罪人を招くイエス 2014年1月26日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

罪人を招くイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 12章34節~56節

聖句のアイコン聖書の言葉

9:9 イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
9:10 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。
9:11 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
9:12 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。
9:13 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」マタイによる福音書 12章34節~56節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、マタイによる福音書9章9節から13節より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

中風の人を癒されたイエス様は、そこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われました。すると、彼は立ち上がって、イエス様に従ったのです。イエス様は、収税人であるマタイを御自分の弟子として召されました。そして、マタイは、そのイエス様の召しに即座に従ったのであります。4章18節以下に、イエス様が、漁師であったペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、また、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネを弟子にしたことが記されておりましたが、今朝の御言葉で、イエス様は、徴税人であるマタイを御自分の弟子にされるのです。これはまことに驚くべきことでありました。といいますのも、当時のユダヤの社会において、徴税人は罪人と同じように見なされていたからです。今朝のお話しの舞台はカファルナウムでありますから、マタイはガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスに雇われて税金を取り立てていたようであります。そして、領主ヘロデ・アンティパスの背後には、ローマ帝国の権威があるわけです。当時、ユダヤの国はローマ帝国の支配のもとに置かれておりました。ユダヤ人は、自分たちこそ神の民であり、自分たちの王は神お一人であると自負しておりましたが、こともあろうに、神を知らぬ異邦人によって支配されていたのです。その異邦人の手先となって、マタイは、同胞のユダヤ人から税金を徴収していたのです。ですから、徴税人は裏切り者、売国奴と罵られ、同胞のユダヤ人から嫌われておりました。また徴税人は、しばしば決められた金額以上を取り立てて私腹を肥やしていたことから、泥棒のようにも思われていました。さらには、仕事の関係上、異邦人と接触することから汚れた者とも考えられていたのです。しかし、イエス様は、その徴税人のマタイを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われたのです。そして、マタイは立ち上がってイエス様に従ったのです。イエス様はカファルナウムにおいて、いわゆる有名人でありますから、マタイはイエス様のことを知っていたと思います。しかし、徴税人である自分、罪人と呼ばれている自分には関係がないと思っていたのではないでしょうか。しかし、イエス様は、徴税人マタイに目を留めてくださり、「わたしに従いなさい」と声をかけてくださったのです。それゆえ、マタイは、即座に、喜んで、収税所のイスから立ち上がり、イエス様に従ったのです。

