できると信じるか 2014年2月23日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

できると信じるか

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 9章27節~34節

聖句のアイコン聖書の言葉

9:27 イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た。
9:28 イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。
9:29 そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、
9:30 二人は目が見えるようになった。イエスは、「このことは、だれにも知らせてはいけない」と彼らに厳しくお命じになった。
9:31 しかし、二人は外へ出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた。
9:32 二人が出て行くと、悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れられて来た。
9:33 悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言った。
9:34 しかし、ファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言った。マタイによる福音書 9章27節~34節

原稿のアイコンメッセージ

 福音書記者マタイは、8章と9章に、イエス様の力ある業を、まとめて記しております。今朝は、イエス様が二人の盲人を見えるようにされた記事と、口の利けない人を話せるようにされた記事について、ご一緒に学びたいと思います。

 27節から31節までをお読みします。

 イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と言いながらついて来た。イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたが信じているとおりになるように」と言われると、二人の目が見えるようになった。イエスは、「このことは、だれにも知らせてはいけない」と彼らに厳しくお命じになった。しかし、二人は外へ出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた。

 二人の盲人は、イエス様を「ダビデの子」と呼んでいますが、彼らはイエス様がダビデの子ヨセフの息子であることを知っていたわけではありません。福音書記者マタイは、イエス様が、ダビデの息子ヨセフの妻マリアから聖霊によって生まれたことを記しましたが、二人の盲人はそのことを知っていたわけではないのです。「ダビデの子」とは、いわば、来たるべきメシア、救い主を表す称号であります。と言いますのも、約束のメシア、救い主は、ダビデの子孫から生まれると、聖書に記されているからです。ですから、二人の盲人が、イエス様を「ダビデの子」と呼んだのは、イエス様こそ、約束のメシア、救い主であるとの信仰によるものであるのです。二人の盲人は、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫びましたが、ここでの「憐れみ」は単なる感情ではなくて、「具体的な助け」「行動を伴う助け」を意味しています。ちなみに、物乞いが、通行人に金銭を求めるときも、「憐れんでください」と言ったようであります。しかし、この二人の盲人が、ダビデの子であるイエス様に金銭を求めたのではないことは明らかであります。この二人が求めたことは、それよりも大きなこと、イエス様にしかできないことであったのです。

 イエス様は、家に入り、そばに寄ってきた盲人たちに、「わたしにできると信じるのか」と言われましたが、ここには、二人の盲人たちがイエス様に対して何を信じているかが記されておりません。私たちは、29節の「そこで、イエスが二人の目に触り、『あなたがたの信じているとおりになるように』と言われる、二人の目が見えるようになった」(~30a)という御言葉によって、二人の盲人が、イエス様なら自分たちの目を見えるようにすることができると信じていたことが分かりますが、28節のイエス様と二人の盲人の問答にはそのことが記されていないのです。ここでもイエス様は、二人の盲人の心を見抜かれて、話を進めているのだと思います。イエス様は、9章4節で、律法学者が心の中で悪いことを考えているのを見抜かれましたが、ここでも、イエス様は二人の盲人の考えを見抜いて、「わたしにできると信じるのか」と言われたのです。ここで、イエス様は、二人の盲人の御自分への信仰を試問しておられると読むことができます。イエス様は、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」という叫びを聞いて、すぐに立ち止まりませんでした。イエス様は、彼らの叫びがまるで聞こえていないかのように、歩みを進め、家へと入られたのです。なぜ、イエス様は、立ち止まって、すぐに二人の目を見えるようにしてあげなかったのでしょうか?考えられる一つの理由は、イエス様が、人々の前でそのことをしたくなかったということです。イエス様は、目が見るようになった二人の人に、「このことはだれにも知らせてはいけない」と厳しく命じておりますから、イエス様は、人々がいる外で、そのことをしたくなかったのだと思います。また、考えられるもう一つの理由は、イエス様が二人の盲人の信仰を試すためであった、言い方を変えれば、二人の盲人の信仰を訓練するためであったということです。その訓練に二人の盲人は耐えて、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらイエス様の後をついて行ったのです。彼らは見えないお方を、見えるようにして、イエス様の後に従ったのです。そのような彼らに、イエス様は、「わたしにできると信じるのか」と言われたのであります。そして、そのイエス様の問いに、二人は「はい、主よ」と答えたのです。このようにして、彼らは、「イエス様こそ、来たるべきメシアである」と言い表したのです。

