イエスの心 2013年11月17日(日曜 朝の礼拝)

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イエスの心

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 8章1節~4節

聖句のアイコン聖書の言葉

8:1 イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。
8:2 すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
8:3 イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。
8:4 イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」マタイによる福音書 8章1節~4節

原稿のアイコンメッセージ

 少し遡りますが、福音書記者マタイは、4章23節で、イエスさまの活動について次のように記しておりました。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」。福音書記者マタイは、イエスさまの教えを、5章から7章に渡って山上の説教というかたちでまとめて記しました。そして、イエスさまの癒しの業については、8章から9章にまとめて記しているのです。そのことを覚えつつ、今朝は8章1節から4節までをご一緒に学びたいと思います。

 1節をお読みします。

 イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。

 5章1節に、「イエスはこの群衆を見て、山に登られた」とありましたが、山上の説教を語り終えられたイエスさまは、山から下りて来られました。そして、山上の説教を聞いて、その教えに非常に驚いた大勢の群衆がイエスさまに従ったのです。彼らは、イエスさまが権威ある者として教えられたことを聞いたのですが、今度は、イエスさまが権威ある者として行為することを見るのです。9章33節にこう記されています。「悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、『こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない』と言った」。この9章33節は、山上の説教を聞いた群衆の反応を表す7章28節と対応するものであります。イエスさまの教えに非常に驚いた群衆は、イエスさまの権威ある御業にも驚嘆するのです。

 2節をお読みします。

 すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。

 ここに、「一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り」とありますが、これは本来、赦されないことでありました。なぜなら、重い皮膚病を患っている人は、宗教的に「汚れた者」であり、他の人に近づいてはならなかったからです。重い皮膚病については、旧約聖書のレビ記13章に記されています。そのところを少しだけ読みたいと思います。レビ記の13章1節から8節までをお読みします。旧約の179ページです。

 主はモーセとアロンに仰せになった。もし、皮膚に湿疹、斑点、疱疹が生じて、皮膚病の疑いがある場合、その人を祭司アロンのところか彼の家系の祭司の一人のところに連れていく。祭司はその人の皮膚の患部を調べる。患部の毛が白くなっており、症状が皮下組織に深く及んでいるならば、それは重い皮膚病である。祭司は調べた後その人に「あなたは汚れている」と言い渡す。しかし、皮膚の疱疹が白くて症状が皮下組織に深く及んでおらず、患部の毛も白くなっていなければ、祭司は患者を一週間隔離する。七日目に祭司が調べて、患者が以前のままで、広がっていなければ、もう一週間隔離する。七日目に再び調べ、症状が治まっていて、広がっていなければ、祭司はその人に「あなたは清い」と言い渡す。それは発疹にすぎない。その人は衣服を水洗いし、清くなる。しかし、祭司に見てもらい、清いと言い渡された後に、その発疹が皮膚に広がったならば、その人はもう一度祭司のところに行く。祭司が調べて、確かに発疹が皮膚に広がっているならば、その人に「あなたは汚れている」と言い渡す。それは重い皮膚病である。

 ここでは、重い皮膚病が医学な病というよりも、宗教的な汚れとして規定されています。そしてその判定は、祭司が行っていたのです。

 また、少し先の45節、46節にはこのように記されています。

 重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まなければならない。

 なぜ、重い皮膚病を患っている人は、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と叫ばねばならなかったのでしょうか?それは、他の人が知らずにその人に触れて、汚れないためです。汚れた人に触れると、その触れた人も汚れると考えられていたのです(レビ5:3参照)。それゆえ、その人は独りで宿営の外に住まなければならなかったのです。では、なぜ、「宿営の外に」住まなければならなかったのでしょうか?それは、宿営には聖なる神さまが御臨在されるからです。そもそも「汚れ」とは、神さまの「聖」「きよさ」と対立する概念であります。宿営は聖なる神さまが御臨在されるところであるがゆえに、重い皮膚病を患った人は、宿営の外に住まねばならなかったのです。このように重い皮膚病を患った人は汚れた者として、人との交わりからも、そして神さまとの交わりからも追放されてしまったのです。現代に生きる私たちが読みますと、理不尽ではないかと思うのでありますが、現代の多くの聖書学者は、ここでの重い皮膚病が伝染性のある皮膚病であったからではないかと推測しています。ともかく、イエスさまの時代、レビ記の規定によって、重い皮膚病を患っている人は汚れたものであり、人との交わりからも、また神さまとの交わりからも閉め出されていたのです。では、今朝の御言葉に戻ります。新約の13ページです。

