罪を赦すイエス 2014年1月19日(日曜 朝の礼拝)

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罪を赦すイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 9章1節~8節

聖句のアイコン聖書の言葉

9:1 イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰って来られた。
9:2 すると、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われた。
9:3 ところが、律法学者の中に、「この男は神を冒涜している」と思う者がいた。
9:4 イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。
9:5 『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
9:6 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。
9:7 その人は起き上がり、家に帰って行った。
9:8 群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美した。マタイによる福音書 9章1節~8節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、マタイによる福音書9章1節から8節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

 イエスさまは、ガダラ人の地方から、舟に乗って、ガリラヤ湖を渡り、自分の町カファルナウムに帰って来られました(4:13参照)。かつてイエスさまは、カファルナウムで多くの病人をお癒しになったことがあります(8:14~17参照)。それで、人々は、中風の人を床に寝かせたまま、イエスさまのところへ連れて来たのです。中風とは、体の半身がまひして動かない症状をさします。中風の人は、いわゆる寝たきりの状態でありました。ですから、彼は人々によって、イエスさまのところへ連れて来てもらったのです。イエスさまは、その人たちの信仰をご覧になりましたが、「その人たちの信仰」と訳されている言葉は直訳すると「彼らの信仰」となります。イエスさまは、中風の人と、その中風の人を連れて来た人々の信仰をご覧になったのです。ここでの信仰とは、イエスさまなら中風を癒してくださるというイエスさまへの信頼のことであります。寝たきりの中風の人も、その中風を連れて来た人々も、イエスさまは中風を癒してくださると信じることにおいて一つでありました。イエスさまは、その彼らの信仰をご覧になって、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われたのです。イエスさまは、中風の人を、「子よ」と親しく呼びかけられました。そして、「元気を出しなさい」と言われるのです。この「元気を出しなさい」と訳されている言葉は、他のところでは、「安心しなさい」「勇気を出しなさい」と翻訳されています。さらに、イエスさまは、「あなたの罪は赦される」と言われます。元の言葉を見ますと、ここでの「罪」は複数形で記されています。イエスさまは、中風の人に、「あなたのもろもろの罪は赦されている。だから、子よ、元気を出しなさい、安心しなさい、勇気を出しなさい」と言われたのです。ところが、ある律法学者たちは、「この男は神を冒瀆している」と思いました。なぜなら、罪の赦しについて語ることができるのは神さまお一人であると彼らは考えたからです。罪の赦し、それは世の終わりにおいて、神さまによってなされることであったのです。その神さまの特権を、この男は自分のものにしている。そのようにして、神を冒瀆していると、律法学者たちは心の中で考えたのでありました。そして、イエスさまは、その彼らの考えを見抜いて、こう言われたのです。「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか。『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」。イエスさまは、中風の人に、「あなたの罪は赦される」と言われましたが、それを聞いていた律法学者たちは、そのイエスさまの御言葉を信じませんでした。それどころか、そのようなことを口にすることは、自分を神と等しい者とする冒瀆行為であると考えたのです。しかし、イエスさまは、そのような考えこそが、「悪いこと」であると言われます。そして、イエスさまの「あなたの罪は赦される」という御言葉を信じない律法学者たちに、「『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」と問われるのです。言うだけなら、どちらも易しいのでありますが、言ったことがそのとおりになったかどうかを問われるならば、これはどちらも難しいことであります。また、このようにも考えることもできます。「あなたの罪は赦される」と言うのは、見えないことであるから確かめようもない。しかし、「起きて歩け」と言うのは、見えることとして確かめられる。よって、「あなたの罪は赦される」と言う方が易しいと。おそらく、ある律法学者たちは、イエスさまが「あなたの罪は赦される」と言われるのを聞いて、でまかせの、はったりだ、と思ったのでしょう。と、言いますのも、罪が赦されているかどうかは目で見て確認することができないからです。しかし、イエスさまは、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせるために」、中風の人に、「起きて歩け」と言われるのです。ここでイエスさまは、御自分のことを「人の子」と言われましたが、この背景には、ダニエル書7章の御言葉があると考えられています。ダニエル書7章13節、14節にこう記されています。旧約の1393ページです。

 夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のようなものが天の雲に乗り/「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み/権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え/彼の支配はとこしえに続き/その統治は滅びることがない。

 このダニエル書の預言に基づいて、当時の人々は、世の終わりに、神さまから権威を与えられた人の子のようなものが、すべての民を裁くと信じておりました。しかし、イエスさまは、御自分こそ、その「人の子」であると言われるのです。それゆえ、イエスさまは、御自分がこの地上で罪を赦す権威を持っているとお語りになるのです。律法学者たちが考えたように、神さまだけが罪を赦すことができるお方でありますが、イエスさまはその権能をゆだねられている人の子であるのです(ヨハネ5:27参照)。