 ある研究者は、二人の盲人がイエス様をはじめて「ダビデの子」と呼び、イエス様が、自分たちの目を見えるようにすることができると信じたことは、当然であったと記しておりました。それは、なぜかと言いますと、来たるべきメシアによって到来する栄光の時代には、見えない人の目が開かれると聖書に預言されているからです。イザヤ書の35章1節から6節までをお読みします。旧約聖書の1116ページです。

 荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ/大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ/カルメルとシャロンの輝きに飾られる。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。

 弱った手に力を込め/よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」

 そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。

 ここで、イザヤは、メシアによってもたらされる栄光の回復について預言しております。メシアによって到来する栄光の時代には、見えない人の目が開くと預言されているのです。二人の盲人は、このイザヤ書の預言を信じるがゆえに、また、イエス様こそが約束のメシア、「ダビデの子」であることを信じるがゆえに、イエス様は自分たちの目を見えるようにすることができると信じるのです。では、今朝の御言葉に戻りましょう。新約の16ページです。

 イエス様は、二人の盲人の信仰告白を受けて、二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われました。すると、二人が信じているとおり、二人の目が見えるようになったのです。前回、私たちは、十二年間も患って出血が続いている女に、イエス様が、「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われたことを学びました。それに続く、今朝の御言葉でも、同じく信仰が問題とされているのです。イエス様に癒していただくためには、イエス様は自分を癒すことがおできになるとの信仰が求められるのです。

 このことは、私たちにいろいろなことを考えさせるのではないでしょうか?私たちの教会は、信仰規準として、ウェストミンスター信仰基準を採用していますが、ウェストミンスター信仰告白によれば、啓示の書物としての聖書が完結した後は、啓示としての癒やしの業は止んでおります(1:1参照)。イエス様の癒しは、イエス様こそ、約束のメシア、救い主であることを表す啓示としの意味を持つわけです。このことは、私たちがイエス様の癒やしの業の記事を読むとき、いつも弁えておくべきことであります。イエス様が二人の盲人を見えるようにされたことは、イエス様こそ、約束のメシア、救い主であることを表しているのです。ですから、イエス様は、この記事を読む、私たちのためにも、二人の盲人の目を見えるようにされたと言うことができるのです。

 先程も申しましたように、啓示の書物である聖書が完結した後は、啓示としての癒やしの業は止んでおります。しかし、それは、イエス様があらゆる病を癒されないということではありません。イエス様は、今も、一般恩恵としての医療の業を用いて、すべての人を癒しておられるお方であります。私たちは、医者の手を通して、あるいは薬を通して、イエス様の癒やしの業にあずかることができるのです。それゆえ、私たちは、イエス様が病を癒してくださることを信じて、イエス様に「私たちを憐れんでください」と祈ることができるし、祈るべきであるのです。

 私たちの教会は、病の癒しを売り物にすることはいたしません。しかし、イエス様が癒し主であることを信じる者たちであります。私たちは、イエス様が癒し主であることを信じて、自分のために、また、他の人のために祈るべきであるのです。私たちの祈りがたとえすぐに聞かれることがなくても、イエス様からの訓練として受け止めて、イエス様に祈り続けるのです。そのような私たちに、イエス様は今朝、「あなたがたの信じているとおりになるように」と御声をかけてくださるのです。

