枕する所もないイエス 2013年12月08日(日曜 朝の礼拝)

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枕する所もないイエス

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 8章18節~22節

聖句のアイコン聖書の言葉

8:18 イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。
8:19 そのとき、ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。
8:20 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」
8:21 ほかに、弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。
8:22 イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」マタイによる福音書 8章18節~22節

原稿のアイコンメッセージ

 今朝はマタイによる福音書8章18節から22節までをご一緒に学びたいと願います。

 18節をお読みします。

 イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。

 前回私たちは、イエスさまが大勢の悪霊に取りつかれている人や病に苦しむ人を癒されたことを学びました。イエスさまは、イザヤ書53章に記されている主の僕として、すべての病人を癒されたのです。そのようなイエスさまの周りにはそれこそたくさんの人々がいたと思います。イエスさまは、その群衆を見て、弟子たちにガリラヤ湖の向こう岸に行くように命じられたのです。そのようにして、イエスさまは群衆と弟子たちを分離されるのです。また、そのようにして、御自分も群衆から逃れようとされるのです。この18節の御言葉は、次回学ぶことになる23節以下の「嵐を静める」というお話に続いているのですが、福音書記者マタイは、その間に、律法学者とイエスさまの対話、またある弟子とイエスさまの対話を記しております。

 19節、20節をお読みします。

 そのとき、ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」

 イエスさま一行が、群衆から離れて、ガリラヤ湖の向こう岸に行こうとしたとき、ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言いました。「律法学者」とは、律法を研究して民衆に教える専門家であります。当時のユダヤ社会において、指導的な立場にあった者です。その律法学者が、イエスさまに近づいて、弟子になりたいと申し出たのです。この律法学者は、イエスさまを「先生」と呼びかけています。このことは、律法学者がイエスさまを律法の教師、ラビとして見ていたことを示しています。当時、有名な律法学者には弟子がおりました。使徒言行録の22章3節を見ますと、パウロは、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受けたと言っています。そのように、律法学者は、イエスさまのもとで律法について学びたいと願ったのです。律法学者は、イエスさまを「先生」と呼び、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言うのですが、イエスさまは、こうお答えになりました。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」。このイエスさまの御言葉は不思議な御言葉であります。なぜ、イエスさまはこのようなことを言われたのでしょうか?私たちが用いている新共同訳聖書は、便宜上、小見出しをつけていますが、今朝の御言葉には、「弟子の覚悟」という小見出しがつけられています。この小見出しの理解によれば、イエスさまは、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕するところもない」と言われることにより、御自分に従う弟子となる覚悟を求められたと言えるのです。イエスさまは、律法学者の言葉に、ある軽率さを聞きとられ、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。そのようなわたしにあなたは従って来るというのか」と言われるのです。イエスさまは、「人の子には枕する所もない」と言われるのでありますが、ここでの「人の子」とは、イエスさま御自身のことであります。イエスさまは、枕する所もないと言われる不安定な放浪生活をしておられるのです。イエスさまがこのようなことを律法学者に言われたのは、おそらく彼がイエスさまに従うことを立身出世の道と考えていたからだと思います。イエスさまは、その律法学者の心をご覧になって、「わたしに従うとは、枕する所もない放浪生活をすることであって、安定した生活を保障する道ではない」ことをきっぱりと言われたのです。イエスさまは、ナザレを離れ、ガリラヤ湖畔の町カファルナウムに来て住まわれました(4:12参照)。しかし、それはカファルナウムに家を持ったのではなく、ペトロの家に仮住まいしていたのでありましょう(8:14参照)。イエスさまは、カファルナウムをガリラヤ宣教の拠点とされましたが(9:1参照)、そこに住み続けたわけではありません。イエスさまは、神の国の福音を宣べ伝えながら、また、民衆のあらゆる病を癒しながら、イスラエル中を巡る旅を続けられたのです。「人の子には枕する所もない」と言われるほどに、休みなく働かれたのです。次回学ぶことになる24節に、激しい嵐の中でイエスさまが眠っておられたとありますが、イエスさまはそれほど疲れ果てておられたのです。イエスさまは、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と言われました。しかし、私たちが忘れてはならないのは、そのイエスさまが、山上の説教において、「空の鳥をよく見なさい」と言われ、「思い煩うな」と三度も言われたお方であるということであります(6:25~34参照)。イエスさまは枕する所もない、福音を宣べ伝える放浪生活をされながら、その心は平安であったのではないでしょうか?なぜなら、イエスさまは、天の父が食べ物や着る物が必要なことを御存じであり、神の国と神の義を求める者に、これらを与えてくださることを御存じであったからです。枕する所もないイエスさまに従っていくとき、逆説的ではありますが、私たちは枕する所があっても得られない神の平安をいただくことができるのです。嵐の中でイエスさまが眠っておられたことは、それほどまでにイエスさまがお疲れになっていたことを表すと同時に、嵐の中にあっても父なる神に信頼する平安を得ていたことを教えているのです。イエスさまに従うことは、立身出世の道ではありませんし、この地上の生活を保障する道でもありません。むしろ、イエスさまに従う者は、ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるのです(5:11参照)。しかし、そのような中にあって、イエスさまに従う者には、人知を超える神の平安が与えられるのです。このようなキリスト者の逆説的な姿を、使徒パウロは、コリントの信徒への手紙二の6章8節以下でこう記しています。新約の331ページです。