 重い皮膚病を患っている人は、本来、人々の集まる場に来てはならないのですが、彼はイエスさまのもとへやって来ました。また、重い皮膚病を患っている人は、口ひげを覆って、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と叫び、人から遠ざからねばならないのですが、彼はあえてイエスさまに近寄りました。3節に、「イエスが手を差し伸べてその人に触れ」とありますように、彼は、イエスさまのすぐ近くまで進み出て、イエスさまの御前にひれ伏したのです。ここで「ひれ伏す」と訳されている言葉は、「礼拝する」とも訳すことができます。神さまとの交わりから追放されていたこの人は、神の御子であるイエスさまに近づき、イエスさまを礼拝したのです。そして、こう言うのです。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」。ここで、重い皮膚病を患っている人は、イエスさまを「主よ」と呼びかけております。ここでの「主よ」という呼びかけは、「先生」といった尊称以上のものであります。なぜなら、この人は、イエスさまが、自分を清くすることがおできになると信じているからです。その昔、預言者エリシャがナアマン将軍の重い皮膚病を清くしたように、この人は、イエスさまが自分の重い皮膚病を清くすることができると信じているのです(列王下5章参照)。そして、これこそ、来るべきメシア、救い主に期待されていたことであったのです。11章に、捕えられていた洗礼者ヨハネが弟子たちを遣わして、イエスさまに、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねさせたことが記されています。そのヨハネの質問にイエスさまこうお答になりました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえいない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」。このように、重い皮膚を患っている人を清くすることは、来るべき方であるメシア、救い主に期待されていたことであったのです。ですから、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」という言葉は、イエスさまを来るべき方、メシアと告白するのに等しい言葉であったのです。重い皮膚病を患っていた人は、イエスさまが、自分を清めることのできると信じております。しかし、問題は、イエスさまがそのことをお望みになるかということであったのです。この人の言葉、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」という言葉は、考えてみますと不思議な言葉であります。普通なら、「主よ、どうか、わたしを清くしてください」と言うのではないでしょうか?しかし、この人は、そのようには言いませんでした。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言ったのです。神の掟によって、汚れた者とされ、人との交わりからも、また神さまとの交わりからも追放された、この人が知りたかったことは、自分に対する主の御心であったのです。

 3節をお読みします。

 イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。

 イエスさまは、手を差し伸べてその人に触れられました。言葉だけで清くすることもできたはずですが、イエスさまは手を差し伸べてその人に触れられたのです。汚れた者に触れれば、その人も汚れると定められていたにもかかわらず、イエスさまは、手を差し伸べてその人に触れられたのであります。そして、「よろしい。清くなれ」と言われたのです。ここで「よろしい」と訳されている言葉は、重い皮膚病を患っている人が言った「御心ならば」を繰り返す言葉であります。イエスさまは、「それがわたしの心である。清くなれ」と言われたのです(新改訳聖書の「わたしの心だ。きよくなれ」を参照)。そして、このようにイエスさまが言われると、たちまち重い皮膚病は清くなったのです。

 4節をお読みします。

 イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定められた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」

 イエスさまは、清くなった人に、「だれにも話さないように気をつけなさい」と言われます。これは、イエスさまについての憶測が人々の間に広がることを恐れたからでありましょう。また、イエスさまは、その人が社会復帰できるように、エルサレムに行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて人々に証明するようにと言われます。レビ記の14章には、「清めの儀式」について記されていますが、その儀式によってこの人は、社会的に清いものとされ、人との交わりに、また神さまとの交わりに入れられるのです。そして、これこそ、イエスさまが与えてくださる救いであるのです。

 今朝の御言葉は、重い皮膚病を宗教的な汚れとする点で、単なる癒しの物語ではありません。重い皮膚病を患っている人自身が、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言っているように、重い皮膚病は単なる病ではなく、人との交わり、神さまとの交わりからその人を追放してしまう汚れであったのです。しかし、イエス・キリストによって、重い皮膚病は清められました。イエス・キリストにあって、重い皮膚病はもはや人を汚すことはないのです。イエス・キリストにあって、この病気にかかったら、神さまとの交わりから追放されるといった病は何一つないのです。そのことを今朝の御言葉は、私たちに教えているのです。また、今朝の御言葉は、イエス・キリストにあってどのような病も癒されることを私たちに教えているのです。私たちは、天において、イエス・キリストにまみえるとき、あらゆる病や障害からも癒されるのです。私たちが病や障害で苦しむことが主イエスの御心ではありません。私たちが病や障害から癒されることが私たちに対する主イエスの御心であるのです。その主イエスの御心を知っているからこそ、私たちは「癒してください」と祈ることができるのです。その主イエスの御心を知っているからこそ、私たちは病や障害を持ちながら、主にある兄弟姉妹として交わり、神さまを恵み深い父として礼拝することができるのです。

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