今朝の御言葉に戻ります。新約の15ページです。

 イエスさまは、心の中で悪いことを考えている律法学者たちに対して、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と言われ、中風の人に、「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われました。すると、その人は起き上がり、家に帰って行ったのです。人々に、床に寝かされたまま連れて来られた人が、自分の足で、家に帰って行ったのであります。そのようにして、イエスさまは、目に見えるかたちで御自分が罪を赦す権威を持っていることを示されたのです。このイエスさまの癒しの業を見て、律法学者たちがどのように反応したかは記されておりません。しかし、群衆は、イエスさまが中風の人を癒されたのは、イエスさまが中風の人の罪を赦されたことの確かなしるしであることを見て取ったのです。それゆえ、群衆は、これを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられた神を賛美したのです。

 今朝の御言葉は、罪の赦しと病の癒しについて記されておりますが、これは別々のことではなくて、密接に結びついています。といいますのも、聖書は、病の究極的な原因を人間の罪にあると教えているからです。聖書は、神さまがすべてのものを造られたこと、神さまが造られたすべてのものは極めて良かったことを教えています。では、どうして、この世の中に、病や死があるのでしょうか?それは、はじめの人アダムが罪を犯して、良き創造の状態から堕落してしまったからであるのです。あらゆる悲惨や病や死の究極的な原因は、人間の罪であるのです。しかし、それは病気を患っている人が、他の人よりも罪深いということではありません(ヨハネ9:1~3参照)。しかし、中風を患っていた人は、おそらく、自分の病気と自分の罪を結びつけて考えていたのではないでしょうか?中風を患っていた人だけではありません。イエスさまから、「あなたの罪は赦される」との御言葉をいただかなければ、人は、自分の病を自分の罪と結びつけて考えてしまうのだと思います。ですから、イエスさまは、中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言われたのです。このイエスさまの御言葉を聞いて、中風の人がどのような思いを抱いたかは記されておりませんから分かりません。しかし、彼は、イエスさまから病の癒しよりも大きな罪の赦しという恵みをいただいたのです。彼は中風を患ったままであっても、元気を出して、安心して、勇気を出して生きることができる恵みを与えられたのです。結果として、この人は中風を癒してもらうわけですが、中風の癒しは、彼にとって、自分の罪が赦されていることの確証となりました。では、そのような確証を私たちは与えられているでしょうか?私たちは、イエス・キリストにあってもろもろの罪を赦されておりますが、しかし、だからといって、私たちの病が即座に癒されるわけではありません。私たちは、イエス・キリストにあってすべての罪を赦されているわけですが、私たちの中には体調を崩している方が多くおられます。そのような私たちに、今朝の御言葉はどのような意味を持っているのでしょうか?そもそも、イエスさまが、「あなたの罪は赦される」と語ることができるのはなぜか?それは、イエスさまが、私たちの罪のために、刑罰としての十字架の死を死んでくださるからです。イエスさまは、主の晩餐の席において、弟子たちにこう言われました。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(26:28)。イエスさまが、「あなたの罪は赦される」と権威をもって語ることができるのは、その「あなた」の罪のために、十字架の上で死んでくださるからであるのです。イエスさまの十字架の死が、私たちの罪のためであったことを示すために、神さまは、イエスさまを死から三日目に栄光の体へと復活させてくださいました。そして、神さまは、イエスさまを御自分の右の座へと挙げられ、イエスさまをとおして、御自分の霊、聖霊を私たちに与えてくださったのです。そのようにして、私たちに罪の赦しを信じる信仰を与えてくださったのです。

今朝の御言葉を読みまして、私は、正直、うらやましいなぁと思いました。今でも、このように病が癒されるならば、罪の赦しについて信じることができるのではないかと思ったからです。しかし、考えてみますと、私たちは病が癒されること以上の保証を与えられているのであります。それは、十字架の死から三日目によみがえったイエス・キリストの聖霊であります。もちろん、聖霊は目に見えません。そのような意味で、罪の赦しはあくまでも、信仰の事柄です。そして、それはキリスト教の信仰の本質にかかわる事柄であるのです。使徒信条の中に、「わたしは聖霊を信じます。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、永遠の命を信じます。アーメン。」とありますように、罪の赦しを信じることは、私たちの信仰においてとても大切なことであるのです。今朝の説教を準備していく中で、私は自分が罪の赦しがどれほど大きな恵みであるのかを分かっていないのではないかと思わされました。しかし、イエスさまは、私たちに罪の赦しを与えるために、十字架の上で死んでくださったのです。罪の赦しがなければ、神さまを礼拝することもできないし、お祈りすることもできないのです。ですから、私たちが罪赦されていることの目に見えるしるしをあえて挙げるとすれば、それは、私たちがこのように教会として礼拝をささげていることであると思います。私たちが、イエス・キリストを信じて、罪の赦しを信じ、このように集って礼拝をささげている。そのこと自体が、私たちがイエス・キリストにあって罪赦されていることを指し示しているのです。ですから、私たちは主の日の礼拝ごとに、罪の赦しの宣言を聞くのです。罪の赦しの宣言を聞いて、罪赦された者として、神さまを礼拝するのであります。

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