悪霊を追い出すイエス 2014年1月12日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

悪霊を追い出すイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 8章28節~34節

聖句のアイコン聖書の言葉

8:28 イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。
8:29 突然、彼らは叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」
8:30 はるかかなたで多くの豚の群れがえさをあさっていた。
8:31 そこで、悪霊どもはイエスに、「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願った。
8:32 イエスが、「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。
8:33 豚飼いたちは逃げ出し、町に行って、悪霊に取りつかれた者のことなど一切を知らせた。
8:34 すると、町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。そして、イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った。
マタイによる福音書 8章28節~34節

原稿のアイコンメッセージ

序.

 今朝はマタイによる福音書8章28節から34節より御言葉の恵みにあずかりたいと願います。

1.二人の悪霊に取りつかれた者

 28節をお読みします。

 イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。

 イエスさまは弟子たちと共に、舟でガリラヤ湖の向こう岸のガダラ人の地方に到着されました。ガダラ人の地方とありますように、この地方はいわゆる異邦人の住む地方であります。なぜ、イエスさまは、弟子たちを従えて舟でガリラヤ湖を渡り、ガダラ人の地方に来られたのでしょうか?それは群衆から逃れ、ひと休みするためであったと思います。しかし、それはかないませんでした。といいますのも、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスさまのところにやって来たからです。「悪霊」とは、神さまの敵である悪魔に従う悪しき霊のことであります。神さまの敵である悪魔の手下が悪霊であるのです。なぜ、神さまが造られた世界に悪魔がいるのだろうか?と不思議に思うわけですが、聖書は、悪魔は堕落した天使であると教えています。ですから、悪魔は神さまと同等の存在ではありません。悪魔は堕落した天使ですから、いち被造物に過ぎないのです。その悪魔の手下である悪霊が、二人の人間に取りついていたのです。この二人の人は、自分を見失ってしまうほどに、悪霊の支配下に置かれていたのです。聖書は、神さまが人間を御自分のかたちに似せて、御自分との交わりに生きる者として造られたと教えております。しかし、その人間が悪霊に支配されてしまっているのです。なぜこのようなことになってしまったのでしょうか?その原因は、はじめの人アダムが神さまの言葉ではなく、蛇の言葉、悪魔の言葉に従ったことにあります。エデンの園に置かれたアダムは、神さまから「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」という掟を与えられておりました。しかし、悪魔は蛇を用いて、アダムの助け手であるエバを誘惑したのです。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神は御存じなのだ」とエバを、またエバをとおしてアダムを誘惑したのです。そして、エバは、またアダムは、この悪魔の言葉に従って、禁じられていた木の実を食べてしまったのです。はじめの人アダムは、禁じられた木の実を食べることにより、自分から悪魔の支配下に入ってしまったのです。はじめの人アダムが悪魔の支配下に入ってしまったことにより、この世全体が悪魔の支配下に置かれてしまったのです。

 悪霊は神の敵である悪魔の手下ですから、その悪霊に取りつかれた者たちは、イエスさまが来られたことに敏感に反応しました。28節の後半に、「悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た」とありますが、この「やって来た」という言葉は、「出迎えた」とも訳すことができます。悪霊に取りつかれた者たちは、イエスさまを出迎えるために、住まいである墓場から出てきたのです。もちろん、イエスさまを歓迎するためではありません。敵であるイエスさまを迎え撃つためであります。イエスさまは、ひと休みするためにゲラサ人の地方に来たのですが、そのイエスさまを出迎えたのは、非常に狂暴な悪霊に取りつかれた者たちであったのです。

2.悪霊どもの悪あがき

 29節から32節までをお読みします。

 突然、彼らは叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」はるかかなたで多くの豚の群れがえさをあさっていた。そこで、悪霊どもはイエスに、「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願った。イエスが「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。

