収獲の主に願いなさい 2014年3月02日(日曜 朝の礼拝)

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収獲の主に願いなさい

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 9章35節~10章4節

聖句のアイコン聖書の言葉

9:35 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。
9:36 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。
9:37 そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。
9:38 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」
10:1 イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。
10:2 十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、
10:3 フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、
10:4 熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。マタイによる福音書 9章35節~10章4節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝はマタイによる福音書9章35節から10章4節までをお読みしましたが、9章35節から11章1節までは、大きな一つのまとまりをなしていると考えられています。5章から7章にわたって記されている山上の説教を第一の説教としますと、9章35節から11章1節には、第二の説教が記されていると考えられているのです。

 35節から37節までをお読みします。

 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

 35節には、イエス様のお働きの要約が記されています。イエス様はガリラヤにある町や村を残らず訪ねて歩き、その町や村にある会堂で教え、神の国の福音を宣べ伝え、すべての病気とすべての患いをおいやしになったのです。そのときイエス様は、群衆を見て深く憐れまれたのです。なぜなら、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれていたからです。ここで「深く憐れまれた」と訳されている言葉は、「はらわたがちぎれる思いに駆られた」とも訳すことができます。群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、イエス様は断腸の思いに駆られたのです。イエス様がそれほどまでに群衆を憐れまれたのは、イエス様こそ、イスラエルの飼い主、牧者であったからであります。聖書は、神の民であるイスラエルを羊に、また、神様や指導者を飼い主、牧者に例えています。聖書を見ますと、神様がイスラエルに牧者を与えてくださるとの預言が記されています。エゼキエル書34章11節から16節までをお読みします。旧約の1352ページです。

 まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。わたしは彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。わたしはイスラエルの山々、谷間、また居住地で彼らを養う。わたしは良い牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。

 飛びまして、23節、24節をお読みします。

 わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。また、主であるわたしが彼らの神となり、わが僕ダビデが彼らの真ん中で君主となる。主であるわたしがこれを語る。

 ここで、エゼキエルは、神様ご自身がイスラエルの牧者となることと、神様がイスラエルのためにダビデの子孫から一人の牧者を起こしてくださることを預言しています。そして、この預言は、イエス様において、どちらとも実現したわけです。なぜなら、イエス様こそ、神その方と言える神の御子でありつつ、ダビデの子孫として生まれてくださったお方であるからです。それゆえ、イエス様こそ、イスラエルを牧する「良い羊飼い」であるのです(ヨハネ10:11参照)。では今朝の御言葉に戻ります。新約の17ページです。

 イスラエルの牧者であるがゆえに、群衆を深く憐れまれるイエス様は、弟子たちにこう言われました。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」。ここでイエス様は、飼い主がいないように弱り果て、打ちひしがれている群衆を、「収穫」と言われています。ここでの収穫は、福音宣教の収穫であり、福音を信じて救われる者たちを指すと考えられますが、それは他でもない飼い主がいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている群衆であるのです。イエス様は、今朝、私たちにも「収穫は多いが、働き手が少ない」と言われます。なぜなら、現代の日本社会においても、多くの人が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているからです。

 私たちの教会の現状だけを見るならば、とうてい、「収穫は多い」とは思えません。しかし、私たちのまなざしを私たち自身にではなく、外へ向けるならば、そこには飼い主のいない羊のように弱り果て、打ち捨てられている多くの人がいるのです。それゆえ、イエス様は、今朝、私たちにも、「収穫は多い」と言われるのです。

 イエス様は、「収穫は多いが、働き手が少ない」と言われた後で、「だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と言われました。イエス様は、「だから、あなたたちが働きなさい」と言われたのではなくて、「だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と言われたのです。ここで教えられますことは、畑の収穫に例えられる福音宣教は神様の御業であるということです。収穫の主、福音宣教の主は神様であります。ですから、神様によって遣わされなければ誰も収穫のために働くことができないのです。このことを、使徒パウロはローマ書10章で、「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう」と記したのであります。

 現代の日本社会にも、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている方が多くおられます。そのような人々にイエス・キリストの福音が宣べ伝えられるように、私たちは、収穫のために働き手を送ってくださるよう、収穫の主に願うべきであるのです。私たちは、世界中に、また日本中に、イエス・キリストの福音があまねく宣べ伝えられるために、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願うべきであるのです。そのような願いをもって、牧師の養成機関である神戸改革派神学校や改革派神学研修所の働きを支えていくべきであるのです。

 10章1節から4節までをお読みします。

 イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。

 ここでは、イエス様ご自身が、収穫の主として、働き人を召し、遣わされます。イエス様は、弟子の中から十二人を呼び寄せられまいたが、この十二人も、イエス様の御言葉を受けて、収穫の主に、「収穫のために働き手を送ってくださるように」と願ったはずであります。そのように、願った者たちの中から、イエス様は収穫の主として、収穫のための働き手を召し出されるのです。また、イエス様から召し出された者も、「収穫のために働き手を送ってください」と願う者であったからこそ、イエス様の召しに即座に答えることができたのです。