 10節に、「イエスがその家で食事をしておられたときのことである」とありますが、「その家」が誰の家であるのかはっきりと記されておりません。マタイの家であったかも知れませんし、ペトロの家であったかも知れません。誰の家であったかは分かりませんが、私たちが「家」と聞いて思い起こすべきは「教会」のことです。初代教会は、信者の家に集まって礼拝をささげておりました。ですから、「その家」とは「教会」のことを指しているのです。イエス様がその家で食事をしておられると、徴税人や罪人も大勢やって来て、イエス様や弟子たちと同席しておりました。なぜ、徴税人や罪人が大勢イエス様のところにやって来たのでしょうか?それは、イエス様が自分たちの仲間であるマタイを弟子とされたからです。もしかしたら、「その家」とはマタイの家で、マタイは、自分の仲間である徴税人や罪人たちを招いたのかも知れません。そのようにして、マタイは、自分の仲間たちに、イエス様を紹介したのです。ある人は、この食事がマタイの送別会であったと想像しております。あるいは、イエス様にあって新しく生まれたことを祝う誕生会であったとも言えるかも知れません。ともかく、その家では、イエス様や弟子たちだけでなく、徴税人や罪人たちも一緒になって食卓を囲んでいたのです。しかし、このことを問題視する者たちがおりました。それが「ファリサイ派の人々」であります。ファリサイ派の人々とは、律法を守ることに熱心であった真面目な信徒グループのことであります。「ファリサイ」という言葉は「分離する」という意味であると考えられていますが、彼らは律法を守らない人々、また守れない人々を罪人と呼んで自分たちを彼らから分離したのです。それゆえ、ファリサイ派の人々にとって、イエス様と弟子たちが、徴税人や罪人と一緒に食事をしていることは非難すべきことであったのです。「罪人」とありますが、これは犯罪者というよりも、律法の規定を守っていない人を意味しています。ファリサイ派の人々は、安息日の規定、清めの規定、十分の一の献げ物の規定などを守ることに熱心でありました。そのような律法の規定を守らない者たち、あるいは職業上の理由や健康上の理由から守れない者たちを、罪人と呼んで軽蔑していたのです。彼らにとって、徴税人や罪人と一緒に食事をすることは自分を貶めることであり、自らに汚れを招くことであったのです。しかし、イエス様は、徴税人マタイを弟子にし、さらには多くの徴税人や罪人たちと一緒に食事をされたのです。一緒に食事をすることは、最も深い交わりを持つことであり、一体的になることでさえありました。ですから、ファリサイ派の人々は、イエス様の弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言ったのです。「これであなたたちの先生の正体が分かったでしょう。こんな先生に従っていっては、あなたたちまで徴税人や罪人と同じようなものになってしまいますよ」。そのように、ファリサイ派の人々は、弟子たちに言ったのです。イエス様はこれを聞いて、こう言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。このイエス様の御言葉は、三つの文からなっています。イエス様は最初に、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」と言われました。これは、当時のことわざではなかったかと言われています。ファリサイ派の人々は、律法を守らない人々、また守れない人々を罪人と呼んで、自分たちから分離しておりました。けれども、イエス様にとって、律法を守らない人々、また守れない人々は病人であるのです。それゆえ、医者であるイエス様は、その病人と交わりを持たずにはいられないのであります。徴税人や罪人たちを神の民の失格者として、切り捨ててしまうのではなくて、イエス様は、彼らを、癒しを必要としている病人としてご覧になったのです。

続けて、イエス様は、「『わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい」と言われました。ここで、イエス様は旧約聖書のホセア書6章6節を引用しておられます。そのところを開いて読んでみたいと思います。旧約聖書の1409ページです。ホセア書6章1節から6節までをお読みします。

 「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし/我々を打たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし/三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ/降り注ぐ雨のように/大地を潤す春雨のように/我々を訪れてくださる。」エフライムよ/わたしはお前をどうしたらよいのか。ユダよ、お前をどうしたらよいのか。お前たちの愛は朝の霧/すぐに消えうせる露のようだ。それゆえ、わたしは彼らを/預言者たちによって切り倒し/わたしの口の言葉をもって滅ぼす。わたしの行う裁きは光のように現れる。わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。

 1節から3節には美しい言葉で悔い改めが述べられていますが、しかし、それは「朝の霧」や「すぐに消えうせる露」のようにはかないものでしかありません。イスラエルは、悔い改めのしるしとしていけにえを献げるのでありますが、しかし、神様は愛を喜ばれるお方であるのです。「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではない」。この御言葉を引用しまして、イエス様は、ファリサイ派の人々に、「『わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい」と言われたのです。今朝の御言葉に戻ります。新約の15ページです。

 イエス様は、「わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない」というホセア書の御言葉を引用されましたが、ここでの「いけにえ」とはファリサイ派の人々が熱心に守っていた律法の規定を指していると読むことができます。ファリサイ派の人々は、律法の規定を守ることに熱心でありましたが、それは神様が求めておられる第一のことではないのです。神様が第一に求めておられること、それは同胞への憐みであるのです。そもそも、なぜ、ファリサイ派の人々は、イエス様が食事をしておられるその家にいたのでしょうか?彼らが、イエス様や弟子たちと、また、徴税人や罪人たちと一緒に食事をしていなかったことは明らかであります。ファリサイ派の人々は一緒に食事を楽しむためではなく、イエス様を非難するためにやって来たのです。それは彼らがイエス様の振る舞いに神様が求められる憐みを見ることができなかったからであります。彼らも、「わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない」という御言葉を知っていたはずです。しかし、彼らは律法を守らない人々、また律法を守れない人々を罪人と呼ぶことによって、神様が憐みよりもいけにえを求められるかのように振る舞っていたのです。それゆえ、ファリサイ派の人々は、イエス様とその弟子たちが、徴税人や罪人と一緒に食事をしている、この所においてこそ、「わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない」という御言葉の本当の意味を学ぶことができるのです。

