主の晩餐 2015年11月29日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

主の晩餐

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 26章26節~30節

聖句のアイコン聖書の言葉

26:26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」
26:27 また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。
26:28 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。
26:29 言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」
26:30 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。マタイによる福音書 26章26節~30節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、マタイによる福音書26章26節から30節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

 「一同が食事をしているとき」とありますが、この食事は「過越の食事」であります。過越の食事とは、その昔、神様がイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放されたことを祝う食事でありました。その過越の食事の席で、イエス様は、新約の礼典の一つである「主の晩餐」を制定されたのです。

 この食事は「過越の食事」でありますから、そこでなされるべきことは、その意味の説き明かしでありました。父親は子供に、この儀式の意味を説き明かすことが命じられていたのです。出エジプト記12章21節から28節までをお読みします。旧約の112ページです。

 モーセはイスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである。

 あなたたちはこのことを、あなたと子孫の定めとして、永遠に守らねばならない。また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『これは主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」民はひれ伏して礼拝した。それから、イスラエルの人々は帰って行き、主がモーセとアロンに命じられたとおりに行った。

 過越の食事のメインディッシュは羊でありますが、その羊は、過越の犠牲として屠られた羊でありました。イスラエルの人々は主の言葉に従って、その羊の血を鴨居と入り口の二本の柱に塗り、その肉を火で焼いて食べたのです。そして、その食事の席で、「主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々を過越し、我々の家を救われた」ことを語り伝えたのです。ここで、「我々の家」と言われていることに注意していただきたいと思います。過越の食事は、主が先祖たちを救われたことを祝う儀式というだけでなく、我々の家を救われたことを祝う儀式でもあるのです。主は過越の食事を永遠に守らねばならない定めとすることにより、イスラエルの人々が約束の地に定住してからも、主の救いの御業を思い起こし、追体験することができるようにされたのです。

 では、今朝の御言葉に戻りましょう。新約の53ページです。

 過越の食事は「儀式」と言われていたように、ある秩序をもって行われておりました。ある研究者(エレミアス)によれば、当時の過越の食事は、次のように行われておりました。『イエスの聖餐のことば』という書物からの抜粋を週報に印刷しておきましたので御覧ください。

A 前菜

  第一の杯についてなされる家長の聖別のことば

  前菜。この内容は緑菜、苦菜、ジャムから作ったソースその他。

  食事が運ばれるが、まだ手はつけられない。第二の杯が混ぜられ、前に置かれるが、まだ手はつけられない。

B  過越の儀式

  家長による過越の意味の説き明かし 

  過越祭のハレル(詩編113~118編)の最初の部分。詩編113編もしくは114編まで。

  第二の杯が飲まれる。

C 食事の主要部

  家長が種入れぬパンについてする食卓の祈祷

  食事。この内容は過越の小羊、種入れぬパン、苦菜であり、それにジャムとぶどう酒が添えられる。

  第三の杯についての食卓の祈祷

D 結末部

  第四の杯が注がれる。

  過越祭のハレルの第二部。詩編114編、もしくは115~118編まで。

  第四の杯についての賛美

 このように、過越の食事はまさに儀式でありました。祈りがささげられ、詩編が歌われ、神様の御業が説き明かされるという点から言えば、過越の食事は礼拝であったのです。ちなみに、30節に「一同は賛美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけた」とありますが、この賛美の歌は、過越のハレルの第二部、詩編115編から118編であったことが分かります。また、私たちは、今朝の御言葉の「一同が食事をしているとき」が、「C 食事の主要部」のときであったことが分かるのです。このことを確認したうえで、今朝の御言葉そのものを見ていきましょう。

 イエス様は、種入れぬパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながらこう言われました。「取って食べなさい。これはわたしの体である」。また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡してこう言われました。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」。ここでイエス様は過越の食事のパンと杯に新しい意味づけをされています。パンを「わたしの体である」と言われ、杯の中身であるぶどう酒を「わたしの血」と言われるのです。このように意味づけされたパンとぶどう酒は、十字架につけられるイエス様を指し示すものであります。その昔、主がエジプトに対する最後の災いに先立って過越の食事を制定されたように、主イエスは十字架の死に先立って、主の晩餐を制定されるのです。主イエスは、パンとぶどう酒によって、御自分の十字架の死の意味を前もって説き明かされるのです。

