イエスを裏切る者 2015年11月22日(日曜 朝の礼拝)

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イエスを裏切る者

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 26章14節~25節

聖句のアイコン聖書の言葉

26:14 そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、
26:15 「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。
26:16 そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。
26:17 除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と言った。
26:18 イエスは言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています。』」
26:19 弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。
26:20 夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。
26:21 一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」
26:22 弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。
26:23 イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。
26:24 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
26:25 イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」マタイによる福音書 26章14節~25節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝は、マタイによる福音書26章14節から25節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。

 先々週、私たちは、一人の女がイエス様の頭に高価な香油を注ぎかけたお話を学びました。弟子たちは、「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」と憤慨しましたが、イエス様は、「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた」と言われたのでした。このお話の後で、「そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、『あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか』と言った」のです。おそらくユダは、イエス様の御言葉に幻滅したのではないでしょうか?女から頭に香油を注がれて、「この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた」と言われるイエス様に幻滅したのではないかと思うのです。もし、このとき、イエス様が、「この人はわたしの頭に香油を注いで、王として君臨するための準備をしてくれた」と言われたならば、ユダは裏切りを企てなかったかも知れません。しかし、頭に香油を注がれたイエス様の「これはわたしの葬りの準備だ」という言葉を聞いたとき、ユダは心底幻滅したのではないかと思うのです。「こいつはだめだ」と見切りをつけて、祭司長たちの所へ行き、イエス様を引き渡すことを持ちかけるのです。ここでユダは、「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」とイエス様を自分の持ち物であるかのように扱っています。マタイによる福音書は、マルコによる福音書を一つの資料として記されておりますが、マルコ福音書の並行箇所を見ますと、少し書き方が違っております。マルコ福音書ですと、ユダのイエス様を引き渡そうという言葉を聞いて、祭司長たちが金を与える約束をしたのですが、マタイによる福音書では、ユダの方から、「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と金の話をしているわけです。このユダの要求を受けて、祭司長たちは銀貨三十枚を支払ったわけです。ユダは銀貨三十枚のために、イエス様を祭司長たちに引き渡すのであります。銀貨三十枚は、出エジプト記21章32節によれば、男奴隷の命の賠償金と同じ金額です。祭司長たちは、イエス様の命を、男奴隷の命と等しい金額で買い取ろうとするのです。また、「銀貨三十枚」は、ゼカリヤ書11章12節によれば、イスラエルの民が主の羊飼いに賃金として与えた金額でもあります。主は「それを鋳物師に投げ与えよ。わたしが彼らによって値を付けられた見事な金額を」と言われていますが、祭司長たちはイエス様に男奴隷の命の贖い金と同額の銀貨三十枚という見事な金額をつけたのです。もちろんこれば当てこすり、皮肉であります。イエス様の命に金額などつけようもありません。しかし、祭司長たちは、銀貨三十枚という値段を付けました。そして、イスカリオテのユダは、銀貨三十枚を受け取り、そのときから、イエス様を引き渡そうと、良い機会を狙っていたのです。このようにして、イエス様は、祭司長たちの当初の計画に反して、祭りの間に、十字架につけられるために引き渡されることになるのです。

 17節に、「除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、『どこに過越の食事をなさる用意をいたしましょうか』と言った」と記されています。除酵祭とは、酵母を除いたパンを食べるお祭りで、過越祭と一体的な関係にありました。過越祭の由来については出エジプト記の12章に記されておりましたが、除酵祭の由来についても出エジプト記の12章に記されています。出エジプト記の12章15節から20節までをお読みします。旧約の112ページです。

 「七日の間、あなたたちは酵母を入れないパンを食べる。まず、祭りの最初の日に家から酵母を取り除く。この日から第七日までの間に酵母入りのパンを食べた物は、すべてイスラエルから断たれる。最初の日に聖なる集会を開き、第七日にも聖なる集会を開かねばならない。この両日にはいかなる仕事もしてはならない。ただし、それぞれの食事の用意を除く。これだけは行ってもよい。あなたたちは除酵祭を祝わねばならない。なぜなら、まさにこの日に、わたしはあなたたちの部隊をエジプトの国から導き出したからである。それゆえ、この日を代々にわたって守るべき不変の定めとして守らねばならない。正月の十四日の夕方からその月の二十一日の夕方まで、酵母を入れないパンを食べる。七日の間、家の中に酵母があってはならない。酵母の入ったものを食べる者は、寄留者であれその土地に生まれた者であれ、すべてイスラエルの共同体から断たれる。酵母の入ったものは一切食べてはならない。あなたたちの住む所ではどこでも、酵母を入れないパンを食べねばならない。」

