天国で一番偉い者 2015年2月15日(日曜 朝の礼拝)

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天国で一番偉い者

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 18章1節~5節

聖句のアイコン聖書の言葉

18:1 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。
18:2 そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、
18:3 言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。
18:4 自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。
18:5 わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」マタイによる福音書 18章1節~5節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝からマタイによる福音書の18章を学び始めます。18章には、イエス様の教えが記されていますが、それは教会生活を営む弟子たちへの教えであります。私たちがキリストの教会として、どのような交わりを形づくっていくべきであるのか。そのことを、イエス様は18章で教えてくださっているのです。そのことを念頭においていただいて、今朝は1節から5節までをご一緒に学びたいと願います。

 イエス様がカファルナウムの家で、ペトロと神殿税について論じ合ったそのとき、弟子たちがイエス様のところに来て、こう言いました。「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」。天の国とは神の国でありまして、神様の御心が完全に行われるところであります。その天の国で、誰が最も大いなる者であるのか。この問いは、弟子たちの大きな関心事でありました。と言いますのも、彼らは、しばしば自分たちの中で一体誰が偉いのかと論じ合っていたからです(マルコ9:34参照)。そこで、イエス様は一人の子供を呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、こう言われます。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」。

「はっきり言っておく」。これは元の言葉ですと「アーメン、わたしはあなたがたに言う」でありまして、イエス様が大切なことを教えられるときの決まった言い回しであります。イエス様は権威ある者として、「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」と言われるのです。子供のようになること、それが天の国に入るために必要不可欠なことであるのです。では、「子供のようになる」とはどのようなことを意味しているのでしょうか?「子供のようになる」と聞きますと、私たちは色々なことを考えることができますが、ここでの「子供」は「低い者」の典型であります。それゆえ、イエス様は、続けて、「自分を低くして、この子供のようになる人が」と言われているのです。今からおよそ2000年前のユダヤの社会において、子供の社会的な地位はまことに低い者でありました。大人中心の社会において、子供は取るに足らない、つまらない者と見なされていたのです。そして、子供はそのことを受け入れているのです。子供は自分が低い者、小さい者であることを受け入れている。その子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない、とイエス様は言われたのです。自分が低い者、小さい者であることを受け入れる。それは自分たちの中で誰が一番大いなる者であるかと論じ合っていた弟子たちには、心を入れ替えねばならないほどのことであったのです。当時の多くの人々は、神様の掟を守って、その功績によって天の国に入ることができると考えていました。律法の教師を「ラビ」と言いますが、ラビとは「偉大な者」という意味であります。そのことからも分かりますように、人々は、律法の教師こそ偉大な者であり、天の国に真っ先に入ることができると考えていたのです。しかし、イエス様は、心を入れ替えて子供のように自分が低い者、小さい者であることを受け入れなければ、決して天の国に入ることはできないと言われるのです。さらには、心を入れ替えて、子供のように自分が低い者、小さい者であることを受け入れる人が、天の国でいちばん偉いのだ、と言われるのです。このイエス様の御言葉は、難しい御言葉ではないかと思います。なぜなら、このイエス様の御言葉は、この世の教えにも、また私たちの心の思いにも反するものであるからです。この世は、私たちが大人になること、偉大なものとなることを求めますし、私たちの心にも、大いなる者になりたいという願いがあります。そして、そのことは、決して悪いことではないと思います。自分に与えられている賜物を努力して開発したり、資格を取ったり、さまざまな体験を積み重ねていくことは、良いことであると思います。私たちはもっと立派な人間になるべきです。しかし、そのような世の常識、また生まれながらの私たちの心の思いは、天の国においてはまったく通用しないのです。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」。このイエス様の御言葉に真剣に耳を傾けるならば、私たちは絶望するしかないのではないかとさえ思います。自分は心を入れ替えて子供のように、自分が低い者、小さい者であることを受け入れることができるであろうか。私には、ほとんど不可能のように思えるわけです。それほどまでに、私の心には自分を大いなるものと考えてしまう傾向があることを認めずにはおれないのです。そもそも人間は「心を入れ替える」ことができるのかとさえ思ってしまうのです。こう考えてきますと、誰も天の国に入れないのではないか、イエス様は無理なことをここで言われているのではないかと思うのです。けれども、私たちは、自分を低くして、子供のようになられたお方を知っております。それは、他でもないイエス様御自身であります。フィリピの信徒への手紙2章1節から11節までをお読みします。新約の362ページです。