 イエス様は裂かれたパンについては、「これはわたしの体である」としか言われていませんが、杯、その中身であるぶどう酒については、「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言われています。十字架刑は、磔の刑でありまして、手や足に釘を打たれたとき、文字通りイエス様の血が流れたと思います。イエス様は、その御自分の血潮について、「罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言われるのです。このイエス様の御言葉には、旧約聖書の教えが集約されております。初めに思い起こしたいことは、神様がイスラエルの罪を赦すために動物犠牲を定められたということです。聖なる神様の御前に、罪人である人間は本来立つことができません。そのことは、神の民とされたイスラエルの人々も同じです。それゆえ、神様は、彼らの罪を赦すために動物犠牲の制度を定められました。レビ記の17章に、「血を食べてはならない」という文脈の中で次のように記されています。「生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである」。聖なる神様の前に立つとき、罪人である私たちは死ななければなりません。しかし、それでは神様を礼拝することはできませんので、神様は動物の血を流すことによって、それを献げる人の命を贖うことを定め、人が神様を礼拝できるようにしてくださったのです。イエス様は、これから十字架につけられて流す御自分の血が、多くの人の命を贖い、罪の赦しをもたらす血であることを教えられたのです。すなわち、イエス様によれば、過越の犠牲ばかりでなく、旧約聖書に記されているすべての動物犠牲は、御自分の十字架の死を指し示すものであったのです。

 また、イエス様の御言葉、「罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」という御言葉は、旧約の預言者エレミヤが預言していた「新しい契約」を思い起こさせます。ここは大切な個所ですので、開いて読みたいと思います。旧約の1237ページです。エレミヤ書31章31節から34節までをお読みします。

 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

 新しい契約において、主は、「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」と言われます。それは、新しい契約が、イエス様の十字架の贖いの血潮によって結ばれるからです。出エジプト記24章によれば、主はエジプトから導き出したイスラエルと雄牛の血によって契約を結ばれました。しかし、新しい契約は、神の独り子であるイエス・キリストの血によって結ばれるのです。それゆえ、新しい契約において、「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」と主は言われるのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の53ページです。

 イエス様の御言葉、「罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」という御言葉について、旧約聖書からいろいろと思い巡らしてきましたが、最後に思い起こしたい個所は、イザヤ書の53章であります。ここでは、イザヤ書53章10節から12節までをお読みします。「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らの償いの献げ物とした。彼は、子孫が末長く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった」。イエス様はかつて、御自分が「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」と言われました(20:28)。罪のないイエス様が、多くの人の罪を担って、多くの人を正しい者とするために、十字架の死を死なれるのです。そのようにして、イエス様を信じる多くの人の罪が赦され、新しい契約の祝福が与えられるのです。私たちの教会では、月に一度、第一主の日に聖餐の恵みにあずかります。聖餐式において、私たちはパンを取って食べ、杯から飲むのです。それは、私たちがイエス様にあってすべての罪が赦され、新しい契約の祝福に生かされていることを味わい知るためであります。そのようにして、私たちは主イエスの死が私たちのためであったことを思い起こし、主に感謝をささげるのです。

 イエス様は、29節で、「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」と言われました。イエス様の眼差しは、十字架の死を越えて、父なる神の国における祝宴へと向けられています。なぜなら、十字架の死の後には復活があるからです。ここでイエス様は、弟子たちに別れを告げておられます。これが地上でのあなたたちとの最後の祝宴だと言われたのです。そして、同時に、天の父なる神の国において、弟子たちと共に祝宴にあずかることを約束しておられるのです。私たちが聖餐式においてあずかるのは、ひとかけらのパンと少しのぶどう酒です。しかし、そのひとかけらのパンと少しのぶどう酒は、天の御国おいてあずかる祝宴を前もって指し示すものであるのです。私たちは天の御国の祝宴の先取りとして、主の晩餐の礼典にあずかっているのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す