わたしの神よ、わたしの神よ 2021年3月28日(日曜 朝の礼拝)

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わたしの神よ、わたしの神よ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
詩編 22章1節~32節

聖句のアイコン聖書の言葉

22:1 【指揮者によって。「暁の雌鹿」に合わせて。賛歌。ダビデの詩。】
22:2 わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
22:3 わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。
22:4 だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。
22:5 わたしたちの先祖はあなたに依り頼み/依り頼んで、救われて来た。
22:6 助けを求めてあなたに叫び、救い出され/あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。
22:7 わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。
22:8 わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。
22:9 「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」
22:10 わたしを母の胎から取り出し/その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。
22:11 母がわたしをみごもったときから/わたしはあなたにすがってきました。母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。
22:12 わたしを遠く離れないでください/苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。
22:13 雄牛が群がってわたしを囲み/バシャンの猛牛がわたしに迫る。
22:14 餌食を前にした獅子のようにうなり/牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。
22:15 わたしは水となって注ぎ出され/骨はことごとくはずれ/心は胸の中で蝋のように溶ける。
22:16 口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。
22:17 犬どもがわたしを取り囲み/さいなむ者が群がってわたしを囲み/獅子のようにわたしの手足を砕く。
22:18 骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺め
22:19 わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。
22:20 主よ、あなただけは/わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ/今すぐにわたしを助けてください。
22:21 わたしの魂を剣から救い出し/わたしの身を犬どもから救い出してください。
22:22 獅子の口、雄牛の角からわたしを救い/わたしに答えてください。
22:23 わたしは兄弟たちに御名を語り伝え/集会の中であなたを賛美します。
22:24 主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。
22:25 主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます。
22:26 それゆえ、わたしは大いなる集会で/あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。
22:27 貧しい人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。
22:28 地の果てまで/すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り/国々の民が御前にひれ伏しますように。
22:29 王権は主にあり、主は国々を治められます。
22:30 命に溢れてこの地に住む者はことごとく/主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得
22:31 -32子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。詩編 22章1節~32節

原稿のアイコンメッセージ

 今週は、イエス・キリストの御苦しみを覚える受難週であります。イエス・キリストは、今からおよそ2000年前の今週の金曜日の午後3時頃、十字架の上で死んでくださいました。イエスさまは、十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれました(マタイ27:46)。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。このイエスさまの御言葉は、今朝の『詩編』第22編の冒頭の御言葉であります。イエスさまは、十字架の上で、『詩編』第22編の御言葉を叫ばれたのです。そのことを念頭に置きながら、今朝の御言葉を読み進めていきたいと思います。

 1節にありますように、『詩編』第22編は、ダビデの詩編であります。ダビデは、紀元前1000年頃に活躍した人物で、主によって油を注がれて、イスラエルの王とされた人物でありました。そのダビデが「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか」と歌うのです。

 2節と3節をお読みします。

 わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない。

 ここには、ダビデの深い嘆きの言葉が記されています。ダビデは、神さまから見捨てられたとしか思えない状況に置かれていました。ダビデが救いを求めても、主はダビデの祈りを聞いてくださらない。ダビデが置かれている苦しい状況は何も変わらないのです。しかし、ダビデは、神さまに対して黙ることはできません。なぜなら、ダビデは、苦しい状況にあっても、神さまを「わたしの神」と信じているからです。どのような苦しい状況にあっても、神さまがダビデの神さまであることは変わらないのです。同じことが、私たちにおいても言えます。私たちが神さまから見捨てられたとしか思えない状況にあっても、神さまが、イエス・キリストを信じる私たちの神であることに変わりはないのです。ですから、私たちは、苦しい状況にあっても、「わたしの神よ、わたしの神よ」と祈り続けることができるのです。

 4節から6節までをお読みします。

 だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。わたしたちの先祖はあなたに依り頼み/依り頼んで、救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され/あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。