 わたしたちは人を欺いているようで、誠実であり、人に知られていないようで、よく知られ、死にかかっているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。

 なぜ、キリスト者はこのような逆説的な存在なのでしょうか?その理由は、枕する所もない人の子が、全世界を裁かれる「人の子」であるところにあるのです。枕する所もない人の子こそ、ダニエル書7章に預言されている全世界を裁かれる人の子であるのです(ダニエル7:13参照)。今朝の御言葉に戻ります。新約の14ページです。

 21節、22節をお読みします。

 ほかに、弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分の死者を葬らせなさい。」

 先程の律法学者は、これから弟子になろうとする弟子志願者でありましたが、今度の人は、既にイエスさまに従う弟子の一人であります。イエスさまが、向こう岸に行くように命じられたのを受けて、弟子の一人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言いました。この人は、イエスさまに「主よ」と呼びかける、イエスさまに従う弟子であります。しかし、彼は、「父を葬ってからイエスさまに従いたい」と言うのです。「父を葬ること」は息子として当然の義務と考えられておりました(創世50:5参照)。十戒の第五戒に、「あなたの父と母を敬え」とありますが、息子にとって親を葬ることは神聖な義務と考えられていたのです。しかし、イエスさまはこう言われました。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」。弟子の一人は、「父を葬ってから、あなたに従います」と言うのですが、イエスさまは、わたしに従い続けなさいと言われるのです。これは当時の常識に反することであります。しかし、その当時の常識に反して、イエスさまは、弟子の一人が父を葬りに行くことをお許しにならないのです。では、父を葬らなくてもよいと言われたのかと言えば、そうではありません。イエスさまは、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と言われました。これも不思議な言葉であります。ここでの「死んでいる者たち」とは、イエスさまに従って来ようとしない、イエスさまに無関心の者たちのことであります。彼らは、もちろん、息をしており、心臓も動いており、肉体的には生きているのですが、霊的には死んでいる者たちであるのです。聖書によりますと、神さまはすべての命の創造者であり、命の源、命の命であられます。その神さまとの交わりに生きているとき、人は霊的に生きていると言えるのです。はじめの人アダムは、エデンの園において神さまとの交わりをいただき、霊的に生きておりました。しかし、アダムは神さまの掟に背いて罪を犯し、エデンの園から追放された日に霊的には死んだのです。アダムはその後も、肉体的には、九百年以上も生きたと記されていますが、霊的には罪を犯し、エデンの園を追放されたその日に死んだのです。神さまとの交わりから断たれているならば、神さまの御前に失われた者であり、神さまの御前に死んだ者であるのです(ルカ15:32参照)。それゆえ、イエスさまは御自分に従ってこない者、御自分に無関心な者を「死んでいる者たち」と言われるのです。イエスさまは、「霊的に死んでいる者たちに、肉体的な死者を葬らせたら良い」と言われるのです。このようにイエスさまが言われるのは、御自分において神さまとの交わりにあずかることができる、霊的な命にあずかることのできる事態が生じているからです。イエスさまにおいて、神を「私たちの父」と呼び、親しく交わることのできる命の交わりが実現しているからです。その交わりに生きること、生き続けることは、親の葬りという当時の神聖な義務よりも優先されるべきことであるのです。イエスさまは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と言われましたけれども、私たちがまず優先すべきなのは、イエスさまに従うこと、従い続けることであるのです。福音書記者マタイは、ある律法学者と弟子の一人が、イエスさまの御言葉に対してどのような応答をしたのかを記してはおりません。律法学者がどのような応答をしたのかは分かりませんが、私は弟子の一人は、父を葬ることを断念して、イエスさまに従ったのではないかと思います。私がそのように考える根拠は、この人自身のうちにはありません。私がそのように考えるのは、イエスさまの「わたしに従いなさい」という権威ある御言葉のゆえであります。福音書記者マタイは、4章18節以下で、「四人の漁師を弟子にする」というお話を記しました。そこには、イエスさまが、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われると、ペトロとアンデレがすぐに網を捨てて従ったことが記されています。そこで、マタイが強調していることは、抗うことのできないイエスさまの権威であります。イエスさまの権威ある御言葉、「わたしに従いなさい」という御言葉をいただいて、私たちはイエスさまに従う弟子となることができるのです。ヨハネによる福音書15章16節で、イエスさまは、こう言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」。イエスさまの弟子になるには、イエスさまから選ばれること、イエスさまから「わたしに従いなさい」という御声をかけていただくことが決定的に必要であるのです。イエスさまから御声をかけていただかなければ、一体誰が、枕する所もないお方に従っていくことができるでしょうか?私たちは誰も自分からイエスさまの弟子になったのではありません。私たちがそのように願うようになる前に、イエスさまが、聖書の御言葉をとおして、「わたしに従ってきなさい」という御声をかけてくださったのです。そして、そのことは、一度だけのことではありません。イエスさまは、私たちがほかのものを第一として歩もうとする時、「わたしに従ってきなさい」と御声をかけてくださるのです。今、私たちの優先順位の第一位を占めているものは何でしょうか?もし、それが神の国と神の義でないならば、私たちは今朝はっきりと「わたしに従いなさい」というイエスさまの御声を聞かなくてはならないと思います。

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