最も重要な掟 2015年8月16日(日曜 朝の礼拝)

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最も重要な掟

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 22章34節~40節 

聖句のアイコン聖書の言葉

22:34 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。
22:35 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
22:36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
22:38 これが最も重要な第一の掟である。
22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」マタイによる福音書 22章34節~40節 

原稿のアイコンメッセージ

 前々回、私たちは、「復活についての問答」を学びました。復活はないと言っているサドカイ派の人々に、イエス様は、「あなたたちは聖書も神の力も知らないから思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言われまして、彼らが神の言葉と認めるモーセ五書から、復活について論証されたのでありました。このイエス様の教えを聞いて、群衆は驚きましたが、サドカイ派の人々は黙ってしまったようです。返す言葉がなかったのです。今朝の御言葉は、その続きであります。

 34節をお読みします。

 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。

 「ファリサイ派」とは、律法を熱心に守っていた真面目なグループであります。ユダヤの最高法院は、サドカイ派とファリサイ派の二つのグループから成っていたわけですが、イエス様がサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、ファリサイ派の人々は一緒に集まったのです。15節に、「それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した」と記されておりましたが、ここでもファリサイ派の人々が一緒に集まったのは、イエス様の言葉じりをとらえて、罠にかけようと相談するためであったと思います。ここで、「一緒に集まった」と訳されている言葉は、詩編2編2節を背景にしていると考えられています。詩編2編2節にはこう記されています。「なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して/主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか」。この御言葉を実現する者として、ファリサイ派の人々は結束して、主の油注がれた方であるイエス様に逆らうのです。

 ファリサイ派の人々は、どのようにしてイエス様の言葉じりをとらえ、罠にかけようとしたのでしょうか?それは律法の中でどの掟が最も重要であるかを尋ねることによってでありました。

 35節、36節をお読みします。

 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」

 当時の律法学者たちは、613の掟があると言っておりました。そして、その掟の中で、どれが重要な掟であるかという議論をよくしていたそうです。しかし、また同時に、すべての掟が等しく重要であると考える律法学者もいました。ですから、この質問は、イエス様の答えによっては、律法を無効にする者として訴えることができたわけです。イエス様は、5章17節で、「わたしが来たのは律法や預言者を廃しするためだ、と思ってはならない」と言われておりましたが、律法の専門家は、イエス様を律法を廃しする者として訴えようと、「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と尋ねたのです。

 37節から40節までをお読みします。

 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これを同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。これは申命記6章5節からの引用であります。旧約の291ページです。申命記の6章4節、5節をお読みします。

 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

 この掟は、「聞け」のヘブライ語である「シェマー」と呼ばれ、ユダヤ人は一日に二度唱えていたと言われます。申命記では「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」と記されていますが、マタイ福音書でイエス様は、「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして」と言われていました。いずれにしてもこれは、「あなたのすべてをもって」「全身全霊で」ということであります。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい」。これが最も重要な第一の掟であるとイエス様は言われたのです。そして、イエス様は同じように重要な第二の掟として、レビ記19章18節をあげられます。旧約の192ページです。レビ記19章18節をお読みします。

 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。

 「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」。この掟は、人が自分自身を愛していることを前提にしています。自分自身を愛しているように、隣人を愛することが命じられているのです。第一の掟である主なる神を愛するのは、自分のすべてをささげて愛することが命じられておりましたが、第二の掟である隣人を愛するのは、自分自身を愛するように愛することが命じられているのです。愛する度合いが違うわけですね。神様を愛するのは、自分のすべてをささげて愛する。隣人を愛するのは、自分自身のように愛する。求められている度合いが違うわけです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の44ページです。

 イエス様が律法の中で最も重要な掟として教えられたこと、それは自分のすべてをささげて神様を愛することと、自分自身のように隣人を愛することでありました。しかし、この「愛する」という言葉の意味がよく分からないのではないかと思います。ここで「愛しなさい」と訳されている言葉は、アガペーの動詞形であるアガパオーでありますが、むしろ、「重んじる」「大事にする」「大切にする」と訳した方がよく意味が分かると思います。だいぶ前の話になりますが、山浦玄嗣(やまうらはるつぐ)さんが福音書を岩手県の気仙地方の言葉であるケセン語訳に翻訳したことが話題になりました。山浦さんは、ケセン語訳で「愛する」という言葉を用いませんでした。「愛する」という言葉ではなくて、「大事にする」という言葉を用いたのです。その方が、日本人にはよく分かると言うのですね。私もテレビでその話を聞いて、「なるほど」と思いました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を重んじなさい」「隣人を自分のように大切にしなさい」と言われた方が、よく分かるはないかと思います。これは語感の問題ですから、人によって異なるかも知れませんが、「愛する」とは「重んじる」「大事にする」「大切にする」ことであるのです。

