十字架の王イエス 2016年2月07日(日曜 朝の礼拝)

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十字架の王イエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 27章27節~44節

聖句のアイコン聖書の言葉

27:27 それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。
27:28 そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、
27:29 茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。
27:30 また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。
27:31 このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。
27:32 兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。
27:33 そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、
27:34 苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。
27:35 彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、
27:36 そこに座って見張りをしていた。
27:37 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。
27:38 折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。
27:39 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、
27:40 言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」
27:41 同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。
27:42 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。
27:43 神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」
27:44 一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。マタイによる福音書 27章27節~44節

原稿のアイコンメッセージ

 前回私たちは、祭司長たちと長老たちに説得された民衆がイエス様ではなくて、バラバを選んだお話を学びました。26節に、「そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した」と記されております。この鞭打ちは十字架につけられる者の死を早めるための鞭打ちであります。この鞭には金属片が付けられており、皮や肉を裂いたと言われています。中には、この鞭打ちで死んでしまう者もいました。そのような鞭打ちを受けてから、イエス様は、十字架につけられるために引き渡されたのです(20:19参照)。

 それから、総督の兵士たちは、イエス様を総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエス様の周りに集めました。このとき、総督官邸は、神殿の北に位置するアントニア要塞にあったと考えられています。その総督官邸には、エルサレムの秩序を守るために600人ほどからなる歩兵部隊がいました。その部隊の全員をイエス様の周りに集めたのは、これから「ユダヤ人の王」として処刑されるイエス様を嘲り、なぶりものにするためであります。総督の兵士たちは、王様を部隊全員が出迎えるように、部隊全員をイエス様の周りに集めたのです。そして、イエス様の着ている物をはぎ取り、自分たちの着ている赤い外套(マント)を着せ、茨で冠を編んで頭に乗せ、また右手に王の権威を表す杖として葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って侮り、辱めたのです。また、イエス様の顔に唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げてイエス様の頭をたたき続けました。このようにイエス様を侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行ったのです。イエス様は、最高法院の議員たちから侮辱されただけではなく、ローマ総督の兵士たちからも侮辱されたのであります(26:67、68参照)。そして、私たちはここに、主の僕としてのイエス様の忍耐を見ることができるのです。イザヤ書50章6節、7節にこう記されておりました。「打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。主なる神が助けてくださるから/わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている/わたしが辱められることはない、と」。イエス様は御自分の正しさを認めてくださる父なる神に信頼しつつ、兵士たちからの侮辱を主体的に受けられたのです。

 兵士たちが出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエス様の十字架を無理に担がせました。キレネとは北アフリカの地中海沿岸にある町ですが、キレネには多くのユダヤ人が移り住んでおりました。ですから、シモンもキレネに生まれ育ったユダヤ人で、過越の祭りをエルサレムで祝うために来ていたのだと思います。そのシモンに、ローマの兵士たちは、イエス様の十字架を無理に担がせたのです。十字架刑に処せられた者は、十字架の横木を自分で背負って、処刑される場所まで行かなければなりませんでした。しかし、このとき、イエス様はもはや自分で十字架の横木を背負うことはできないほど衰弱しておられたようです。イエス様は、昨夜の過越の食事から何も食べておられませんでした。また、昨夜から一睡もしておりませんでした。そのような状態で、皮と肉を裂く鞭を打たれ、兵士たちに嘲られ、なぶりものにされたのです。それゆえ、イエス様は十字架の横木を担うことができないほど衰弱しておられたのです。それで兵士たちは、シモンという名前のキレネ人に、イエス様の十字架を無理に担がせたのでありました。そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしましたが、イエス様は飲もうとされませんでした。ゴルゴタには、十字架の縦の木がすでに立っていたと思われます。この場所がゴルゴタ、すなわち「されこうべの場所」と呼ばれるのは、おそらく、この丘が頭蓋骨のように見えたからであると考えられています。そこで、兵士たちは「苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした」のですが、これは麻酔薬の代わりになるものであります(詩編69:22参照)。十字架刑は、木に手と足を釘付けにされる磔の刑でありますから、その痛みを少しでも和らげるために、兵士たちは苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたわけです。しかし、イエス様はなめただけで、飲もうとはされませんでした。イエス様は、朦朧とした意識ではなく、はっきりとした意識で、苦難の死を死なれることを望まれたのです。イエス様は主体的に十字架の死を死のうとしておられるのです。兵士たちがイエス様を十字架につけると、くじを引いてその服を分け合いました(詩編22:19参照)。これは彼らの役得であります。処刑を執行する者は処刑される人の持ち物を自分のものとすることができたのです。それで、彼らはくじを引いてイエス様の服を分け合い、そこに座って見張りをしていたのです。また、彼らはイエス様の頭の上に、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げました。イエス様は、ユダヤ人の王として十字架につけられたのです。このようにして、イエス様がユダヤ人の王であることが公に示されることになるのです(2:2参照)。38節に、「折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人には左に、十字架につけられていた」とありますが、ゴルゴタの丘には、三本の十字架が立っておりました。イエス様を真ん中にして、右と左に強盗が十字架につけられていたのです。このようにして、イザヤ書53章12節の御言葉、「罪人のひとりに数えられた」という御言葉がイエス様のうえに実現することになるのです。イエス様は不法を働かず、その口に偽りもなかったにも関わらず、強盗と一緒に十字架につけられ、罪人の一人に数えられたのです。