最後にイエス様は、「わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われました。ここに、イエス様が来られた目的がはっきりと語られています。神の永遠の御子が、聖霊によっておとめマリアの胎に宿り、人としてお生まれになったのはなぜでしょうか?それは、「罪人を招くためである」のです。イエス様は、徴税人マタイを弟子になされましたが、それはイエス様が、「罪人を招くため」に来られたことをよく表しています。前回、私たちは、イエス様が地上で罪を赦す権威を持つ人の子であることを学びました。イエス様は地上で罪を赦す権威をゆだねられたお方であるがゆえに、罪人を招き、そのままの姿で受け入れることができるのです。前回の御言葉で、イエス様は、中風の人と、中風の人を連れて来た人々の信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と罪の赦しを宣言されました。ここには、中風の人が罪を告白したとも、悔い改めたとも記されておりません。イエス様は、一方的に、憐みの心から、罪の赦しを宣言されたのです。そして、そのことの確かなしるしとして、イエス様はその人が患っていた中風を癒されたのです。私は、同じことが今朝の御言葉においても言えると思います。イエス様は、御自分のもとにやって来た徴税人たちの罪が赦されている確かなしるしとして、彼らと一緒に食事をされたのです。地上で罪を赦す権威を持つイエス様、そのイエス様と一緒に食事している。このことに、彼らの罪が赦されていることの確かなしるしを見ることができるのです。そして、このことは、私たちに与えられているしるしでもあるのです。私たちは、月に一度、第一主日の礼拝において、主の晩餐にあずかります。それによって、私たちは、イエス様によって罪赦され、受け入れられていることを味わい知ることができるのです。

 イエス様は、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われました。ここでの「正しい人」とは、ファリサイ派の人々を指しているのでしょうか?ファリサイ派の人々は、そのように理解したかも知れません。しかし、ここでイエス様は、御自分が来られた目的について語っているのであって、ファリサイ派の人々が正しい人であるとは語っておられません。むしろ、自分が正しい人であるか、罪人であるかは、このイエス様の御言葉を聞く人の判断にゆだねられているのです。イエス様は、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である」とも言われましたが、自分が病を患っていることを認識しているゆえに、病人は医者のもとに行くのです。丈夫である、健康であると思っている人は、医者のもとにはいかないわけであります。それと同じように、自分が正しい人であると考えている人は、イエス様のもとへ行こうとはしないのです。イエス様の招きを自分への招きとして聞き取ることができないのであります。しかし、自分が罪人であると考えている人は、イエス様のもとへ行くわけです。徴税人たちは、ファリサイ派の人々から文字通り罪人と呼ばれておりました。それゆえ、彼らはイエス様のところへやって来ることができたのです(21:28~32参照)。

 「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。このイエス様の御言葉は、読みようによっては、イエス様のもとに行くことの必要ない正しい人がいるように読むことができます。しかし、聖書全体が明確に教えていることは、すべての人が神の御前に罪人であるということであります。詩編53編4節に、「だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善をおこなう者はいない。ひとりもいない」とありますように、すべての人は神の御前に罪人であるのです(ローマ3:9~20も参照)。それゆえ、イエス様は、すべての人を招くために、来てくださったのです。イエス様は、すべての人を罪から救うために、十字架の死を死んでくださり、三日目に復活してくださったのです。そして、今も、私たち教会を用いて、すべての人を御自分との交わりへと招いておられるのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す