 ダビデは、神さまから見捨てられたとしか思えない苦しい状況において、何とか自分の信仰を守ろうといたします。ダビデは、自分の信仰を支えるために、神さまへと心を向けるのです。さらには、神さまが自分たちの先祖を救ってこられた事実に心を向けるのです。ダビデは、神さまが自分から遠く離れているように感じていました。しかし、神さまは聖所におられ、イスラエルの賛美を住まいとされる御方であるのです(新改訳参照)。このときダビデは、神さまを賛美できない状況にありました。おそらく、ダビデは、大きな病を患い、床に伏せっていたのでしょう。しかし、神さまは聖所におられ、そこでは、イスラエルの人々が神さまをほめたたえているのです。自分は、教会の礼拝に集うことができない苦しみの中にある。しかし、教会において、主にある兄弟姉妹が神さまの御名をほえたたえている。その事実が、苦しい状況にある私たちの信仰を支えるのです。神さまは、自分を救ってくださらない。しかし、私たちの先祖はどうか。私たちの先祖は神さまに依り頼んで救われてきた。聖書に記されている信仰の先達たちは皆、神さまに依り頼んで救われてきたのです。神さまを信じて、生きているのは、私たちが最初の人間ではありません。私たちの前に、数え切れないほどの多くの人たちが、神さまに依り頼んで、神さまからの助けをいただいて生きてきたのです(ヘブライ12:1参照)。そのことを想い起こすことによって、私たちの信仰は支えられるのです。

 7節から9節までをお読みします。

 わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう。」

 ダビデは、自分のことを「虫けら、人間の屑、民の恥」と言っていますが、これは、ダビデに敵対する者たちが言っていた悪口であると思われます。ダビデは、自分に敵対する者からそのような悪口を言われて、それを受け入れてしまっているわけです。敵対する者たちからの悪口をはねのけることができず、「本当にそのとおりだ、わたしは虫けらで、民の恥だ」と受け入れてしまっているのです。それほどまでに、ダビデは、このとき弱っていたのです。肉体だけではなくて、精神的にも弱っていたのです。ダビデに敵対する者たちは、ダビデを嘲って、こう言いました。「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう」。これは裏を返せば、「主に助けてもらえないあなたは、主に愛されていないのだ」ということです。「主に頼んでも救ってもらえない。そのことが、主があなたを愛しておられないことを物語っている」ということです。これはとても残酷な言葉であります。ダビデの信仰を大きく揺さぶる言葉です。しかし、ダビデは、神さまが自分をどのように扱ってこられたかに心を向けることによって信仰を守るのです。

 10節から12節までをお読みします。

 わたしを母の胎から取り出し/その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。母がわたしをみごもったときから/わたしはあなたにすがってきました。母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。わたしを遠く離れないでください/苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。

 神さまとダビデとの関係は、いつから始まったのでしょうか。ダビデは、神さまが母の胎から取り出し、その乳房にゆだねてくださったと記します。私たちが、今、生きているのは、神さまが私たちを母の胎から取り出し、その乳房にゆだねてくださったからであるのです。さらに、ダビデは、母が自分を身ごもったときから、自分は神さまにすがってきたと言うのです。私たちは、それぞれに定められたときに、イエス・キリストを信じて、まことの神さまを知る者とされました。わたしの場合ですと、22歳で洗礼を受けましたので、22歳の時に、イエス・キリストを信じて、まことの神さまを知る者とされたわけです。では、神さまとわたしのお付き合いは、22歳から始まったのかと言うと、そうではないのです。私が生まれたときから、いや、母の胎内に宿ったときから、神さまとのお付き合いは、始まっていたのです。私が「神などいない」と言っていたときも、神さまはわたしに良い物を与えて、育んでくださったのです。ですから、ダビデは、「母の胎にあるときから、あなたはわたしの神」と言うのです。私たちが誕生日を迎えるとき、想い起こすべきはこのことですね。母の胎にあるときから、わたしの神が、わたしをこの地上で生かしてくださっている。そのことを覚えて、私たちは、誕生日に、自分を造り、生かしてくださっている神さまに、感謝と賛美をささげるのです。ダビデは、自分が置かれている苦しみではなくて、母の胎にあったときから続いている神さまとの関係に心を向けて、「わたしを遠く離れないでください。苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです」と神さまに依り頼むのです。