 このように主は、正月(ニサンの月)の十四日の夕方から二十一日の夕方までの七日間、酵母を除いたパンを食べることを命じられました。それは、イスラエルの人々がエジプトから脱出したとき、酵母の入っていないパンを食べたからでありました。彼らは急いでエジプトから脱出したので、まだ酵母の入っていないパンの練り粉をこね鉢ごと外套に包み肩に担いだのです(出エジプト12:34)。このように除酵祭は、主がイスラエルの人々をエジプトの奴隷状態から解放してくださったことを祝う祭りであるのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の52ページです。

 出エジプト記12章の規定によれば、除酵祭の第一日の夕方に、過越の小羊を屠り、その夜に過越の食事を食べることになっておりました。ですから、除酵祭の第一日に、弟子たちはイエス様のところに来て、「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と言ったのです。それに対して、イエス様はこう言われました。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています』」。イエス様は、弟子たちと一緒に過越の食事をするために、ある人と段取りをつけていたようです。ここでイエス様は、「わたしの時が近づいた」と言われておりますが、これは他でもないイエス様が十字架につけられる時であります。これから行われる過越の食事は、まさしくイエス様と弟子たちとの最後の晩餐となるのです。弟子たちは、イエス様に命じられたとおりにして、過越の食事の準備をしました。そして、夕方になると、イエス様は十二人と一緒に食事の席に着かれました。「食事の席に着かれた」とありますが、元の言葉では「横になった」と記されています。当時、特別な食事は、横になって、肩肘をついて上半身を起こして食べました。イエス様と弟子たちもこのとき、そのような姿勢で食事をされたのです。その食事の最中に、イエス様はこう言われました。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」。ここで「裏切る」と訳されている言葉は、「引き渡す」とも訳すことができます。イエス様は、エルサレムに上って行く途中、十二人の弟子たちに、「今、わたしはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される」と言われました。そして、今、イエス様は、御自分を祭司長たちや律法学者たちに引き渡す者が、あなたがた十二人の中から出て来ると言われるのです。人の心をご存じであるイエス様は、だれが自分を裏切ろうとしているかをご存じでありました。私たちもすでに、14節から16節までを読んでおりますので、その一人がイスカリオテのユダであることを知っているわけですが、他の弟子たちは知らないわけです。それで、弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めたのです。それほど、イエス様の発言は弟子たちに衝撃をもたらす爆弾発言であったのです。弟子としての自意識が揺さぶられるほどの衝撃をこのとき、すべての弟子が受けたのです。彼らは、イエス様から「あなたのことではない」と言っていただき、安心したかったのだと思います。そのような弟子たちに、イエス様はこうお答えになりました。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」。ここで、イエス様は、御自分が裏切る者が誰であるかを特定しておられません。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者」とは、食事を共にしている弟子たちのことでありまして、この言葉によって、イエス様は誰が自分を裏切るのかを特定されてはおりません。むしろ、イエス様がここで強調しておられることは、食卓を共にする親しい者から御自分が裏切られるということであるのです。詩編41編10節に、「わたしの信頼していた仲間/わたしのパンを食べる者が/威張ってわたしを足げにします」とありますが、イエス様は最も信頼していた十二人の一人によって、祭司長たちや民の長老たちへと、さらには十字架の死へと引き渡されるのです。そして、このことは御自分について書かれていることが実現するためであると言われるのです。「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く」。イエス様が祭司長たちや民の長老たちの手に引き渡され、さらにはローマの総督の手に引き渡されて、十字架の死を死なれることは、聖書に書いてあるとおりのことであるのです。ここで、どのような聖書の個所が言われているのかは分かりませんが、おそらく、イザヤ書53章に記されている苦難の僕の預言などが考えられます。