ただで与えなさい 2014年3月09日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

ただで与えなさい

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 10章5節~15節

聖句のアイコン聖書の言葉

10:5 イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。
10:6 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。
10:7 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。
10:8 病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。
10:9 帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。
10:10 旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。
10:11 町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。
10:12 その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。
10:13 家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。
10:14 あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。
10:15 はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」マタイによる福音書 10章5節~15節

原稿のアイコンメッセージ

 マタイによる福音書9章35節から11章1節までには、イエス様が十二人を派遣するにあたって語られた説教が記されています。福音書記者マタイは、宣教するにあたっての弟子たちへの教えを、このところにまとめて記しているのです。今朝の御言葉は、その最初の教えであります。

 5節、6節をお読みします。

 イエスは、この十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」

 イエス様が十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになったことについては、1節に記されておりましたが、十二人は、イエス様から権能を授けられた代理人、使徒として遣わされるのです。しかし、イエス様は、彼らに何も命じずに遣わされたわけではありません。十二人はイエス様の代理人、使徒として、イエス様の命じられたことをするために遣わされて行くのです。イエス様は、十二人を派遣するにあたり、こう言われました。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」。「異邦人」とは、神の民イスラエル以外の民族のことであります。神様の契約に関わりのない者たちのことです。また、「サマリア人」とは、サマリア地方に住む人々で、モーセ五書だけを正典とし、ゲリジム山に神殿を建て、独自の宗教生活を営んでいた人々のことであります。ユダヤ人は、彼らを異端と見なし、交わりを持っていませんでした。イエス様が、十二人を遣わすにあたって、「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない」と言われたことは、私たちにとって、驚きであるかもしれません。なぜなら、私たちは旧約の区分から言えば、異邦人であるからです。なぜ、イエス様は、弟子たちに、「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの失われた羊のところへ行きなさい」と言われたのでしょうか?それは、イエス様ご自身が、イスラエルの家の失われた羊のところへ遣わされたお方であるからです。15章21節以下に、カナンの女がイエス様に助けを求めて叫びながらついて来たことが記されていますが、その女に対して、イエス様はこう言われました。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」。イエス様は、神の羊の群れであるイスラエルに、神様から遣わされたお方であります。それゆえ、イエス様は弟子たちにも、「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの失われた羊のところへ行きなさい」と命じられたのです。

 もちろん、私たちは、このイエス様の御言葉をそのまま受け入れることはできませんし、受け入れてはなりません。と言いますのも、十字架の死から三日目に復活されたイエス様は、28章18節から20節で弟子たちにこう言われているからです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。

 復活される前、イエス様は、弟子たちに「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」と命じられました。しかし、復活された後は、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられるのです。それゆえ、イエス様が復活された後の時代に生きている私たちは、行って、すべての民に福音を宣べ伝えるべきであるのです。

 それにしても、復活されたイエス様は、なぜ、「行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言われたのでしょうか?それは、復活されたイエス様が、天と地の一切の権能を授けられたお方であるからです。2章に記されておりましたように、イエス様は、「ユダヤ人の王」としてお生まれになりました。イエス様は神の契約の民イスラエルの牧者、王として神様によって遣わされたお方であるのです。そのイエス様が、復活され、天へ昇られ、父なる神の右に座することにより、天と地の一切の権能を授けられた王の王、主の主となられたのです。それゆえ、復活されたイエス様は、弟子である私たちに、「行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言われるのです。

 7節、8節をお読みします。

 行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。

 イエス様は十二人を使徒として遣わされるのでありますが、十二人がするようにと命じられていることは、イエス様がされたのと同じことであります。9章35節に、イエス様のお働きについてこう記されていました。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」。このイエス様と同じ働きをすることを十二人は命じられているのです。イエス様は、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と宣べ伝え始められましたが、使徒たちも、「天の国は近づいた」と宣べ伝えるようにと命じられています。そして、天の国、神様の御支配がすでに来ていることのしるしとして、病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払うようにと命じられているのです。使徒たちは、イエス様が語ったのと同じ言葉を語り、イエス様がなされたのと同じ業をするようにと命じられているのです。

 イエス様は、使徒たちに、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と言われました。使徒たちがただで受けたもの、それは神の国の福音であり、汚れた霊に対する権能であります。使徒たちは、イエス様から神の国の福音と汚れた霊に対する権能をただで与えられたのです。それゆえ、使徒たちは、神の国の福音をただで告げ知らせ、ただで病人を癒やすことが命じられているのです。このイエス様の御言葉も、現代の私たちは文字通り受け入れることはできません。なぜなら、私たちは厳密な意味での使徒ではなく、汚れた霊に対する権能を委ねられておらず、病人を癒やすことはできないからです。しかし、原則的な教えとしては、受け入れることができます。なぜなら、私たちもイエス・キリストの福音をただで受けた者たちであるからです。ですから、私たちも、イエス・キリストを信じていない人たちにただで福音を与えることが命じられているのです。それゆえ、キリスト教会の礼拝には、誰でも出席することができ、福音をただで受けることができるのです。

 9節、10節をお読みします。

 帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履き物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。

 イエス様は、使徒たちに、旅をするのに必要と思われるお金や食べ物を入れる袋、二枚の下着、履き物、杖を持っていてはならないと命じられました。特に、杖は、獣や追いはぎから身を守る旅の必需品でありました。しかし、イエス様はその杖さえも持って行ってはならないと言われるのです。なぜ、イエス様は、このようなことを言われたのでしょうか?それは、使徒たちが、富ではなく、父なる神に信頼して歩むことを教えるためであります。イエス様は、山上の説教においてこう言われておりました。「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。イエス様は使徒たちが、このことを体験として知るようにと、彼らの手に何も持たせずに遣わされるのです。