 イエスさまを出迎えた悪霊に取りつかれた者たちは、突然、こう叫びました。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか」。ここで、悪霊に取りつかれた者たちは、イエスさまを「神の子」と呼んでいます。弟子たちが、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と思案していたのに対して、悪霊に取りつかれた者たちは、イエスさまを「神の子」と呼んだのです。もちろん、これは信仰の告白ではありません。悪霊に取りつかれた者たちは、自分たちを苦しめる敵として、イエスさまを「神の子」と呼んだのです。彼らはイエスさまより優位に立とうとして、イエスさまの正体を言い当てたのです。悪霊に取りつかれた者たちにとって、正確に言えば、二人の人に取りついている悪霊たちにとって、神の子であるイエスさまが、自分たちのところに来たことは、恐るべき非常事態でありました。ですから、彼らは「かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか」と言うのです。「その時」とは、神さまがイエス・キリストによって世界と歴史を裁かれる最後の審判の時であります。悪霊どもは、自分たちが最後の審判の時に滅ぼされることを知っていたようであります。しかし、イエスさまが、その時よりも前に、自分たちのところに来てしまった。悪霊たちは、まだ早いではないか、と文句を言って、なんとか抵抗しようとするのです。しかし、神の子と悪魔の手下である悪霊ですから、勝負は初めから着いています。それで、悪霊どもは、イエスさまに、「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願うのです。豚は、ユダヤ人にとって、食べることを禁じられていた汚れた動物でありました。その汚れた動物である豚の中にやってくれと、悪霊どもは願うのです。悪霊どもは多くの豚の群れの中に、休む場所を求めたのでしょうか?イエスさまが、「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入りました。しかし、奇妙なことに、悪霊どもが豚の中に入ると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んでしまったのです。結局、悪霊どもは滅んでしまったわけです。悪霊どもは豚の中に入ることによって、その時まで生きながらえたというのではなくて、豚と共に水の中で滅んでしまったのです。何とも不思議な出来事でありますが、私は、この不思議な出来事を解き明かす手がかりが、今朝の御言葉の並行箇所にあるのではないかと思います。今朝の「悪霊に取りつかれたガダラの人をいやす」というお話は、マルコによる福音書の5章とルカによる福音書の8章にも記されておりますが、マルコによる福音書の5章8節にこう記されています。「イエスが、『汚れた霊、この人から出て行け』と言われたからである」。また、ルカによる福音書の8章31節にはこう記されています。「そして、悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った」。この二つの箇所を手掛かりとして考えるときに、おそらくイエスさまは、悪霊どもに、二つのことをお命じになったのではないかと思います。一つは、悪霊どもが二人の人から出て行くこと、そしてもう一つは、底なしの淵へ行くことであります。すなわち、豚の群れが崖を下って湖になだれ込んだことは、悪霊にとって予期せぬ出来事ではなくて、むしろ、悪霊どもがしたことであったのです。悪霊どもは、豚の群れを道ずれにして、海の中へ、底なしの淵へ行ったのです。そのようにして、悪霊どもは、自分たちの激しい憤りを表したのです。

3.イエスを追放する人々

 33節、34節をお読みします。

 豚飼いたちは逃げ出し、町に行って、悪霊に取りつかれた者のことなど一切を知らせた。すると、町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。そして、イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った。

 豚飼いたちは、自分たちの飼っていた豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んでしまったこと、さらには悪霊に取りつかれた二人の人が、正気になったことなどをガダラ人の地方の町の人々に知らせました。それを聞いて町中の者たちがイエスさまに会いにやって来たのです。ここで「会いにやって来た」と訳されている言葉は、悪霊に取りつかれた者たちが「やって来た」とほぼ同じ言葉です。悪霊に取りつかれた者たちがイエスさまを出迎えたように、今度は町中の者たちがイエスさまを出迎えたのであります。しかし、この人々は、イエスさまに感謝を述べたのはありませんでした。「あの二人から悪霊どもを追い出してくださってありがとうございました。これからは、不自由なく、この辺りの道を通ることができます」と感謝したのではないのです。そうではなくて、人々は、イエスさまを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言ったのです。ここで「言った」と訳されている言葉は、「願った」とも訳すことができます。悪霊どもがイエスさまに、「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願ったように、町中の者たちは、「この地方から出て行ってもらいたい」とイエスさまに願ったのです。そのようにして、彼らはイエスさまを追い出してしまうのです。イエスさまが悪霊を追い出すという今朝のお話は、実は、町中の人たちがイエスさまを追い出してしまうというお話でもあるのです。

結.悪霊を従わせ、滅ぼす権能を持つイエス

どうして、町中の人たちは、イエスさまに、この地方から出て行ってもらいたいと願ったのでしょうか?それは、二人の人ほどではないにせよ、町中の人たちが悪霊の支配下に置かれていたからです。そのことを福音書記者マタイは、同じ言葉を使うことによって、私たちに教えているのです。そして、このことはイエス・キリストを受け入れず、追い出してしまうすべての人に言えることなのです。私たちもかつては悪霊の支配下にあったのです。しかし、イエス・キリストは、私たちを悪霊の支配から解放してくださり、聖霊を与えて、神の支配に生きる者としてくださいました。それゆえ、私たちも、使徒ヨハネと共に、「わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです」と言うことができるのです。イエス・キリストを信じて、聖霊をいただき、神に属する者とされて初めて、人はこの世全体が悪い者の支配下にあることを知ることができるのです。「悪霊」と聞きますと、古代社会の迷信のように思う方もいらっしゃるかも知れません。しかし、聖書は悪霊の存在を確かに教えております。私たち人間は、悪霊に取りつかれて、悪魔のようになる恐れがあるのです。そのようにならない唯一の方法は、悪魔を滅ぼす権能を持っておられるイエス・キリストを信じ、御言葉と聖霊の御支配に従って生きていくことであるのです。

関連する説教を探す関連する説教を探す