イエスの死 2016年2月21日(日曜 朝の礼拝)

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イエスの死

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 27章45節~56節

聖句のアイコン聖書の言葉

27:45 さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
27:46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
27:47 そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。
27:48 そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。
27:49 ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。
27:50 しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。
27:51 そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、
27:52 墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。
27:53 そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。
27:54 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
27:55 またそこでは、大勢の婦人たちが遠くから見守っていた。この婦人たちは、ガリラヤからイエスに従って来て世話をしていた人々である。
27:56 その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。マタイによる福音書 27章45節~56節

原稿のアイコンメッセージ

 前々回、私たちは、イエス様が十字架から降りることができたにもかかわらず、神の御心を行うために、十字架から降りなかったことを学びました。イエス様は神の子であるゆえに、十字架から降りないことによって、神の御心を成し遂げられるのです。今朝の御言葉はその続きであります。

 45節に、「さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」と記されています。真昼にもかかわらず、全地が暗くなったこと、しかもそれが三時まで続いたことは、十字架につけられているイエス様に、終わりの日の裁き、主の日の裁きが臨んでいたことを示しています。といいますのも、旧約聖書のアモス書8章9節にこう記されているからです。「その日が来ると、主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ/白昼に大地を闇とする」。十字架につけられたイエス様のうえに、終わりの日の裁きが臨んでいた。十字架に磔にされたイエス様は、多くの人の罪を担い、その刑罰としての苦しみを三時間にわたって受けられたのです。旧約聖書のイザヤ書53章に、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った主の僕のことが記されておりますけれども、イエス様こそ、多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをした主の僕であったのです。それゆえ、三時ごろ、イエス様は大声でこう叫ばれたのです。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。これはユダヤ人の言葉であるヘブライ語でありますが、その意味するところは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味であります。イエス様は、十字架のうえで、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです。ここに、罪人が受けるべき、神の裁きがどのようなものであるかが端的に示されています。神様から見捨てられる。神様の恵みの御支配から完全に閉め出されてしまう。それが、終わりの日に、罪人が主から受けなくてはならない裁き、刑罰であります。イエス様は、その裁き、刑罰を私たちに代わって受けてくださり、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです。ここでイエス様は、神様に「わが神」呼びかけておられますが、イエス様が、このように祈られたのはここだけであります。イエス様は、いつも親しく、「わたしの父よ」と祈られました(26:39参照)。しかし、ここでは、「わが神」と祈られたのです。それは、この祈りがイエス様個人の祈りではなく、イエス様がその命をもって贖ってくださる多くの人の祈りであることを教えています。イエス様は、私たちに代わって、十字架のうえで、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです。それは、御自分を信じる者たちが、もはや神様から見捨てられるという呪いの死を死ななくてすむようにするためであります。私たちが、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばなくていいように、イエス様は、私たちに代わって、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んでくださったのです。

 そこに居合わせた人々のうちには、イエス様の叫びを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者がおりました。この人は、イエス様の「エリ、エリ」という叫びを聞いて、エリヤを呼んでいると勘違いしたようです。エリヤは紀元前9世紀に活躍した預言者で、生きながら天にあげられた預言者であります(列王下2章参照)。イエス様の時代の民衆の中に、正しい人を守るためにエリヤが天から降って来るという期待がありました。それで、イエス様の「エリ、エリ」という叫びを聞いて、イエス様がエリヤを呼んでいると勘違いした者がいたのです。そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエス様に飲ませようとしました。正しい人の苦しみを歌う詩編69編に、「渇くわたしに酢を飲ませようとします」とありますけれども、まさにこの人は、イエス様に酢を飲ませようとしたのです。この「酸いぶどう酒」は、ローマ兵が元気づけとして飲んでいたものであります。ですから、この人も、イエス様を元気づけるために、酸いぶどう酒を飲ませようとしたようです。しかし、ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言いました。「酸いぶどう酒を飲ませて元気づけると、エリヤが来ないかもしれない。だから、酸いぶどう酒を飲ませないで、何の助けも与えないで、エリヤがイエス様を救いに来るかどうか、見ていよう」と言ったのです。彼らは、イエス様が正しい人であるならば、エリヤが救いに来るのではないかと期待していたわけです。しかし、イエス様は再び大声で叫び、息を引き取られました。十字架に磔にされた者は、朦朧とした意識の中で死んでいくと言われていますが、イエス様は再び大声で叫ばれ、霊を去らせたのです。このことは、イエス様が主体的に死なれたことを教えております(ルカ23:46参照)。イエス様は十字架に磔にされるという呪いの死を主体的に死んでくださったのです(ヨハネ10:18参照)。

