新しい喜び 2014年2月02日(日曜 朝の礼拝)

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新しい喜び

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 9章14節~17節

聖句のアイコン聖書の言葉

9:14 そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。
9:15 イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。
9:16 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。
9:17 新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」マタイによる福音書 9章14節~17節

原稿のアイコンメッセージ

 イエス様と弟子たちが、徴税人や罪人たちと一緒に食事をしていると、今度は、ヨハネの弟子たちがイエス様のところにやって来ました。「ヨハネの弟子たち」とは、洗礼者ヨハネの弟子たちのことであります。洗礼者ヨハネは、このとき、領主ヘロデによって捕らえられ、牢の中におりました(4:12、11:2参照)。しかし、その弟子たちはいまだ活動していたのです。洗礼者ヨハネは、イエス様に先立って活動した預言者でありましたが、そのヨハネの弟子たちがイエス様にこう言うのです。「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」。ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は異なる団体でありますが、しばしば断食するという点においては同じであったのです。

「断食」とは「宗教的な動機で一定の期間、食事を断つこと」でありますが、旧約聖書では、年に一度だけ贖罪日に、イスラエル全体が苦行すること、すなわち断食することが定められておりました(レビ16:29~31参照)。それに加えて、ユダヤ人たちはバビロン捕囚後、エルサレムの陥落などを覚えて、年に四回断食するようになりました(ゼカリヤ8:19参照)。ですから、イエス様の時代、イスラエル全体が断食したのは年五回であったのです。しかし、ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々はしばしば断食をしたのです。ルカによる福音書の18章に記されている「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」で、ファリサイ派の人は、「わたしは週に二度断食し」ていると祈っています。ファリサイ派の人々は、週に二回、月曜日と木曜日に断食していたのです。おそらく、ヨハネの弟子たちも同じように、週に何度か断食していたのだと思います。

先程、私は、「断食とは宗教的動機から食を断つことである」と申しましたが、断食することのおもな動機は、罪を悲しみ、悔い改めることでありました。洗礼者ヨハネは荒れ野で悔い改めの洗礼を授けていた人物でありますから、その弟子たちがしばしば断食したことはよく分かることであります。洗礼者ヨハネは来るべき裁きの日について語りましたが、その弟子たちは、やがては裁かれる者としてしばしば断食をし、自分たちの罪を悲しみ、悔い改めを表わしたのです。

ファリサイ派の人々がしばしば断食したのも、罪を悲しむ、悔い改めることの表明でありました。多くの人々が律法を守らない中にあって、彼らは断食することにより、イスラエルの罪を悲しみ、悔い改めを表明したのです。そのようにして、彼らはイスラエルの罪を担ったとも言えるのです。しかし、次第に断食そのものが義の業、善行と見なされるようになりまして、断食すること自体が目的となってしまったわけであります(6:16~18参照)。

このように、ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、それぞれの宗教的な動機から、しばしば断食しておりました。しかし、イエス様の弟子たちは断食しておりませんでした。現に、この時も、イエス様の弟子たちは、大勢の徴税人と罪人たちと一緒に食事をしていたわけです。

 ヨハネの弟子たちの言葉を受けて、イエス様はこう言われました。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする」。ここでイエス様は、3つの譬えをもって、ヨハネの弟子たちの質問に答えられました。

 第一のたとえは、婚礼の客のたとえであります。イエス様は、「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか」と問われましたが、その答えは当然、「できない」であります。婚礼は歓喜の時、喜びの時でありまして、悲しみの表現である断食をすることはできないのです。実際、ユダヤの社会において、婚礼の祝いに出席する者は、断食する義務を免れたと言われます。ユダヤでは、一週間もの間、披露宴が続き、食事やぶどう酒が振る舞われ盛大なお祝いがなされたのです。

ここでイエス様は、御自分を「花婿」に、弟子たちを「婚礼の客」に譬えておられますが、ここには、イエス様の「御自分こそ、来るべき方、救い主、メシアである」との主張があります。ヨハネの弟子たちの先生である洗礼者ヨハネは、「わたしの後から来る方は、わたしより優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と言いました(3:11)。その来るべき方が、すでに来ておられるわけです。救い主、メシアの祝宴はすでに始まっているのです。それゆえ、婚宴に譬えられるメシアの祝宴に列席している弟子たちは、悲しむこと、断食することができないのです。なぜなら、イエス様は、この地上で罪を赦す権威を持つ、罪人を招くために来られたメシア、救い主であるからです。そのイエス・キリストとの交わりにあずかっている者は、罪を悲しむ表現としての断食をする必要がないのであります。