 ここでイエス様は、第一、第二と順番を付けていますが、これは重要さの順番ではありません。重要さにおいては、第二も第一と同じように重要であるのです。では、第一、第二とは何の順番かと言えば、これは秩序の順番ですね。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という掟が第一にあって、第二に、「隣人を自分のように愛しなさい」という掟があるわけです。イエス様は、「律法と預言者は、この二つの掟に基づいている」と言われました。新共同訳聖書は、「基づいている」と訳していますが、口語訳聖書、新改訳聖書は「かかっている」と訳しています。ある研究者は、この「かかる」という言葉は、「他の律法から派生する律法を指す専門用語である」と指摘しています。つまり、多くの律法があっても、それらはすべて、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主である神を愛しなさい」という掟と、「自分自身のように隣人を愛しなさい」という掟から派生したものであるということです。律法の専門家は、律法を個々の掟の積み重ねのように考えていましたが、イエス様は、律法を神の御心の現れとして有機的な総体として捉えられるのです。律法の中心にあるもの、その根本にあるものは、神への愛と隣人への愛の掟であるとイエス様は言われたのです。これがイエス様の律法理解であり、また、イエス・キリストの使徒パウロの律法理解でもあります。パウロは、ローマ書の13章8節から10節でこう記しています。新約の293ページです。

 互いに愛し合うことのほかに、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。

 神様の掟は、神様の御心の現れですから、その神様の御心の中心は、私たちが心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主である御自分を愛すること、そして、私たちが自分自身を愛するように隣人を愛することであるのです。この神様の愛の御心から、「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という戒めが与えられているわけであります。「愛する」とは「大切にする」ことですから、隣人を大切にするなら、隣人を傷つけないはずですよね。ですから愛は律法を全うするわけです。そして、ファリサイ派の人々が見失っていたのがこの点なのですね。彼らは律法が神への愛と隣人への愛に基づいている、そこから派生していることを見落として、熱心に掟を守っていたわけです。ですから、イエス様は彼らに対して、たびたび、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」という言葉の意味を学ぶようにと言われたのです(マタイ9:13、12:7参照)。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の44ページです。

 私たちは、今朝、律法と預言者が、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という掟と「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という二つの掟に基づいていることを学んだのであります。神様の掟、律法は、神への愛と隣人への愛から理解しなくてはならないということを学んだのです。しかし、それが実行できるかどうかはまた別の問題であります。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」。このイエス様の御言葉は私たちが暗記すべき御言葉でありますが、暗記はできても、そのとおりにできるかどうかは別なのであります。むしろ、私たちが主の日の礼拝ごとに告白していることは、この掟を守ることができないということであります。お気づきかと思いますが、このイエス様の御言葉は、「罪の告白の勧告」の言葉として司式者が読む御言葉であります。私たちは十戒の要約として、この主イエスの御言葉を聞き、その掟の前に立って、自分が罪人であることを言い表すわけです。一週間の歩みをそれぞれに振り返って、自分は心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主である神様を重んじることができなかった。また、自分は自分自身を大切にするように隣人を大切にすることができなかったことを告白するのです。それでは、この掟は、私たちを罪に定めるだけなのかと言えば、もちろんそうではありません。なぜなら、イエス様は、この掟を私たちに代わって完全に守ってくださったからです。イエス様は神様の御心に従い、私たちを救うために十字架で死なれることによって、この二つの掟を完全に満たしてくださったのです。イエス様は、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なる神を愛し、神の御心に従って十字架の死を死んでくださいました。また、イエス様は、自分を愛するように私たちを愛して、十字架の死を死んでくださったのです。そのようにして、イエス様は十字架の上で、神への愛と隣人への愛の二つの掟を完全に満たしてくださったのです。その証拠に、神様はイエス様を三日目に復活させられ、天の御自分の右の座へとあげられたわけです。そして、天にあげられたイエス様は、御自分の霊である聖霊を私たちに注いでくださったのです。そのようにして、私たちが神を愛し、隣人を愛して生きることができるようにしてくださったのです。私たちは完全に、神を愛し、隣人を愛するという掟を守ることはできません。けれども、イエス様を信じる信仰によって、また、イエス様から与えられている聖霊によって、神を愛し、隣人を愛する者たちとされているのです。ですから、私たちは今朝の御言葉を、神を愛し、私たちを愛された主イエス・キリストの掟として聞かなくてはならないのです。神への愛と隣人への愛を十字架において満たされ、復活されたお方の言葉として聞かなくてはならないのです。そのとき、私たちは、この掟が救われた私たちがどのように生きるべきかを指し示す掟であることが分かってきます。救われた者の感謝の生活の指針であることが分かるのです。私たちを神を愛し、隣人を愛する者へと造りかえる、私たちの内に生きて働く神の言葉であることが分かるのであります。

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