 イエス様が再び大声で叫び、息を引き取られたそのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました。この神殿の垂れ幕は、聖所と至聖所を隔てていた垂れ幕であると考えられています。至聖所は神様が臨在される所であり、年に一度だけ大祭司が贖いの血をもって入ることができました。その至聖所を隔てていた垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたということは何を意味するのでしょうか?それは、イエス様の贖いの死によって、イエス様を信じる者に神様との交わりの道が開かれたということであります。聖所と至聖所を隔てる垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたことは、イエス様の死によって、神殿祭儀が廃止されたことを示しているのです。このことは、メシア、油を注がれた者であるイエス様が王であるばかりでなく、大祭司でもあることを私たちに教えております。イスラエルにおいて、預言者、祭司、王は、油を注がれることによってその務めに就きましたけれども、メシア、油を注がれた方であるイエス様は、預言者であり、王であり、大祭司であられるのです(21:11、27:37参照)。イエス様の十字架の死は、多くの人の罪を償ういけにえとしての死でもありました。イエス・キリストは大祭司として、御自分の血によって永遠の贖いを成し遂げてくださったのです(ヘブライ9:12参照)。そのことを、神様は、神殿の垂れ幕を上から下まで真っ二つに引き裂くことによって示されたのです(上から下に裂けたことは、神様が裂かれたことを示している)。

 また、イエス様が死なれたとき、「地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた」と記されています。地震は主の御臨在を表すしるしであり、主の日の到来のしるしともされておりました(出エジプト19:18、ヨエル4:16参照)地震によって岩が裂け、墓が開いてしまうということは起こりうることであります。しかし、「眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」ことと、「イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた」ことは、実際に起こったことというよりも、イエス様の死が世の終わりの出来事であることを教えるための記述であるのです。「眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返る」。このことは、世の終わりに実現すると信じられていたことでありました。旧約聖書のエゼキエル書37章に、枯れた骨が復活する幻が記されています。その11節から13節にこう記されています。旧約の1357ページです。

 主はわたしに言われた。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる」。

 主はエゼキエルに、御自分が墓を開き、御自分の民を墓から引き上げると仰せになりました。その幻を、福音書記者マタイは記すことによって、イエス様の十字架の死が終末の裁きの先取りであり、神の民に救いをもたらす死であることを表したのです。では、今朝の御言葉に戻ります。新約の58ページです。

 53節に、「そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人に現れた」とありますが、このことはイエス様こそ、死者の中から最初に復活された方、初穂として復活された方であることを教えています(一コリント15:20参照)。聖なる者たちの復活の希望は、イエス様にかかっているということであります。そのことを福音書記者マタイは私たちに教えているのです。

百人隊長や一緒にイエス様の見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言いました。百人隊長も、見張りをしていた人たちも、ユダヤ人ではない異邦人であります(27:35,36参照)。その異邦人である人たちが、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神のだった」と言ったのです。彼らが見た「いろいろの出来事」の中には、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたことや聖なる者たちが生き返って現れたことは含まれてはいなかったと思います。しかし、彼らは、全地が暗くなったこと、十字架に磔にされたイエス様が大声で叫ばれ息を引き取られたこと、さらには地震が起こったことなどを見て、非常に恐れて、「本当に、この人は神の子だった」と言い表したのです。ユダヤの最高法院の議員たちは、イエス様が「わたしは神の子だ」と言って神を冒瀆したと死刑を言い渡しましたけれども、百人隊長と見張りをしていた者たちは、イエス様に対して、「本当に、この人は神の子だった」と言ったのです。そのように言わざるを得ない出来事がこの時起こったのであります。イエス・キリストの十字架の出来事は、自分の力だけを頼りとする百人隊長と見張りをしていた人たちに、「本当に、この人は神の子だった」と言わせるほどの出来事であったのです。そして、ここにイエス様がどのようなお方であるかがはっきりと言い表されているのです。十字架に磔にされ、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたイエス様こそ、神の御心を完全に成し遂げられた神の子であるのです。百人隊長と見張りをしていた人たちが、どのような思いから、「本当に、この人は神の子だった」と言ったのかは分かりません。しかし、イエス様の十字架の死が、自分の罪のためであったと知っている私たちは、感謝と喜びをもって、「本当に、この人は神の子だった」と告白することができるのです。

 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。このイエス様の御言葉は絶望の言葉でありますが、それ以上に、神様を信頼する言葉でもあります(詩編22編参照)。イエス様は、神様を信頼するゆえに、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てなったのですか」と叫ばれたのです。そして、イエス様の信頼は、神様が御自分を復活させてくださるという信頼でもありました。イエス様は復活という希望をもって十字架の死を死なれたのです(20:19参照)。前々回の説教で、十字架からおりないイエス様のお姿に、父なる神の御心に従われる信仰と、父なる神と私たちへの愛がよく示されていると申しました。そして、今朝、私たちは、イエス様が信仰と愛だけではなく、復活の希望をもって十字架の死を死なれたことを心に留めたいと思います。使徒パウロは、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る」と記しました(一コリント13:13)。信仰と希望と愛、この三つをもって、イエス様は十字架の死を、私たちを罪から救う贖いの死を死んでくださったのです。私たちは十字架で死なれたイエス・キリストに、完全な信仰と完全な希望と完全な愛を見いだすことができるのです。それゆえ、私たちは、「本当に、この人の神の子だった」と告白することができるのです。

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