 イエス様は、十二人に汚れた霊に対する権能をお授けになりました。それは、彼らが、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためでありました。9章35節に、イエス様のお働きの要約が記されていましたが、このイエス様と同じ働きをするために、十二人は汚れた霊に対する権能を授けられたのです。2節に「十二使徒」という言葉がありますが、彼らはイエス様から権威をゆだねられた者として遣わされるのです。誤解のないように言っておきますが、現在、使徒はおりません。使徒は継承されるものではなく、彼ら一代のものであります。イエス様は、御自分の教会を建てるために、十二人を使徒とされたのです。ちょうど、イスラエルが十二部族からなっていたように、イエス様は十二人を御自分の使徒とされたのです。

 2節から4節には、十二使徒の名前が記されています。ここでは、4人ずつ、三つのグループごとに見ていきたいと思います。

 「まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ」。「まず」とありますが、これは「第一に」とも訳される言葉です。私たちはこのことから、ペトロが十二使徒の筆頭であったことを教えられます。この4人は、ガリラヤの漁師たちでありました。4章に記されていたように、イエス様はガリラヤの漁師たちを最初の弟子たちとされたのです。

 「フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ」。マタイがイエス様の弟子とされたことは、9章に記されていましたが、マタイによる福音書だけが、十二使徒の名簿において、「徴税人のマタイ」と記しております。十二使徒の名簿は、マルコ福音書とルカ福音書にもありますが、そこには「徴税人の」という言葉は記されていません。マタイ福音書だけが、「徴税人のマタイ」と記しているのです。これは「徴税人であったマタイ」という意味でありますが、福音書記者マタイは、このように記すことによって、徴税人であった自分をもイエス様は使徒としてくださった恵みを書き留めたのです。

 「アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである」。「熱心党のシモン」とありますが、「熱心党」とは、先祖伝来の教えに堅く立ち、異邦人による支配を潔しとせず、武力の行使さえも用いることをよしとした過激派であります。そのような熱心党の一員であったシモンにとって、徴税人であったマタイは憎むべき存在であったはずです。しかし、今や、彼らは共に、収穫のために働く者とされたのです。

 最後に「イエスを裏切ったイスカリオテのユダ」とありますが、「イスカリオテの」とは、ユダヤ南部にある「カリオト出身の」という意味であります。イスカリオテのユダは、後に、イエス様を最高法院に引き渡すことになるのです。

 十二使徒の中からイエス様を裏切る者が出てくる。このことは、事実であり、私たちにとって大きな衝撃であります。しかし、考えてみますと、この十二人は後に、すべての者がイエス様を見捨てて逃げてしまうのです。筆頭弟子であるペトロも三度イエス様のことを知らないと言うのであります。呪いの言葉さえ口にしてイエス様との関係を否定してしまうのです。それは、彼らが、イスラエルの牧者ではなく、羊であるからです(マタイ26:31『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』参照)。彼らがイエス様の羊を飼う牧者として確立されるためには、十字架と復活の主であるイエス様から聖霊を与えられねばならないのです。イエス様の聖霊を与えられて初めて、彼らは「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」のを見ることができたのではないかと思います。イエス・キリストの聖霊を与えられたことによって、使徒たちは、群衆を深く憐れむ心をも与えられたのです。そして、それは、私たち一人一人にも言えることであるのです。私たちにも、何のために生まれ、何のために生きているのか分からないで、打ちひしがれている多くの人を深く憐れむ心が与えられているのであります。その深い憐れみをもって、私たちは、収穫の主であるイエス様に、「働き手を送ってください」と祈るのです。

 わたしも、この羽生栄光教会に働き手として遣わされた者であります。もちろん、わたしは使徒ではありませんし、汚れた霊を追い出すこともあらゆる病気や患いを癒すこともできません。しかし、わたしにも御国の福音を宣べ伝えることはできるのです。イエス・キリストを信じる者は救われるということを、イエス・キリストはあなたを救うために、十字架の上で死に、三日目に復活されたことを宣べ伝えることができるのです。

 わたしがこの教会に赴任して、10年以上が経ちました。わたしがこの教会で牧師として働くことができるのは、何より、皆さんのお祈りによるものであります。教会員である皆さんが祈ってくださらなければ、わたしは牧師として働くことはできません。主イエスは、「収穫のために働き手を送ってください」との皆さんの祈りに応えて、わたしをこの教会に遣わしてくださったのです。北関東の地に住む、飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている人々のために、また、霊的な養いを必要としているイエス様の羊たちのために、神様はわたしを遣わしてくださったのです。そのことを牧師も信徒も、今一度、心に刻みたいと願います。

 

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