裁かれるイエス 2016年1月10日(日曜 朝の礼拝)

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裁かれるイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 26章57節~68節

聖句のアイコン聖書の言葉

26:57 人々はイエスを捕らえると、大祭司カイアファのところへ連れて行った。そこには、律法学者たちや長老たちが集まっていた。
26:58 ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事の成り行きを見ようと、中に入って、下役たちと一緒に座っていた。
26:59 さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。
26:60 偽証人は何人も現れたが、証拠は得られなかった。最後に二人の者が来て、
26:61 「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げた。
26:62 そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」
26:63 イエスは黙り続けておられた。大祭司は言った。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか。」
26:64 イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る。」
26:65 そこで、大祭司は服を引き裂きながら言った。「神を冒涜した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒涜の言葉を聞いた。
26:66 どう思うか。」人々は、「死刑にすべきだ」と答えた。
26:67 そして、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、
26:68 「メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と言った。マタイによる福音書 26章57節~68節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、マタイによる福音書26章57節から68節より、御言葉の恵みに御一緒にあずかりたいと願っております。

 前回私たちは、イエス様が神の御心を実現するために、群衆に捕らえられたことを学びました。イエス様は、父なる神に十二軍団以上の天使を送ってくださるよう願われることなく、聖書の言葉を実現するために、群衆に捕らえられることをよしとされたのです。

 群衆はイエス様を捕らえると、大祭司カイアファのところへ連れていきました。大祭司カイアファの屋敷には、律法学者たちや長老たちが集まっておりました。彼らは自分たちが遣わした大勢の群衆がイエス様を捕らえて連れて来るのを待っていたのです。イエス様は大勢の群衆に捕らえられ、連れて行かれたのですが、そのイエス様にペトロは遠く離れて従い、大祭司の屋敷の中庭まで行き、事の成り行きを見ようと下役たちと一緒に座っていました。ペトロについては、69節以下に記されておりますので、次回御一緒に学びたいと思います。

 59節に、「さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとイエスにとって不利な偽証を求めた」と記されています。時は夜であり、場所は大祭司カイアファの屋敷という状況において、最高法院によるイエス様の裁判が行われております。これは異常なことであります。裁判は昼に、また公の場所で行われるのが普通でありますが、イエス様の裁判は、捕らえられた夜に、大祭司カイアファの屋敷で行われたのです。しかも、裁判をする前から、イエス様を死刑にすることは決定済みであったのです。彼らの関心は決められた手続きをふんで裁判を行うことであったのです。すなわち、モーセの律法に従って、二人の一致した証言によってイエス様を死刑に定めることが彼らの関心事であったのです(申命17:6参照)。ここで、「不利な偽証を求めた」とありますが、もちろん彼らはあからさまに偽りの証言を求めたわけではありません。しかし、イエス様は罪のないお方であり、何一つ罪のないお方でありますから、イエス様にとって不利な証言をしようとすれば、偽りの証言とならざるを得ないのです。旧約聖書のレビ記19章15節に、「あなたは不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。民の間で中傷をしたり、隣人の生命にかかわる偽証をしてはならない。わたしは主である」とありますが、最高法院によるイエス様の裁判は、この主の御心から遠く離れた形式的なものであったのです。

 偽証人は何人も現れましたが、証拠は得られませんでした。イエス様にとって不利となる一致した証言を得ることができなかったのです。最後に二人の者が来て、「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」と告げました。この証言については偽証であるとは記されておりません(マルコ14:57では「偽証」と記されているのに関わらず)。それはこの二人の証言が悪意によって歪められたものであっても、そこにはイエス様の御言葉が含まれていたからであると思われます。イエス様が、「神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる」という言葉を文字通りに言ったのではないにしろ、その元にはイエス様の御言葉があったと考えられるのです。「神の神殿を打ち倒し」という言葉について言えば、イエス様は、弟子たちにエルサレム神殿が崩壊することを予告されておりました(23:38、24:2参照)。また、「神の神殿を・・・・・・三日あれば建てることができる」という言葉については、ヨハネによる福音書の2章を見ますと、イエス様が御自分の体を指して、「この神殿を壊してみよ。三日で立て直してみせる」と言われたことが記されております。イエス様は御自分が神殿を壊すとは言われておりませんが、二人の証人たちは、イエス様が「神殿を壊すことができる」と言ったとイエス様の言葉を歪めて証言したのです。神殿に敵対する言葉を語ったという証言は、イエス様にとって不利な証言でありました(エレミヤ26:1~11参照)。そこで、大祭司は立ち上がり、イエス様にこう言うのです。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか」。しかし、イエス様は黙り続けておられました。イエス様は御自分について弁護されることなく、黙り続けておられたのです。旧約聖書のイザヤ書53章7節に、「苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を刈る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった」とありますが、イエス様はイザヤ書53章に預言されている主の僕として、黙り続けておられたのです。

