聞いて行う者 2013年11月10日(日曜 朝の礼拝)

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聞いて行う者

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 7章24節~29節

聖句のアイコン聖書の言葉

7:24 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。
7:25 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。
7:26 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。
7:27 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」
7:28 イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。
7:29 彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。マタイによる福音書 7章24節~29節

原稿のアイコンメッセージ

 マタイによる福音書の5章から7章までには、イエスさまの教えがまとめて記されています。このイエスさまの教えを山上の説教と言いますが、今朝の御言葉は、山上の説教の最後の教えであります。そのことを心に留めつつ、イエスさまの御言葉に聞いていきたいと思います。24節から27節までをお読みします。

 そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。

 イエスさまは、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」と言われます。「わたしのこれらの言葉」とは、5章から7章に渡って記されている山上の説教のことであります。前回学んだ21節に、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」とありましたが、イエスさまの天の父の御心を行うことと、山上の説教を聞いて行うことは同じことであるのです。なぜなら、イエスさまは、山上の説教において御自分の父の御心を示されたからであります。イエスさまは、山上の説教を結ぶに当たって、私たちが天の父の御心である山上の説教を聞いて行う者となるように求めておられるのです。

 ここでイエスさまが語っておられる譬えは、私がくどくどと説明しなくてもよくお分かりいただけると思います。これは山上の説教を聞いてきた私たちに対する警告の言葉であります。イエスさまは、私たちが山上の説教を聞いて行うならば、あなたたちは岩の上に自分の家を建てた賢い人に似るであろうと言われます。また、私たちが山上の説教を聞くだけで行いわないのなら、砂の上に家を建てた愚かな人に似るであろうと言われるのです。そのように聞けば、私たちは皆、イエスさまの教えを聞いて行おうとするはずですが、実際は、それほど単純ではないと思います。むしろ、私たちはイエスさまのこのような警告の言葉を聞きながらも、イエスさまの教えを聞くだけで行わない、砂の上に家を建てた愚かな人に似ているのではないでしょうか?そうであれば、なぜ、そうなってしまうのかを、この譬えからご一緒に考えたいと思います。イエスさまは、岩の上に自分の家を建てた人を賢い人と言い、砂の上に家を建てた人を愚かな人と言われます。なぜ、賢い人と言われている人は岩の上に家を建て、愚かな人と言われる人は砂の上に家を建てたのでしょうか?それは、賢い人と言われている人は嵐が襲うことを考慮に入れていたのに対して、愚かな人と言われる人は嵐が襲うことを考慮に入れていなかったからです。もし、「雨が降り、川があふれ、風が吹いて」襲うという嵐が来なければ、この二人の家はどちらも倒れることはありませんでした。しかし、問題は嵐が必ずやって来るということなのであります。ここでの「嵐」は人生の様々な苦難を意味するとも解釈することができますが、前回学んだ御言葉との繋がりからすれば、世の終わりの裁きを指していると思います。ヘブライ人への手紙9章27節に「人間はただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」とありますように、すべての人が神の裁きの座に立たなければならないのです。そして、神さまは、その裁きを行う権能をイエスさまにお与えになったのです(ヨハネ5:27参照)。ですから、ここでイエスさまが教えてくださっていることは、世の終わりの裁きにおいて救いか、滅びかを判定する基準であるのです。私たちは、ここでイエスさまが、御自分を信じているキリスト者を賢い人と呼び、御自分を信じていない者たちを愚かな人と呼んでいないことに注意したいと思います。ここで賢い人も、愚かな人も、イエスさまのこれらの言葉を聞くキリスト者であるのです。そのキリスト者の中で、裁きの日には、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似る人と、砂の上に自分の家を建てた人に似る人との二つのグループに分けられると言うのです(25:31~46参照)。ここでも鍵語は、「行う」ということであります。かの日において、審判者であるイエスさまが問われるのは、「イエスさまのこれらの言葉を聞いて行ったかどうか」であるのです。しかし、それにもかかわらず、聞いて行わない愚かな人は、自分が世の終わりの裁きに耐えることができると考えていることにあるのです。聞いて行わない人も、イエスさまが世の終わりにすべての人を裁くために来られることを信じています(使徒信条参照)。しかし、その人は山上の説教を聞いて行わないのです。聞いて行いわないにも関わらず、イエスさまの裁きに耐え、救われると思っているのです。砂の上に自分の家を立てながら、嵐にあっても倒れないと思っているところに、この人の本当の愚かさがあるのです。このことは後に主の兄弟ヤコブがその手紙で問題としたことでもあります。ヤコブの手紙2章14節から26節までをお読みします。新約の423ページです。

 わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心していきなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴いわないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。

 しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。ああ、愚かな者よ、行いを伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇にささげるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたのではありませんか。魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。

 少し長く読みましたが、ここでヤコブが問題としていることは、まことの信仰とは単なる知識ではなく、行いが伴ったものであるということであります。このヤコブの言葉は、使徒パウロの教えと矛盾するように誤解されることがありますが、そうではありません。むしろ、ヤコブはここで、パウロの教えを曲解する者たちの誤りを正そうとしているのです。ここでヤコブは、パウロの信仰義認の教えを曲解して、信仰と行いを切り離す誤りを正そうとしているのです。信仰によって救われるというとき、その信仰とは単なる知的認識だけではなく、行いの伴った信仰であるのです。このことはパウロも教えていることであります。ガラテヤ書の5章6節でパウロはこう記しております。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」。行いを伴った信仰を教えたのはヤコブだけではありません。パウロも、「愛の実践を伴う信仰こそ大切である」と記しているのです。イエスさまが、「わたしのこれらの言葉を聞いて行ったかどうか」を最後の審判の基準とされるのは、それによって私たちの信仰が行いの伴ったまことの信仰であるかどうかを判定するためであるのです。そして、聞いて行う信仰こそ、神さまに義と認めていただけるアブラハムと同じ信仰であるのです。では、今朝の御言葉に戻ります。新約の12ページです。

 28節、29節をお読みします。

 イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威あるものとしてお教えになったからである。

 ここには、イエスさまの教えを聞いた群衆の反応が記されています。イエスさまは山上の説教を弟子たちにお語りになりましたが、それは群衆を排除するものではありませんでした。群衆もイエスさまの教えを聞いていたのです。群衆はイエスさまの教えを聞いて、非常に驚きました。なぜ、群衆は非常に驚いたのか?それはイエスさまが彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからです。律法学者は、権威のある聖書の御言葉や有名なラビの言葉を引用して教えましたが、イエスさまはそうではありません。イエスさまは、権威ある者としてお教えになったのです(反対命題参照)。イエスさまの教えそのものに権威があったのです。なぜなら、イエスさまこそ、神さまを「わたしの天の父」と呼ばれる神の御子であり、律法と預言者を完成するために来られたメシアであられるからです。もちろん、そのことを群衆は信じていたわけではありません。彼らはイエスさまの権威ある教えに非常に驚いただけです。しかし、イエスさまは神の御子、メシアと信じる私たちは驚くだけであってはならないのです。私たちは、イエスさまの権威ある教えに、聞き従う者とならねばならないのです。権威とは「従わせる権利と力」のことでありますが、イエスさまの御言葉を聞いて行うことによって、初めて、私たちはイエスさまの権威を受け入れたことになるのです。そして、その権威は、世の終わりにすべての人を裁くほどの権威、権能であるのです。この福音書の最後で、復活されたイエスさまが、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と言われているように、私たちは山上の説教を語られたイエスさまが、十字架と復活を経て、天と地の一切の権能を授けられたお方であることを知っているのです。そうであれば、なぜ、私たちは、イエスさまの御言葉を聞くだけで行わないのでしょうか?それは、イエスさまの権威を受け入れていないからです。イエスさまを主と呼びながら、イエスさまの権威を本当には受け入れていない。ですから、聞くだけで行わないのです。そして、ここに私たちの持って生まれた愚かさがあるのです。生まれながらの私たちは、イエスさまの権威を受け入れることのできない、イエスさまのこれらの言葉を聞き流してしまう愚かな者たちであるのです。それゆえ、私たちは、神さまが与えてくださる上からの知恵を求めなければならないのです。旧約聖書の箴言に「主を畏れることは知恵の初め」とありますけれども、そのような知恵を神さまからいただかなくてはならないのです。主の兄弟ヤコブはその手紙の中でこう記しています。「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば与えられます」(1:5)。また、ヤコブは次のようにも記しています。「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、さらに温和で、優しく、従順なものです。憐みと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません」(3:17)。私たちは、このような上からの知恵を祈り求めていきたいと願います。そのようにして、私たちは、山上の説教を聞くだけで終わるのではなく、山上の説教を生涯に渡って行う者でありたいと願います。

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