 二人は、イエス様から「このことを誰にも知らせてはいけない」と厳しく命じられていたにもかかわらず、外に出ると、その地方一帯にイエス様のことを言い広めました。ユダヤでは、二人または三人の証言によって真実とされましたから、彼らの言葉は、証言としても有効でありました。この二人は、イエス様こそ、盲人の目を見えるようにすることのできるダビデの子、メシアであることを証したのです。

 32節から34節までをお読みします。

 二人が出て行くと、悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れられて来た。悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言った。しかし、ファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭で悪霊を追い出している」と言った。

 イエス様は二人の盲人を見えるようにされたのに続けて、悪霊に取りつかれて口の利けない人を話せるようにされました。ここで、イエス様は、口の利けない人の信仰を問いませんが、それはその原因が悪霊に取りつかれていたからであると思います。どうやら、この人は、生まれながらに口が利けなかったのではなく、途中から口が利けなくなったようであります。それゆえ、彼は悪霊を追い出していただくと、ものを言い始めたのです。これも、先程、ご一緒に読んだイザヤ書35章の預言の実現であります。そこには、メシアによってもたらされる栄光の時代には、目の見えない人が見えるようになるだけではなく、口の利けない人が賛美を歌うと記されておりました。イエス様は、口の利けない人を話せるようにすることによって、御自分こそが、イザヤ書35章の預言を成就するメシア、救い主であることを示されたのです。

 群衆は、口が利けない人がものを言い始めたので、驚嘆し、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言いましたが、確かに、旧約聖書を見ましても、預言者が、口の利けない人を話せるようにしたことは記されていません。預言者エリヤとエリシャが、死者を生き返らせたことは記されていても、口の利けない人を話せるようにしたとは記されていないのです。それゆえ、群衆の言うとおり、口の利けない人が話せるようになることは、イスラエルではこれまで起こったことのない前代未聞の出来事であるのです。それは、メシアだけがなすことのできると信じられていたことなのであります。

 しかし、ファリサイ派の人々は、イエス様が約束のメシアであることを受け入れませんでした。それどころか、彼らは、イエス様が悪霊を追い出すことができるのは、悪魔の結託しているからだと言うのです。このことについては、12章22節以下の、いわゆる「ベルゼブル論争」のところで扱いますけれども、福音書記者マタイは、ファリサイ派の人々の反応をここに記すことによって、イエス様の力ある業が必ずしも好意的に受け入れられたのではないことを私たちに教えているのです。ファリサイ派の人々も、イエス様が悪霊を追い出したことは認めざるを得ないのですが、彼らは、それをイエス様がどのようなお方であるかを示す啓示として認識することができないのです。

 そして、そのことは現代の多くの人にも共通して言えることではないかと思います。イエス様が目の見えない人を見えるようにされた。口の利けない人を話せるようにされた。そのように聞いて、それがどうしたの?と思う人がほとんどではないかと思うのです。自分には関係ない人に起こった不思議なこと、それ以上には受け止められない人が多いのではないかと思います。しかし、イエス様の癒やしの業は、何よりも啓示としての意味をもっているのです。それは、イエス様の癒やしの業を、旧約聖書の文脈から理解しなくてはいけないということです。今朝の御言葉でしたら、イザヤ書35章の預言の文脈の中で読まなければ正しく理解することはできないのです。今朝の御言葉は、イエス様が二人の盲人の目を見えるようにされた。口の利けない人を話せるようにされた。イエス様ってすごいね、というようなことにとどまりません。旧約聖書の文脈から、特に、イザヤ書35章の文脈からイエス様の力ある業を理解し、イエス様こそ、約束のメシア、救い主であることを信じるとき、今朝の御言葉は私たちのうちに満たされるのす。そして、そのとき、私たちの見えない心の目が開かれ、私たちの口が賛美を歌うことができるのです。そのようにして、今朝の御言葉は、私たちうえに実現しているのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す