 しかし、イエス様は、花婿である自分が奪い取られる時が来るとお語りになります。そして、そのとき、御自分の弟子たちは断食するようになると言うのです。コヘレトの言葉に、「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある」とありますが、断食せずにはおれない時というものがあるのです(コヘレト3:1)。「花婿が奪い取られる時」とは、イエス様が最高法院に捕らえられ、十字架につけられる時であります。花婿であるイエス様がユダヤの最高法院に捕らえられ、十字架につけられてしまう。そのとき、花婿の友である弟子たちは悲しみ、断食するようになるのです。

 ここでの問題は、婚礼の客である弟子たちが断食するようになる「そのとき」とはいつまでを指すのかということです。一つの解釈は、イエス様が十字架につけられ、死んで葬られてから復活されるまでの三日間を指しているというものです(ヨハネ16:22参照)。復活されたイエス様は、天に昇り、父なる神の右に座し、聖霊を遣わしてくださいました。私たちは目に見える仕方で、イエス様と一緒にいるわけではありませんが、御言葉と聖霊において、イエス様は私たちと共にいてくださるのです。復活されたイエス様が、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われたように、花婿であるイエス様は、私たちと共にいてくださるのです(28:20)。それゆえ、「婚礼の客は悲しむことができない」という御言葉は、私たちにおいても当てはまるのです。イエス・キリストにあって罪赦され、受け入れられている私たち、イエス・キリストとの交わりに生かされている私たちは、悲しみの表現としての断食をできないほどに、大きな喜びに生かされているのです。私たちは、今朝、聖餐の礼典にあずかります。そこでいただくのは一口のパンであり、少量のぶどう酒でありますが、これはメシアの祝宴、花婿イエスの婚礼の宴でもあるのです。

 ある人は、「喜びこそ、イエス・キリストの弟子であることのしるしである」と申しました。確かに、喜びは、イエス・キリストの弟子であることのしるしであります。そして、その喜びは聖霊によって与えられる喜びであり、罪の赦しに基づく喜びであるのです。私たちはいつもニコニコしていることはできないかも知れません。しかし、その心の奥底には、聖霊によって与えられている喜びがある。イエス・キリストにあって、罪赦され、正しい者として受け入れられ、神の子とされたことに基づく喜びがあるのです。そして、それはどのような境遇にありましても、喜ぶことのできる喜びであり、誰も奪うことのできない喜びなのです。それゆえ、使徒パウロは、「主にあって喜びなさい」と何度も、フィリピの信徒たちに書き記したのです(フィリピ3:1、4:4)。いつ処刑されるか分からない牢獄の中にあって、パウロは、「主にあって喜びなさい」と書き記したのです。

 続けてイエス様は、新しい服と古い服について、また新しいぶどう酒と古い革袋についてお語りになりました。これはどちらも同じ真理を表わしています。それは新しいものと古いものとは相いれないという真理です。

イエス様は、「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりしはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ」と言われました。織りたての布とは、まだ晒していない、水分を含んでいる、縮んでいない布のことであります。そのような織りたての布で、古い服に継ぎを当てたりすれば、織りたての布が縮んで、くたびれている古い服を引き裂いてしまうことになるのです。それゆえ、「だれも、織りたての新しい布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりしない」わけです。

 また、イエス様は、「新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長持ちする」と言われます。新しいぶどう酒は発酵力が強いので、弾力性のある新しい革袋に入れなくてはなりません。もし、発酵力の強い新しいぶどう酒を弾力性のない古い革袋に入れるならば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになってしまうのです。それゆえ、だれも、「新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない」わけです。

 新しい服、新しいぶどう酒、これらは、メシアの祝宴にあずかる新しい喜びを意味しています。また、古い服、古い革袋はメシアの到来を待ち望んできたこれまでの生き方、今朝の御言葉で言えば、悲しみとしての断食の生活を指しています。イエス様が来られてメシアの祝宴の喜びが与えられているにもかかわらず、しばしば断食することは、「織りたての布から布切れをとって、古い服に継ぎを当て」るような相いれない愚かな行為であるのです。また、イエス様によって罪赦され、聖霊による喜びを与えられているにもかかわらず、しばしば断食することによって罪の赦しを得ようとするのは、「新しいぶどう酒を古い革袋に入れる」ような相いれない行為であるのです。それゆえ、イエス様は、「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」と言われるのです。イエス・キリストによって罪赦され、神の国の祝宴の喜びにすでに与っている者は、それにふさわしい生活様式、ライフスタイルが求められるのです。そして、そのライフスタイルとは、イエス・キリストの律法に従うライフスタイルであるのです。イエス・キリストによって罪赦され、正しい者として受け入れられた者は、喜びと感謝をもってイエス・キリストの教えに従って生きることが求められるのです。イエス・キリストによって罪赦された喜びは、そのように私たちを新しく造り変えてくださるのです。新しいぶどう酒を新しい革袋に入れるように、イエス・キリストによって救われた私たちは、喜びと感謝をもって、イエス・キリストの教えを行う者たちになりたいと願います。そのようにして、この地上の生涯を、キリストの弟子として全うさせていただきたいと願います。

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