イエスの葬り 2016年2月28日(日曜 朝の礼拝)

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イエスの葬り

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 27章57節~66節

聖句のアイコン聖書の言葉

27:57 夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった。
27:58 この人がピラトのところに行って、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。そこでピラトは、渡すようにと命じた。
27:59 ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、
27:60 岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。
27:61 マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた。
27:62 明くる日、すなわち、準備の日の翌日、祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって、
27:63 こう言った。「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。
27:64 ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります。」
27:65 ピラトは言った。「あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい。」
27:66 そこで、彼らは行って墓の石に封印をし、番兵をおいた。マタイによる福音書 27章57節~66節

原稿のアイコンメッセージ

 前回、私たちは、イエス様の十字架の死が、私たち罪人の身代わりの死であり、私たちを罪から救う贖いの死であることを学びました。イエス様の十字架の死は、百人隊長や見張りをしていた人たちが、「本当に、この人は神の子だった」と告白するほどの出来事であったのです。今朝の御言葉はその続きであります。

 イエス様の十字架の死の出来事を、大勢の婦人たちが遠くから見守っておりました。この婦人たちは、ガリラヤからイエス様に従って来て世話をしていた人々でありました。イエス様と一緒に旅をしてきた弟子たちの中には、12人に代表される男の弟子だけでなく、婦人の弟子たちもいたのです(ルカ8:1~3参照)。この婦人の弟子たちは、イエス様と12人の身の回りのお世話をして、仕えていたのだろうと思います。具体的に言えば、食事の用意などをしていたのだと思います。その大勢の婦人たちが、遠くからイエス様が十字架の上で死なれたことを見守っていたのです。その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がおりました。「マグダラのマリア」は、ここで始めて出てきます。ルカ福音書によれば、マグダラのマリアは、イエス様によって七つの悪霊を追い出していただいた女でありました(ルカ8:2)。「ヤコブとヨセフの母マリア」は、イエス様の母マリアのことであるようです。13章に、イエス様が故郷のナザレで受け入れられないというお話が記されていましたが、その55節にはこう記されておりました。「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか」。イエス様の弟にはヤコブとヨセフがおりました。それで、ヤコブとヨセフの母マリアとはイエス様の母マリアのことであると考えられるのです(ヨハネ19:25参照)。「ゼベダイの子らの母」は、20章に出て来たことがあります。ゼベダイの母とは、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの母でありますが、彼女は、イエス様に、「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」と願い出たことがありました。このように、イエス様の十字架の死を見守ったのは、男の弟子たちではなく、女の弟子たちであったのです。

 夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が総督ピラトのところに行って、イエス様のご遺体を渡してくれるようにと願い出ました。ユダヤでは、夕方から一日が始まります。ですから、新しい日が始まろうとしていたわけです。ユダヤ人は、十字架の死を、木にかけられた者の死、神に呪われた者の死であると考えておりましたが、木にかけられた死体は、必ずその日のうちに埋められねばなりませんでした(申命22:23参照)。普通ならば、十字架につけられた者は、囚人用の共同墓地に葬られるのでありますが、アリマタヤのヨセフの願い出によって、イエス様の体は丁重に葬られることになるのです。イエス様の体が、アリマタヤ出身のヨセフによって葬られたことは、四つの福音書が記しているところであります。しかし、アリマタヤのヨセフについての説明は、少し違っております。最初に記されたと考えられているマルコによる福音書は、「アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフ」と記しています(マルコ15:43)。また、ルカによる福音書は、「ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである」と記しています(ルカ23:50,51)。また、ヨハネによる福音書は、「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフ」と記しています(ヨハネ19:38)。このようにアリマタヤのヨセフについての説明にはそれぞれに違いがあるのですが、マタイによる福音書は、アリマタヤ出身のヨセフが「金持ちで」あり、「イエスの弟子であった」と記しています。ヨセフが金持ちであったことは、ヨセフがエルサレムに自分の墓を持っていたことの理由となります。当時、金持ちはエルサレムに自分の墓を持っておりました。それゆえ、金持ちであったヨセフもエルサレムに自分の墓を持っていたわけです。また、ヨセフが「金持ちである」と記されているのは、このヨセフによって、イザヤ書の預言が成就したことを教えるためでもあります。イザヤ書53章には、神の御心に従って苦難の死を遂げる主の僕の姿が預言されていますが、その9節に、「その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた」と記されています。金持ちであるヨセフの墓に葬られることによって、このイザヤ書の預言が実現したと福音書記者マタイは私たちに言いたいわけです。それは、イエス様のご遺体がアリマタヤのヨセフによって葬られることの背後に、神様の計らいと導きがあったということです。また、福音書記者マタイは、ヨセフが「イエス様の弟子であった」と記しております。イエス様のご遺体は、弟子であるヨセフの手によって葬られることになるのです(14:12参照)。ピラトは、ヨセフが願い出たとおり、イエス様のご遺体を渡すように命じました。ヨセフは、イエス様の体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去りました。イエス様のご遺体はきれいな亜麻布に包まれ、岩に掘った新しいお墓に納められるという仕方で、丁重に葬られたのです。アリマタヤのヨセフは、自分のために用意していた新しい墓を、イエス様のご遺体を葬るためにささげたのでありました。かつてイエス様は、御自分の頭に香油を注がれた女に、「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた」と仰いましたが、アリマタヤのヨセフは、自分の新しい墓をささげることによって、イエス様のお体を丁重に葬ったのです(26:12参照)。