 また、イエス様が、使徒たちに何も持たせず遣されたのは、「働く者が食べ物を受けるのは当然である」からです。収穫のための働き手である使徒たちは、自分で食べ物の入った袋を持って行かなくても、遣わされる町や村で食べ物を受けることができるのです。これは、一見、8節の「ただで受けたのだからただで与えなさい」と矛盾するように思えるかもしれません。しかし、そうではないのです。福音を宣べ伝える者は、イエス・キリストの福音を聞いたことのない人に、確かにただで与えなくてはなりません。しかし、イエス・キリストの福音を受け入れた人は、福音を宣べ伝える者の生活を支えるべきであるのです。イエス・キリストを信じた者たちが福音を宣べ伝える者の生活を支えるからこそ、福音を宣べ伝える者は、イエス・キリストを信じていない人たちに福音をただで与えることができるのです。

 具体的に申しましょう。私たちが教会としてささげる礼拝には、誰でも出席し、福音をただで受けることができます。では、私たちの教会の営みがただで成り立っているかと言えば、決してそうではありません。今年度の予算によれば、621万5千円の献金が必要であるのです。そして、その内の3分の2に以上が教職費として支出されるわけです。御言葉を宣べ伝える牧師の働きも、私たちの献金によって、支えられているのです。イエス・キリストを信じている私たちが献金しているからこそ、イエス・キリストを信じていない人たちに、福音をただで与えることができるのです。

 11節から15節までをお読みします。

 町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入もせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようとしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」

 イエス様は、「働く者が食べ物を受けるのは当然である」と言われましたが、使徒たちの食べ物、生活するのに必要なものは、町や村のふさわしい人によって与えられるのです。ここでの「ふさわしい人」とは、使徒たちの挨拶を受け入れる人、すなわち、使徒たちを迎え入れ、使徒たちの言葉に耳を傾ける人のことであります。イエス様は、使徒たちに、「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい」と言われましたが、これはユダヤ人の日常の挨拶でありました。ヘブライ語で「平和」をシャロームと言いますが、ユダヤ人たちは、「シャローム」「平和があるように」と挨拶したのです。しかし、この平和は自動的に与えられる平和ではありません。使徒たちが宣べ伝える福音を受け入れる人だけに与えられる平和であります。使徒たちが宣べ伝える福音を受け入れないならば、その平和は使徒たちのもとに返ってくるのです。

 イエス様は、使徒たちに、「あなたがたを迎え入れず、あなたがたの言葉に耳を傾けようとしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい」と言われました。「足の埃を払い落とす」とは、埃をも共有しない、絶縁を表す身振りであります。また、ユダヤ人は、異邦人の土地から去るとき、足の埃を払い落としたと言われています。ですから、「その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい」というイエス様の御言葉は、あなたがたを迎え入れず、あなたがたの言葉に耳を傾けようとしない者たちを異邦人同様に見なしなさい、という意味であるのです。なぜなら、使徒たちは、イエス様から権威を授けられ、イエス様の代理人として遣わされた者たちであるからです。それゆえ、使徒たちを迎え入れないことは、その使徒たちを遣わされたイスラエルの王であるイエス様を迎え入れないことであるのです。そのようにして、彼らは自分たちを神の民イスラエルの中から閉め出してしまうのです。

 イエス様は、イスラエルの王として、また神の御子として、こう言われます。「はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む」。ソドムやゴモラは、天からの硫黄の火によって滅ぼされた町であり、今は、死海の底に沈んでいると言われております(創世19章参照)。ソドムとゴモラは、罪のゆえに神様によって滅ぼされた町でありました。しかし、イエス様は、使徒たちを受け入れない町は、裁きの日に、ソドムやゴモラよりも厳しい罰を受けることになると言われるのです。使徒たちを迎え入れず、使徒たちの言葉に耳を傾けようとしないことは、それほどまでに大きな罪であるのです。そして、同じことが、使徒的な教会である私たちの言葉に耳を傾けない人たちにも言えるのです。381年に作成されたニカイア・コンスタンティノポリス信条は、教会について次のように告白しています。「私たちは、ひとつの聖なる公同の使徒的な教会を信じます」(讃美歌21の147ページ参照)。復活のキリストの体である教会は使徒的な教会であるのです。私たち教会は、イエス・キリストから鍵の権能、イエス・キリストの福音を委ねられて、この地上に遣わされているのです。それゆえ、私たちが宣べ伝えるイエス・キリストの福音を受け入れない人は、裁きの日にソドムやゴモラよりも厳しい罰を受けることになるのです。私たちは、この厳粛な事実をしっかりと受けとめて、福音を宣べ伝えていかなくてはならないのです。

 イエス・キリストは、弟子である私たちに、「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と言われます。しかし、私たちが忘れてはならないのは、イエス・キリストの福音は決して安っぽい恵みではないということです。なぜなら、イエス・キリストの福音は、イエス・キリストの十字架の死と復活を内容とするものだからです。イエス様は、すべての人の罪を担って、十字架の上で死んでくださり、三日目に栄光の体へと復活されました。それゆえ、イエス・キリストの福音を受け入れる者たちには、神の平和、シャロームが与えられるのであります。イエス・キリストが十字架の上で、刑罰としての死を死んでくださいましたから、私たちはソドムとゴモラのような刑罰を受けなくて済むのです。

 私たちは、イエス・キリストの福音をただで受け、神の平和を与えられた者たちとして、感謝と喜びをもって、福音宣教のために献金をささげていきたいと願います。また、イエス・キリストの喜びの知らせを、一人でも多くの人たちに聞いていただきたいと願いつつ、この地で礼拝をささげてゆきたいと願います。

関連する説教を探す関連する説教を探す