 十字架刑は見せしめの刑でありまして、人々からよく見えるように、高い所に磔にされました。十字架の親柱は地上から三メートルほどあったと言われています。そこを通りかかった人々は、頭をふりながらののしって、こう言いました。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」。「頭をふる」とは、人を嘲り、馬鹿にするときの仕草、ジェスチャーであります。ここで人々は、イエス様を「神殿を打ち倒し、三日で建てる者」とののしっています。これは最高法院で、二人の人が証言したことです(26:61参照)。旧約聖書のゼカリヤ書6章12節に、「見よ、これが『若枝』という名の人である。その足もとから若枝が萌えいでる。彼は主の神殿を建て直す」と記されています。この御言葉から来たるべきメシアは、神殿を建て直して、エゼキエル書40章以下に記されている新しい神殿を完成すると信じられておりました。ですから、「神殿を打ち倒し、三日で建てる者」とは、「来たるべきメシア」を意味する言葉であるのです。通りがかった人々が、このような言葉を口にしたことは、最高法院での証言が人々にも伝えられていたということであります。祭司長たちや長老たちは、イエス様を死刑に処してもらうように群衆を説得した際に、このような証言を伝えたのだと思います。前にも申しましたように、神殿に敵対する言葉は、民族感情をひどく傷つけ、人々からの反感を招く言葉であったのです(エレミヤ26:8,9参照)。また、イエス様が自分を神と等しい者、神の子と自称したことも伝えられていたようです。それで、人々は、「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」とののしったのです。この人々の言葉は、4章に記されていた「荒れ野の誘惑」を思い起こさせる言葉であります。荒れ野において四十日間断食し空腹を覚えられたイエス様に、悪魔はこう言いました。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」。この悪魔の誘惑は、イエス様が石をパンにすることができることを前提としております。神の子であるイエス様は、石をパンにすることがおできになる。それゆえ、この悪魔の言葉はイエス様にとって誘惑であったのです。しかし、イエス様は、こうお答えになりました。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」(申命8:3)。このようにイエス様は、聖書の御言葉をもって、悪魔の誘惑を退けられたのです。イエス様は、神の言葉に従うということによって、御自分が神の子であることを示されたのです。このイエス様の姿勢は、今朝の御言葉においても同じであります。人々の背後にいる悪魔は、「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」と誘惑するのでありますが、イエス様は神の子であるゆえに、自分を救わず、十字架から降りないのです。なぜなら、それこそが父なる神の御心であることをイエス様は知っているからです。イザヤ書53章に預言されている主の僕として、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負うことが、父なる神の御心であることを知っているがゆえに、イエス様は自分を救わない、十字架から降りようとはしないのです(26:42参照)。

 同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に侮辱してこう言いました。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」(詩編22:8,9参照)。ここには、「祭司長たち」、「律法学者たち」、「長老たち」と最高法院の構成メンバーが勢揃いしています。イエス様をローマの総督ピラトに引き渡し、死刑に処するようにと群衆を説得した最高法院の議員たちが、イエス様が殺されるところを見届けようと来ていたのです。彼らは、「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ」と言っておりますが、この言葉は、イエス様が多くの人々の病や患いを癒されたことを思い起こさせます。最高法院の議員たちも、イエス様が他人を救ったことは認めています。しかし、彼らにとって滑稽であるのは、イエス様が「自分は救えない」ということであるのです。自分を救えない者、ローマの兵士たちによって十字架につけられて死のうとしている者がイスラエルの王であるはずがないと彼らは考えたのです。十字架につけられているイエス様のお姿そのものが、この男がイスラエルの王ではないことの証拠であると彼らは考えたのです。ですから、続けてこう言うのです。「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう」。ここにも私たちは、悪魔の誘惑を聞き取ることができます。今すぐ十字架から降りるならば、最高法院の議員たちがイエス様をイスラエルの王として信じるというのであります。もちろん、これは嘲りの言葉でありまして、最高法院の議員たちは、イエス様が十字架から降りることができるとは考えておりません。しかし、十字架から降りることのできるイエス様にとって、これは大きな誘惑でありました。さらに、最高法院の議員たちはこう言いました。「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」。神の子が、十字架の死を、神に呪われた者の死を死のうとしている。それはおかしなことではないか。神のお気に入りであるならば、今すぐ救ってもらえるはずではないか。こう悪魔は最高法院の議員たちを通してイエス様を誘惑したのです。しかし、イエス様は、十字架につけられて死ぬことが神の御心であることを知っているゆえに、また、その神の御心に完全に従う神の子であるゆえに、自分を救わない、十字架から降りようとはしないのであります(フィリピ2:8参照)。そして、ここに、私たちはイエス様の父なる神への完全な愛と、御自分の民である私たちへの完全な愛を見ることができるのです。かつてイエス様は、ある律法の専門家から「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と問われたとき、こうお答えになりました。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(22:37~40)。この二つの掟を、イエス様は、十字架において、十字架から降りないということによって完全に満たしてくださったのです。十字架から降りることのできるイエス様が十字架から降りようとしないのはなぜか?それは、イエス様が神様と人とを完全な愛を持って愛されるお方であるからです。全身全霊で神を愛し、自分を愛するように隣人を愛するという最も重要な二つの掟を、イエス様は十字架からおりないことによって、完全に満たしてくださったのです。

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