 大祭司は、イエス様の沈黙を二人の証言を認めるものと理解したようであります。それで、大祭司はイエス様にこう言いました。「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか」。この大祭司の言葉はどこか唐突な気がしますが、この背景には、来るべきメシアが神殿を建て直すという当時のユダヤ人たちの期待があります。旧約聖書のゼカリヤ書6章12節にこう記されております。「万軍の主はこう言われる。見よ、これが『若枝』という名の人である。その足もとから若枝が萌えいでる。彼は主の神殿を建て直す」。このところから、「若枝」と言われている約束のメシアが神殿を建て直し、エゼキエル書40章以下に預言されている神殿が完成されると期待されていたのです。ですから、二人の証言、「この男は、『神の神殿を打ち倒し、三日あれば建てることができる』と言いました」という証言は、言い換えれば、「イエス様が『自分は神殿を建て直す若枝、メシアである』と言った」という証言であるのです。ですから、大祭司は、黙り続けるイエス様に、「生ける神に誓って我々に答えよ。お前は神の子、メシアなのか」と言ったのであります。大祭司は二人の者たちの証言が意味するところを、ずばりと尋ねたわけです。しかも、「生ける神に誓って我々に答えよ」と発言することを強要したのです。

 この大祭司の言葉を受けて、イエス様はこう言われました。「それは、あなたが言ったことです」。ここでイエス様は、生ける神に誓ってもおられませんし、御自分が神の子であるとも、メシアであるとも言われておりません。「お前は神の子、メシアなのか」という大祭司の言葉を受けて、「それは、あなたが言ったことです」と答えただけであります。このイエス様の御言葉は、相手に問いを投げ返すか、間接的に答えることを拒否する言い方であります(26:25参照)。なぜなら、イエス様は、大祭司が思い描くようなメシアではなかったからです。大祭司が思い描くメシアとは、軍事力によってローマの支配からイスラエルを解放する政治的、民族主義的なメシアでありました。それゆえ、イエス様は大祭司の「お前は神の子、メシアなのか」という言葉に対して、「それは、あなたが言ったことです」と間接的に答えることを拒否されたのです。

 イエス様は続けてこう言われます。「しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る」。ここで、イエス様は旧約聖書の御言葉を用いて御自分がどのようなメシアであるかを明かとされました。イエス様は、御自分が詩編110編1節の預言のとおり全能の神の右に座して全世界を支配し、ダニエル書7章13節の預言のとおり、全世界を裁くために天の雲に乗って来られると言われたのです。その姿をあなたがたはやがて見ることになるとイエス様は大祭司をはじめとする最高法院の議員たちすべてに言われたのです。イエス様を裁いている者たちが、イエス様によって裁かれる日が来ると言われたのであります。なぜ、イエス様は、大祭司をはじめとする最高法院の議員たちに、御自分が何者であるかをお語りになったのでしょうか?それは「私たちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる」からです。また、「キリストは御自身を否むことができない」お方であるからです(二テモテ2:13参照)。

「しかし、わたしは言っておく。あなたがたはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る」。このイエス様の御言葉は、大祭司をはじめとする最高法院の議員たちに、信じるか、信じないかの選択を迫る言葉であります。ここで大祭司をはじめるとする最高法院の議員たちは、大きな選択、大きな裁きに直面しているのです。しかし、大祭司をはじめとする最高法院の議員たちはそのことに気がつきません。大祭司はイエス様の御言葉を聞いて、服を引き裂きながらこう言うのです。「神を冒瀆した。これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は今、冒瀆の言葉を聞いた。どう思うか」。イエス様を神の子、メシアとは信じていない大祭司にとって、イエス様が、全能の神の右に座し、天の雲に乗って来ると言われたことは、自分を神と等しい者とする冒瀆の言葉でありました(9:3参照)。そして、そのことは最高法院の議員たちにとっても同じことでありました。それゆえ、最高法院の議員たちは、イエス様を「死刑にすべきである」と答えたのです(レビ24:13~16参照)。イエス様は、御自分を神と等しい者とする神を冒瀆する者として、最高法院において死刑の判決を受けられたのです。

67節、68節に、「そして、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、『メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ』と言った」と記されています。ここにも、私たちは、イザヤ書が預言している主の僕の姿を見ることができます。イザヤ書の50章4節から9節までをお読みします。旧約の1145ページです。

主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え/疲れた人を励ますように/言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし/弟子として聞き従うようにしてくださる。主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。主なる神が助けてくださるから/わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている/わたしが辱められることはない、と。わたしの正しさを認める方は近くいます。誰がわたしと共に争ってくれるのか/われわれは共に立とう。誰がわたしを訴えるのか/わたしに向かって来るがよい。見よ、主なる神が助けてくださる。誰がわたしを罪に定めえよう。見よ、彼らはすべて衣のように朽ち/しみに食い尽くされるであろう。

ここに、最高法院において沈黙し続けられたイエス様の信仰が記されております。イエス様をあざけり、その顔に唾を吐きかけても、イエス様はそれをあざけりとは思われない。なぜなら、イエス様の近くには御自分の正しさを認めてくださる方がおられるからです。イエス様の正しさを認めてくださる父なる神が共にいてくださるゆえに、誰もイエス様を辱めることはできないのです(ヨハネ16:32参照)。

天の父なる神は、イエス様に対して、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言われました(3:17、17:5参照)。イエス様は御自分が父なる神の愛する子であり、神の御心をいつも行う者であることを知っているのです。そのイエス様を、最高法院の議員たちが罪に定めることができるでしょうか?イエス様の父なる神に対する信頼を損なわせることができるでしょうか?できません。最高法院の議員たちがイエス様の顔に唾を吐きかけて、平手で打ち、嘲っても、父なる神と共におられるイエス様を辱めることは決してできないのです(一ヨハネ5:18参照)。

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