かつてイエス様は、「人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」と言われましたが、イザヤ書53章には、人々の罪を担って、自分の命を償いの献げ物とする主の僕の姿が描かれています。ユダの企てが成功するのは、聖書に書いてある神様の救いの御業が実現するためであるのです。そうであれば、ユダは神様の救いの御業を実現するためにイエス様を引き渡したのであって、ユダは悪くないのではないかと思われるかも知れません。しかし、そうではないのです。なぜなら、イエス様は続けてこう言われるからです。「だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」。イエス様が引き渡されること、それは聖書に書いてある、昔から預言されている神様の御計画であります。しかし、だからといって、イエス様を引き渡す者は罪に問われないかと言えば、そうではありません。なぜなら、ユダは、自分の意志で、銀貨三十枚と引き換えにイエス様を引き渡すからです。ユダは自分の意志でイエス様を引き渡すゆえに責任を問われる。罪を問われるのです。そして、それは「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」とイエス様から言われてしまうほどに、深刻な罪であるのです。皆さんにはそれぞれ愛唱している聖句があると思いますが、このイエス様の御言葉を愛唱聖句としている人はいないと思います。「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」。このイエス様の御言葉がわたしの愛唱聖句ですという人はまずいないと思います。しかし、イエス様はそのような厳しい言葉をお語りになりました。それも、御自分を裏切ろう、引き渡そうとしているユダの前で語ったのです。もっと言えば、ユダに語ったのです。なぜ、イエス様はこのような言葉をユダに語ったのでしょうか?それはユダに自分がこれからしようとしていることがどれほど大きな罪であるのかを告げるためです。そのようにして、イエス様は十二弟子の一人であるイスカリオテのユダが悔い改めることを願われたのです。しかし、そのイエス様の思いはユダには届きません。ユダはイエス様の御言葉を聞くに堪えなかったのでしょう。口をはさんでこう言いました。「先生、まさかわたしのことでは」。ここで、ユダは他の弟子たちの言葉を真似しておりますが、一個所違う点があります。それは他の弟子たちが、イエス様を「主よ」と呼んでいるのに対して、ユダは「先生」「ラビ」と呼んでいることです。ユダはイエス様を「主よ」とは呼ばずに「先生」と呼びました。イエス様に敵対していた律法学者たちやファリサイ派の人々がイエス様を「先生」と呼びかけたように、ここでユダもイエス様を「先生」と呼びかけるのです。このユダの問いに対して、イエス様は、「それはあなたの言ったことだ」と言われました。このイエス様の御言葉は、相手に問いを投げ返すか、間接的に答えることを拒否する言い方であります。他の弟子たちはいざ知らず、ユダはイエス様を引き渡す者が誰であるかを知っているわけです。すなわち、自分こそ、イエス様を引き渡す者であることを知っていたのです。「そのことをあなたは知っているはずだ」とイエス様は言われたのです。この後、イスカリオテのユダがどうしたのかは記されておりませんが、おそらく、この食卓の場から離れて行ったと思います(ヨハネ13:30参照)。そのようにして、ユダは自分の思っていることを実行するのです。次にユダがイエス様の前に現れるのは、祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆を引き連れて、イエス様を捕らえに来る場面です(26:47参照)。ユダは、イエス様の御言葉に恐れることも、悔い改めることもしませんでした。それはユダが、自分がイエス様を選んだと考えていたからです。自分の意志で、イエス様の弟子となったと考えていたからです。だから、自分の意志で捨てることもできる。売り渡すこともできると考えたのです。そこに、「生まれなかった方が、その者のためによかった」と言われてしまう不幸の源があるのです。先週、私たちは、ヨハネによる福音書の15章の御言葉を学びました。そこで、イエス様がはっきりと言われたこと、それは「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」ということでありました。イエス様から選ばれて、私たちはイエス様の弟子、イエス様の友としていただいたのです。そのことを私たちは今朝、はっきりと心に刻みたいと願います。そして、イエス様から「さいわいである」と行っていただくことのできる弟子としての歩みを、これからもご一緒に歩み続けて行きたいと願います。

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