 13節から16節までをお読みします。

 雄牛が群がってわたしを囲み/バシャンの猛牛がわたしに迫る。餌食を前にした獅子のようにうなり/牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。わたしは水となって注ぎ出され/骨はことごとくはずれ/心は胸の中で蝋のように溶ける。口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。

 ここでは、ダビデに敵対する者たちが、雄牛や獅子に譬えられています。ダビデが大きな病を患って床に伏せっている。このことは、ダビデに敵対する者たちにとって、願ってもないチャンスであります。彼ら雄牛のようにダビデに迫り、獅子のようにダビデに牙を剥いて襲いかかるのです。私たちの目の前に、猛牛やライオンがいたとしたら、どれほど恐ろしいことでしょうか。そのような恐ろしい状況にダビデは直面していたのです。かつて羊飼いであったダビデは、獅子を打ち倒して、その口から羊を取り戻す勇敢な人物でありました(サムエル上17:34,35参照)。しかし、このときは違います。ダビデは大きな病を患っており、肉体的にも精神的にも、衰弱していたのです。ダビデは、舌が上あごにはり付いて話すことができない、塵と死の中に打ち捨てられたような状態にあったのです。ここで、ダビデは、「あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる」と記しています。ダビデは、死に至るような大きな病を、神さまの御手から受け取っています。ダビデは、神さまの御手から大きな病を受け取っているからこそ、その大きな病からの救いを、神さまに祈り求めることができたのです。

 17節から19節までをお読みします。

 犬どもがわたしを取り囲み/さいなむ者が群がってわたしを囲み/獅子のようにわたしの手足を砕く。骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺め/わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。

 ここでダビデは、塵と死の中に打ち捨てられた姿を想像して、言葉を記しています。実際、ダビデは死んでいないのですが、死んだ自分を敵対する者たちがどのように扱うかをイメージして、17節から19節までを記しているのです。ダビデは、自分に敵対する者を「犬ども」と呼んでいます。ここでの犬は、死骸を食い物とする野犬のことです。ダビデは、自分に敵対する者たちが、死んだ自分をどのように扱うかを想像して、このところを記しました。しかし、私たちは、ダビデの子孫であるイエス・キリストのうえに、ここに記されているとおりのことが起こったことを知っているのです。そのような意味で、『詩編』第22編はイエス・キリストが受ける苦しみを預言する、メシア預言であるのです。

 20節から22節までをお読みします。

 主よ、あなただけは/わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ/今すぐにわたしを助けてください。わたしの魂を剣から救い出し/わたしの身を犬どもから救い出してください。獅子の口、雄牛の角からわたしを救い/わたしに答えてください。

 ここで、ダビデは、神さまに「主よ」と呼びかけます。ダビデは、第22編において、20節で初めて、「主」の御名を呼ぶのです。「主」とは、「ヤハウェ」と発音されたであろう、神さまの御名前であります。その昔、神さまは、ホレブの山で、モーセに、「主」ヤハウェという御名前を示されました。主、ヤハウェという御名前の意味は、「わたしはある」「わたしはあなたと共にいる」という意味であります。「主」という御名前の中に、「わたしはあなたと共にいる」という約束が含まれているのです。その約束のとおりに、「主よ、あなただけは/わたしを遠く離れないでください」とダビデは祈るのです。大きな病を患ったダビデを剣で殺そうとする雄牛や獅子から助けてくださいとダビデは祈るのです。22節の後半に、「わたしに答えてください」と記されています。しかし、聖書協会共同訳は、この所を、「あなたはわたしに答えてくださった」と翻訳しています。ダビデの祈りは聞かれ、ダビデは主によって癒され、主によって敵の手から救われたのです。それゆえ、ダビデは、集会の中で、主を賛美するのです(この詩編の転換点、ターニングポイント)。

