。

 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。

 イエス様を信じることにより、自分の家族が敵となる事態が生じるわけですが、イエス様は、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」と言われます。誤解のないように申しますが、ここでイエス様は、「父や母を愛する」ことを、また、「息子や娘を愛する」ことを禁じているのではもちろんありません。イエス様は弟子である私たちに、父や母を愛する以上の愛を、また息子や娘を愛する以上の愛を求めておられるのです。これはイエス様が、「メシア、生ける神の子」であられるからですね。イエス様は御自分が、メシア、生ける神の子であられるゆえに、父や母よりも、また、息子や娘よりも、御自分を愛することを、弟子である私たちに求められるのです。

 また、イエス様は、「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」と言われました。私たちは、後に、イエス様が、御自分がはりつけにされる十字架の横木を担って歩まれたことを知っております。そのイエス様の弟子として、私たちも自分の十字架を担って、イエス様に従うことが求められているのです。イエス様が、十字架を担ってくださいましたから、その弟子である私たちは十字架をもう担わなくてよいのではありません。師匠であり、主人であるイエス様が、自分の十字架を担って歩まれたように、その弟子であり、僕である私たちも自分の十字架を担って従うことが求められているのです。イエス様が担われた自分の十字架とは何でしょうか?それは父なる神様の御心に従って、全人類の罪を担って、十字架のうえで命を捨てることでありました。それは、まことの神であり、まことの人であるイエス様だけが担うことのできた十字架であります。では、その弟子である私たちが担う十字架とは何でしょうか?それは、一言で言えば、イエス・キリストのゆえに迫害されること、苦しみを受けることであります。私たちは、イエス・キリストの名のゆえに受ける迫害や不利益を、自分の十字架として担い、イエス様に従うことが求められているのです。イエス・キリストの弟子になるということは、広くて楽な道を歩むことではありません。イエス・キリストの弟子になるということは狭くて険しい道を歩むことであります。私たちは、イエス様が十字架を担って歩んでくださったから、自分は何も担わずに歩んでいくことができると思いたいのですが、それは間違いであります。弟子である私たちには、自分の十字架を担って、イエス様に従うことが求められているのです。そして、その十字架とは、私たちのために命を捨ててくださったイエス様の名のゆえに迫害を受け、苦しむことであるのです。イエス様が、私たち一人一人を、十字架で命を捨てるほどに愛してくださいましたから、私たちは、父や母よりも、息子や娘よりも、イエス様を愛し、自分の十字架を担ってイエス様に従うが求められているのです。そして、そのようにしてこそ、私たちは、まことの命を、永遠の命を得ることができるのです。

 39節に、「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」とありますが、これは、前回学んだ32節、33節の御言葉を背景として読むとよく分かると思います。32節、33節にこう記されておりました。「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う」。この御言葉は、イエス様のために、地方法院へ引き渡され、裁判を受ける場面が背景となっています。イエス様について告白するならば、殺されてしまうかも知れない。そのような状況が背景となっているのです。そのとき、自分の命を得ようとするならば、聖霊の導きに逆らって、イエス様を知らないと言えばいいわけですね。しかし、イエス様は、「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」と言われるのです。自分の命を得ようとして、人々の前でイエス様を知らないという人は、命を失ってしまう。なぜなら、イエス様も、天の父の前でその人を知らないと言われるからです。しかし、イエス様のために、イエス様を愛する心から、「イエスは主である」と公に告白する者は、かえってそれを得ることになるのです。なぜなら、イエス様も天の父の前で、その人を、「これは私の僕であり、弟子である」と告白してくださるからです。「イエス様のために、命を失う」。これは、自分の命よりも、イエス様を愛していなければできないことであります。イエス様は、37節で、「わたしのよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」と言われましたけれども、イエス様よりも、自分の命を愛する者は、イエス様の弟子にふさわしくないのです。肉親よりも、自分自身よりも、イエス様を愛すること。心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、主イエスを愛すること。それが今朝、弟子である私たち一人一人に求められていることであるのです。

 このように聞きますと、私たちは途端に不安になってしまうのではないでしょうか?果たして、自分はそのようなイエス様への愛をもっているだろうか?そのような疑問を抱いてしまうのではないかと思います。もし、ここで言われている愛が、私たちが生まれながらにもっている愛であるならば、私たちは、自分自身よりもイエス様を愛することはできないと思います。しかし、ここで言われている愛が、聖霊によって私たちの心に注がれている愛であるならば、私たちは、イエス様のために命を失い、かえってそれを得ることができると思うのです。このことは、イエス様がすでに20節で語っておられたことであります。そこには、こう記されておりました。「実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」。私たちは、父の霊である聖霊によって、イエス様を自分自身よりも愛する者たちとされているのです(ヨハネ17:26「わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです」参照)。それゆえ、弟子である私たちに求められることは、「鳩のように素直になる」こと、聖霊の導きに素直に従うことであるのです。

 今朝の御言葉を読みますとき、イエス様が弟子である私たちに求めておられることは、厳しいという印象を受けます。しかし、このように求められるイエス様御自身が、そのように生きられたことを私たちは忘れてはなりません。イエス様は、メシアとしての職務を果たされるために、家族の者が敵となるような状況に身を置かれました。イエス様は肉親よりも神様を愛し、父なる神の御心に従って、全人類の罪の贖いを成し遂げるという自分の十字架を担って歩まれました。そして、十字架の上で、自分の命を失うことによって、かえってそれを得られたのです。神様は十字架の死に至るまで従順であられたイエス・キリストを死から三日目に栄光の体へと復活させられたのであります。それゆえ、イエス・キリストに従う道こそ、命を得る確かな道であるのです。その道を、私たちはイエス・キリストにある神の家族として、歩んで行きたいと願います。イエス・キリストにあって、神との平和、神の平和を与えられた者たちとして、励まし合いながら、ご一緒に歩んで行きたいと願います。「平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」と言われるイエス様は、御自分を信じる者たちを神の家族とし、神の平和を与えてくださるのです(マタイ12:50、ヨハネ14:27参照)。その神の家族としての平和にあずかっているからこそ、私たちは自分の十字架を担って、主イエスに従うことができるのです。

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