 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

 ここで使徒パウロは、フィリピの教会に、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」と記しています(3、4節)。そして、その模範として、キリストのことを記すのです。キリストがどれほど自分を低くされたかを、6節から8節に渡って記すのです。生まれながらの私たち、神のようになろうとして堕落したアダムの子孫である私たちには、心を入れ替えて、自らを低くすることはできません。しかし、最後のアダムとして生まれてくださった神の御子であるイエス・キリストは、自分を低くして、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であられたのです。イエス・キリストが自分を低くされたことは、十字架の死に至るまでの従順によって示されています。キリストが十字架の死に至るまで従順であることができたのは、御自分を低くされたからであるのです。それゆえ、神様はこのキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになったのです。イエス様は自分を低くして、十字架の死に至るまで従順であられたゆえに、天の国へ入れられ、さらには天の国でいちばん大いなる者とされたのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の34ページです。

 「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」。このイエス様の御言葉は、イエス様御自身において実現する御言葉であります。イエス様こそ、十字架の死に至るまで自分を低くされ、天の国に入り、あらゆる名に勝る名を与えられたお方であるのです。そして、私たちは、このイエス様にあって心を変えていただき、自分が低い者、小さい者であることを受け入れることができるようにされたのです。すなわち、十字架と復活の主であるイエス・キリストの聖霊をいただき、新しく生まれることによって、神様の御前に、自分が低い者、小さい者であることを認めることができるようにされたのです。

 神の国に入る道、それは十字架の死に至るまで自分を低くされ、神様によって高く上げられたイエス・キリストを信じることであります。イエス・キリストは、私たちに代わって神の掟を落ち度なく守り、私たちに代わって罪の刑罰である十字架の死を死んでくださいました。ですから、私たちは、イエス・キリストを信じるだけで、神様の恵みによって救われるのです。これがイエス・キリストの福音であります。しかし、多くの人にとって、そのような知らせは受け入れがたいことであるのです。それはなぜかと言えば、多くの人は、自分が低い者、小さい者であることを認めようとしないからです。イエス・キリストに頼らずとも、自分の力で、自分の良い行いで、天の国に入ることができると考えてしまうのです。「イエス様が、私たちに代わってすべてのことをしてくださいましたから、私たちはただ信じればよいのですよ」。そう言われれば、「それでは、私がすべきことは何もないのか」と言って、受け入れようとはしないのです。ただキリストの聖霊を与えられて、自分が低い者であること、小さい者であることを受け入れた人だけが、十字架の言葉を愚かな言葉としてではなく、神の知恵、神の力として聞き、信じることができるのです。

 神様の御前に、私たちが誇るべきものは何もありません。私たちは、ただイエス・キリストへの信仰という神様の恵みによって、天の国へと入れられたのです。そのことは、天の国の中心的な現れであるキリストの教会の一員とされていることからも分かります。教会こそ、天の国の中心的な現れであるのです。ですから、今朝の御言葉は、地上の教会において、私たちがどのような姿勢で歩むべきかを教えているのです。キリスト教会の一員となるにはどうすればよいのか。キリスト教会でいちばん偉い人はどのような人であるのか、そのことをイエス様は、今朝の御言葉で私たちに教えてくださっているのです。教会の一員とされた私たちは、十字架と復活の主であるイエス・キリストの聖霊を与えられ、神様の御前に、自分が低い者、小さい者であることを受けいれさせていただいた者たちであります。そのような私たちが形づくる教会の交わりにおいて、兄弟姉妹を軽んじ、受け入れないということがあってはならないのです。イエス様は、続く5節でこう言われています。「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」。ここでも、「子供」は、低い者、小さい者を代表しています。世の常識からすれば、社会的な身分の低い者は、相手にされない傾向があります。私たちがお近づきになりたいと思うのは、自分に利益をもたらす身分の高い人たちです。しかし、イエス様は、御自分の名のために低い者、小さい者を交わりに受け入れるようにと言われるのです。すなわち、キリスト教会の交わりは、分け隔て無く、誰にでも開かれている交わりであるのです。イエス様の御言葉のゆえに、低い者、小さな者を受け入れるならば、私たちはイエス様御自身を受けれることになるのです。それはイエス様が、御自分を信じるこれらの小さな者たちのためにも、十字架の上で命を捨ててくださったからです(一コリント8:11参照)。私たちは神様の目にも、また、人々の目にも低い者、小さな者であります。そして、そのことを私たちが認めることができるのは、その私たちのためにイエス・キリストが命を捨ててくださったからであるのです。それほどまでに、私たちを大いなる者と見なしてくださっているからなのです。それゆえ、私たちは卑屈になることなく、神様の御前に、そして、人々の前に、自分が低い者、小さい者であることを認めることができるのです。そのようにして、私たちは自分自身ではなく、神様を大いなる方として、ほめたたえることができるのです。

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