ゲツセマネの祈り 2015年12月06日(日曜 朝の礼拝)

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ゲツセマネの祈り

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 26章31節~46節

聖句のアイコン聖書の言葉

26:31 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』/と書いてあるからだ。
26:32 しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」
26:33 するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。
26:34 イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
26:35 ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。
◆ゲツセマネで祈る
26:36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。
26:37 ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。
26:38 そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」
26:39 少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
26:40 それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。
26:41 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
26:42 更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」
26:43 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。
26:44 そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。
26:45 それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。
26:46 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」マタイによる福音書 26章31節~46節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、マタイによる福音書26章31節から46節より御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

 前回私たちは、イエス様が過越の食事に代わるものとして、主の晩餐を制定されたことを学びました。今朝の御言葉はその続きであります。

一同が賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた、そのとき、イエス様は弟子たちにこう言われました。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。過越の食事の席において、イエス様は、「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と言われましたが、今朝の御言葉では、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく」と言われます。イエス様は、弟子たちが皆、今夜自分を捨てて去ってしまうと予告されるのです。そして、それは聖書の御言葉、ゼカリヤ書13章7節にある御言葉が実現するためであると言われるのです。「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう」。ここでの「わたし」は、神様のことであります。神様が羊飼いであるイエス様を打たれるので、羊の群れである弟子たちは散ってしまうというのです。イエス様は、この聖書の御言葉が今夜、あなたたちのうえに実現すると言われるのです。しかし、散らされてしまった羊の群れは散らされたままではありません。なぜなら、神様は羊飼いであるイエス様を復活させられるからです。イエス様は復活させられた後、弟子たちより先にガリラヤへ行き、彼らを再び一つの群れとしてくださるのです。

このイエス様の御言葉を聞いて、ペトロはこう言いました。「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。ペトロは、「他の弟子たちがあなたのもとから去って行くようなことがあっても、わたしはあなたのもとを去って行くようなことはありません」と言ったわけです。そのペトロにイエス様はこう言われます。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」。鶏とは朝を告げる鳥でありますから、鶏が鳴く前にとは、夜が明ける前にということであります。また、「三度」イエス様のことを知らないということは、イエス様との関係を完全に否定することを意味します。イエス様は、ペトロが、夜が明ける前に、御自分との関係を完全に否定すると予告されたのです。それに対して、ペトロはこう言いました。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」。このように言ったのは、ペトロだけではありませんでした。他の弟子たちも皆、同じように言ったのです。

それから、イエス様は弟子たちと一緒にゲツセマネというところに来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われました。そして、イエス様は、ペトロおよびゼベタイの子二人を伴って先に進まれたのです。ペトロとゼベタイの子であるヤコブとヨハネの三人は、十二人の中でも、イエス様から特に目をかけられた弟子たちでありました。17章に、「イエス様の姿が変わる」、いわゆる山上の変貌のお話が記されておりましたが、このときも、イエス様は、ペトロとヤコブとヨハネの三人だけを伴われました。聖書には、「二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない」とありますが、イエス様はペトロとヤコブとヨハネの三人を、これから起こることの証人として伴われたのです(申命19:15参照)。イエス様は、悲しみもだえ始められて、彼らにこう言われました。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」。そして、少し進んで行って、うつ伏せになり、こう祈られたのです。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」。うつ伏せになって祈るとうは、これ以上できないほど身を低くして祈るということであります。また、新共同訳聖書は訳出していませんが、元の言葉では、「わたしの父よ」と記されています(マルコでは「アバ、父よ」)。イエス様は、人となられた神の独り子として、「わたしの父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られたのです。「この杯」とは、イエス様がこれから受けようとしている苦難と死、多くの人の罪を贖う十字架の死のことであります。イエス様が悲しみもだえられて、「わたしの父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られたことは、私たちにとって驚きではないでしょうか?イエス様は、これまで三度、御自分の死と復活について弟子たちに予告してきました。そして、その予告を実現する者として、エルサレムに入城されたのです。過越の食事の席では、「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く」と言われ、さらには、主の晩餐を制定することにより、御自分の十字架の死の意味を前もって説き明かされたのでありました。すなわち、イエス様はこれから十字架で流される御自分血が、「罪が赦されるように、多くの人のために流される・・・・・・契約の血」であることを教えられたのです。そのイエス様が、ここでは、悲しみもだえて、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られるのです。このことは、私たちにイエス様がまことの神の子でありつつ、まことの人であられたことを教えております。イエス様は神の子であられたから、死が怖くなかったかと言えば、そうではありません。イエス様は、十字架の死を前にして、悲しみもだえ、「わたしの父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られたのです。先程私は、この「杯」は、多くの人の罪を贖う十字架の死のことであると言いましたが、イエス様は、自分の罪のために、十字架に磔にされて殺されるのではありません。聖霊によっておとめマリアから生まれたイエス様は罪の無いお方であり、その生涯においても、何一つ罪を犯したことがないお方でありました。本来、十字架の死とは無縁のお方であるのです。そのイエス様が多くの人の罪を担って、十字架の死を、律法違反者としての呪いの死を死ななくてはならない。そのことをできることなら避けたいとイエス様は願われたのです。しかし、イエス様はその願いを父なる神様に押しつけることはしませんでした。イエス様は続けて、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られるのです。