 アリマタヤのヨセフは、墓の入り口に大きな石を転がして立ち去りましたが、マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っておりました。マグダラのマリアともう一人のマリアは、十字架につけられたイエス様が死なれたことの目撃者でありましたが、ここでは、イエス様が葬られたことの目撃者として記されております。そして、この二人の婦人は、後に復活されたイエス様とお会いする、復活の目撃者ともなるのです(28:1参照)。

 明くる日、すなわち、準備の日の翌日、祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まってこう言いました。「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります」。「準備の日の翌日」とありますが、これは週の終わりの日である安息日のことであります。安息日、しかも過越の祭りを祝う安息日に、祭司長たちとファリサイ派の人々が異邦人であるピラトのところに集まったとは考えにくいことであります。しかし、祭司長たちとファリサイ派の人々があえてそのようなことをしたところに、事の重大さが表れているとも言えます。彼らは、ピラトを「閣下」と呼んでいますが、これは元の言葉では、「主」とも訳すことのできる言葉(キュリオスの呼格であるキュリエ)であります。そのような言葉で、祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトに呼びかけているのです(ヨハネ19:15「祭司長たちは、『わたしたちには、皇帝のほかに王はありません』と答えた」参照)。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエス様のことを「人を惑わすあの者」と呼んでおります。イエス様は、弟子たちに世の終わりについて教えられたとき、人を惑わす者が現れると予告しておられましたが、祭司長たちとファリサイ派の人々にとって、イエス様こそが人を惑わす者であったのです。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエス様がまだ生きていたとき、「自分は三日後に復活する」と言っていたのを思い出したと言っておりますが、これは、おそらく12章40節のことを指しているのだと思います。かつてイエス様はしるしを求めるファリサイ派の人々に、こう仰いました。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」。ここには、直接、「復活する」とは言われておりませんが、大地の中にいるのが三日三晩と限定されていることによって、復活することが暗示されております。このイエス様の御言葉をファリサイ派の人々は聞いていたわけです。あるいは、イエス様は弟子たちに、十字架の死と復活について予告されておりましたから、イスカリオテのユダを通して、祭司長たちとファリサイ派の人々も、イエス様が自分は三日後に復活すると言っていたことを聞いていたのかも知れません(16:21、17:23、20:19参照)。ともかく、そのことを思い出した祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトに、「三日目まで墓を見張るように命令してください」と願い出るのです。彼らはもちろん、イエス様が復活されるなどとは信じておりません。彼らの心配は、弟子たちが来て死体を盗み出し、「イエスは死者の中から復活した」などと民衆に言いふらすかもしれないということであったのです。「そうすると、人々は前よりもひどく惑わされることになる」と彼らは心配したのです。これに対して、ピラトはこう言いました。「あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい」。この「番兵」は祭司長たちの兵というよりも、祭司長たちのもとにいたローマの番兵のことであります(元の言葉コウストディアはラテン語に由来する。28:14参照)。ピラトは、祭司長たちに、「あなたたちにあずけているローマの番兵を、墓を見張らせるために用いてよろしい」との許可を与えたわけです。そこで、祭司長たちは、行って、墓の石に封印をし、番兵を置いたのでありました。そのようにして、祭司長たちは、弟子たちがイエス様の体を盗むことができないようにしたのです。

 さて、今朝の説教題を、「イエスの葬り」といたしました。イエス様が墓に葬られたこと。このことは、イエス様が確かに死なれたことを教えております。イエス様は仮死状態にあったのではなく、確かに死なれて、葬られたのです。このことは、私たちにとって大きな慰めであります。私たちが、主にある兄弟姉妹の死と葬りに立ち会うとき、私たちは私たちに先立って、主イエス・キリストが私たちのために死んでくださり、葬られたということを思い起こすことができます。イエス様は、墓の中にまでくださった、死の領域、陰府にまで降られたのです。旧約聖書において死とは、神様との交わりが立たれた所と考えられておりました。詩編88編には、「墓の中であなたの慈しみが/滅びの国であなたのまことが/語られたりするでしょうか。闇の中で驚くべき御業が/忘却の地で恵みの御業が/告げ知らされたりするでしょうか」と記されています。しかし、イエス様は、その墓の中に来てくださったのです。それゆえ、「墓の中においても主が共におられる」と私たちは語ることができるようになったのです。ウェストミンスター小教理問答は、その恵みの事実を、「信者の体は、依然としてキリストに結びつけられたまま、復活まで墓の中で休みます」という言葉で言い表しました(問37)。イエス様が死んで、葬られることによって、私たちの体は墓に葬られても、イエス様と結ばれているのです。そして、その体はイエス様が復活されたのと同じように復活するのです。イエス様が死んで、葬られただけであるならば、そこには何の慰めもありません。しかし、次週学ぶことになるように、イエス様は死から三日目に栄光の体で復活されるのです。弟子たちに予告しておられたように、死から三日目に復活するのです。それゆえ、墓は、イエス様を信じる者たちにとって、終(つい)の住処ではありません。また、死は、永遠の眠りではありません。イエス様を信じ、イエス様に結ばれている私たちにとって、墓は一時(ひととき)の休憩所であり、死はやがて目覚める眠りとなったのです。イエス様が死んで墓に葬られた。そして、墓から三日目に復活なされたことによって、墓の持つ意味が大きく変えられたのです。私たちの教会は、せんげん台教会と南越谷コイノニア教会と共有で春日部の地にお墓を持っております。その記念会が来月の3月20日に行われますけれども、お墓を前にして思い起こすことは、ここに納められている兄弟姉妹に先立って、イエス様が葬られてくださったということです。そして、イエス様が兄弟姉妹に先立って、その初穂、保証として復活してくださったということであります。そのとき、私たちはお墓を前にして、死んでも生きる復活の命の希望を新たにすることができるのです。

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