 23節から27節までをお読みします。

 わたしは兄弟たちに御名を語り伝え/集会の中であなたを賛美します。主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます。それゆえ、わたしは大いなる集会で/あなたに賛美をささげ、神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。貧しい人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。

 大きな病を患い、床に伏せっていたダビデは、集会に出ることができませんでした。しかし、今や、ダビデは癒されて、集会の中で主を賛美するのです。そして、そのダビデの周りにいるのは、主を畏れる兄弟たちであるのです。その兄弟たちに、ダビデは、「主を賛美せよ」「主に栄光を帰せよ」「主を恐れよ」と呼びかけるのです。

 25節は、ダビデが自分の体験として知ったことであります。ダビデは、苦しみの中で主に祈り、その祈りを聞いていただいた者として、「主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく/助けを求める叫びを聞いてくださいます」と言うのです。そのようにして、ダビデは、主に依り頼んで救われて来た、先祖の一人に連なる者となったのです。ダビデは、主の救いを体験した者として、主をほめたたえ、満願の献げ物をささげるのです。このことは、私たちにおいても当てはまります。私たちは、主イエス・キリストの十字架の贖いによって、罪と死の支配から救っていただきました。それゆえ、私たちは主イエス・キリストの父なる神さまをほめたたえ、感謝の献げ物をささげているのです。そのようにして、私たちは、いつまでも続く、健やかな命にあずかっているのです。

 28節から32節までをお読みします。

 地の果てまで/すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り/国々の民が御前にひれ伏しますように。王権は主にあり、主は国々を治められます。命に溢れてこの地に住む者はことごとく/主にひれ伏し/塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得/子孫は神に仕え/主のことを来たるべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう。

 ダビデは、すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り、国々の民が御前にひれ伏すようにと願います。それは、主こそ、国々を治められる王であるからです。主は、王たちの王であり、王権は主にあるのです。そして、主の王権は、現在、過去、将来へと及ぶのです。主の王権は、空間的な広がりだけではなくて、時間的な広がりを持つのです。主の王権は、すべての国々の民に及びます。そして、今生きている人、かつて生きていた人、これから生まれてくる人に及ぶのです。

 今朝の御言葉の最後に、「わたしの魂は必ず命を得/子孫は神に仕え/主のことを来たるべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう」とあります。「成し遂げてくださった恵みの御業」とは、主がダビデの祈りに答えて、ダビデの命を救ってくださったことであります。ダビデの体験も、子孫に語り伝えられる主の成し遂げられた恵みの御業となったのです。

 この説教の初めに、第22編の冒頭の言葉は、イエスさまが十字架の上で叫ばれた言葉であると申しました。イエスさまは、十字架の上で、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」と言われたのです。そのように、イエスさまは、十字架の上で、第22編を祈られたのです。そのことを覚えるとき、イエスさまの心の中にあったのは、主が御自分の命を救ってくださるという信頼であったことが分かります。「わたしの魂は必ず命を得/子孫は神に仕え/主のことを来たるべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう」。このダビデの言葉は、十字架の死から復活されたイエス・キリストにおいて、完全に実現することになるのです。イエスさまは、十字架の上で、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」と叫ばれました。しかし、それは、イエスさまの最後の言葉ではありません。『マタイによる福音書』は、「しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた」と記しています。イエスさまは、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」と叫ばれて、息を引き取られたのではありません。それからしばらくして、イエスさまは再び大声で叫び、息を引き取られたのです。では、最後にイエスさまは、どのような言葉を大声で叫ばれたのでしょうか。『ヨハネによる福音書』によれば、それは「成し遂げられた」という言葉であります(ヨハネ19:30)。主が成し遂げてくださった恵みの御業とは、主イエス・キリストが十字架の上で成し遂げてくださった救いの御業であるのです。イエスさまは、十字架の上で、救いの御業を成し遂げてくださいました。そのようにして、私たちを神さまとの交わりである永遠の命に生きる者としてくださったのです。そして、これこそ、私たちが語り伝えるべきイエス・キリストの福音であるのです。

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