それから、イエス様が弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っておりました。彼らは、イエス様から、「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい」と言われていたにもかかわらず、眠っていたのです。それゆえ、イエス様は弟子たちにこう言われるのです。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱い」。眠ってしまっていた弟子たちに、イエス様は、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と言われます。この「誘惑」とは、イエス様につまずいてしまう誘惑、イエス様を知らないと言ってしまう誘惑であります。ペトロは、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。「たとえ、御一緒に死なねばならなくても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言いました。ヤコブとヨハネも同じように言ったはずです。では、彼らはそのために祈っていたかと言えば、祈っていなかった。イエス様から、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく」と予告されておりながら、彼らは眠ってしまっていたのです。ですから、イエス様は弟子たちに、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と言われるのです。そして、彼らへの同情を込めて、「心は燃えていても、肉体は弱い」と言われるのです。イエス様は彼らが心では、イエス様と一緒に目を覚ましていようと願っていても、肉体の疲れから眠気が催してしまうことをご存じであられるのです。

更に、イエス様は二度目に向こうへ行ってこう祈られました。「わたしの父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」。ここで、イエス様はもはや御自分の願いについてよりも、父なる神様の御心が行われることを祈っておられます。イエス様は父なる神様との祈りの交わりの中で、「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」という自分の願いよりも、御自分がこの杯を飲むという父なる神様の御心が行われることを祈り求めるようになるのです。そのようにして、イエス様は、祈りの中で、御自分の意志を父なる神の御意志に従わせられたのです。まさしく、イエス様は祈りの中で、従順を学ばれたのであります。このことは、ヘブライ人への手紙5章7節から10節に記されていることでもあります。新約の406ページです。

キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです。

この御言葉は、「ゲツセマネの祈り」のことを言っていると考えられています。ヘブライ人への手紙は、イエス様の祈りと願いが、「その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」と記しておりますが、私たちはここに違和感を覚えるかも知れません。と言いますのも、イエス様は、結局は杯を飲み干すことになるからです。では、なぜ、ヘブライ人への手紙は、イエス様の祈りと願いが「その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられた」と記したのでしょうか?それは、イエス様が杯を飲むことを、父なる神の御心として受け入れ、父なる神の御心が行われることを祈り願う者とされたからです。それゆえ、ヘブライ人への手紙は、続けて、「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれた」と記すのです。イエス様は祈りにおいて、父なる神様の意志に御自分の意志を従わせることにより、父なる神の御心を御自分の心とされたのです。イエス様は、「あなたの御心が行われますように」という祈りによって、父なる神の御意志よりも、自分の意志を重んじるという誘惑に打ち勝たれたのです。

では、今朝の御言葉に戻ります。新約の54ページです。

 イエス様が再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っておりました。「ひどく眠かったのである」とありますが、これは元の言葉では「目が重かった」と記されています。目を開けようと思っても、開けられない。それほどの眠気に弟子たちは襲われていたのです。そのような弟子たちからイエス様は離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られました。イエス様は、「あなたの御心が行われますように」と三度も祈られたのです。それから、イエス様は弟子たちのところに戻って来てこう言われたのです。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」。ここにはもはや悲しみもだえるイエス様のお姿はありません。ここにあるのは、父なる神の御心が行われますようにと祈り、その父なる神の御心を行われる毅然としたイエス様のお姿であります。

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