求めなさい 2013年9月29日(日曜 朝の礼拝)

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求めなさい

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 7章7節~12節

聖句のアイコン聖書の言葉

7:7 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
7:8 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
7:9 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
7:10 魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
7:11 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
7:12 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」マタイによる福音書 7章7節~12節

原稿のアイコンメッセージ

序.

 今朝は、マタイによる福音書第7章7節から12節までの御言葉を御一緒に学びたいと願います。

1.求めなさい

 イエスさまは、7節で次のように言われています。

 求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

 ここで、イエスさまは、「求めなさい」「探しなさい」「門をたたきなさい」と言われますが、これはどれも「祈り求める」ことを表しています(ルカ11:9~13を参照)。イエスさまは第6章8節で、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と言われましたが、それは祈らなくてよいということではありません。私たちは神さまに祈り求めるべきであるのです。私たちは祈り求めることによって、天の父との交わりを深め、確かにしていくべきなのです。それゆえ、イエスさまは、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と言われ、私たちの祈りを励まされるのです。ここでの「求めなさい」「探しなさい」「門をたたきなさい」は、元の言葉を見ますと命令法の現在時制で記されています。命令法の現在時制は「反復的、継続的に何々せよ」という意味であります。ですから、イエスさまここで、「求め続けなさい」「探し続けなさい」「門をたたき続けなさい」と言われているのです。つまり、ここでイエスさまが命じておられることは、熱心に、忍耐強く祈り続けることであるのです。イエスさまは、「求め続けなさい。そうすれば、与えられる。探し続けなさい。そうすれば、見つかる。門をたたき続けなさい。そうすれば開かれる」と言われているのです。そのようにイエスさまは私たちの祈りを励まされるのです。

 また、イエスさまは8節で次のように言われます。

 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。

 これは、神の御子としてのイエスさまの約束、また、イエスさまの口を通して語られている天の父の約束の御言葉であります。「だれでも」とありますが、これはもちろん、「イエス・キリストを信じて、神の子とされた者ならだれでも」という意味であります。イエスさまは、「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」と約束してくださいます。ですから、私たちは、そのことを信じて、求め続けることができるのです。「神さまは、わたしの祈り求めるものを与えてくださるかどうか分からないけど、祈ってみよう」というのではなくて、イエスさまの御言葉、「求めなさい。そうすれば、与えられる」という御言葉を信じて、祈り求め続けるべきであるのです。イエスさまは第21章22節で、「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」と言われました。祈りには信仰が必要不可欠であるのです。そして、その信仰とは、ひとえに天の父への信頼であるのです。

2.良い物をくださる天の父

 イエスさまは9節から11節で次のように言われています。

 あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。

 イエスさまが言われているように、私たちは誰も、パンを欲しがる自分の子供に石を与えたり、魚を欲しがるのに蛇を与えたりはしません。私たちは神さまの御前に悪い者でありながら、自分の子供には良い物を与えることを知っているのです。そうであれば、「善い方であるあなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」とイエスさまは言われるのです(19:17参照)。ルカによる福音書に記されている並行個所を見ますと、天の父が与えてくださる「良い物」が「聖霊」と記されています。ルカによる福音書の第11章13節をお読みします。新約の128ページです。

 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。

 マタイによる福音書では、「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」とありましたが、ここでは「良い物」が「聖霊」と記されています。これは、福音書記者ルカの解釈ではないかと思います。福音書記者ルカは「天の父が求める者に与えてくださる良い物こそ聖霊である」と解釈し、続編の使徒言行録の第2章で、祈り求める弟子たちに聖霊が与えられたことを記したのです。確かに、聖霊は、天の父が求める者に与えてくださる良いもの、良いお方であります。なぜなら、聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」と言うことはできないからです。聖霊によって、私たちはイエス・キリストと結び合わされ、もろもろの祝福にあずかる者とされるからです(ローマ8章参照)。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の11ページです。

 イエスさまは、「まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」と言われました。ここでの「良い物」は元の言葉を見ますと複数形で記されています。イエスさまは、「あなたがたの天の父は、求める者にもろもろの良い物をくださるに違いない」と言われているのです。そもそも、イエスさまは、何を祈り求めなさいと言われているのでしょうか?イエスさまは、「求めなさい。そうすれば、与えられる」と言われましたが、ここには、何を祈り求めるのかが記されていません。イエスさまは、私たちに自分が欲しい物を何でも求めなさいと言っているのでしょうか?そうではないと思います。なぜなら、イエスさまは第6章33節でこう言われていたからです。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。今朝の御言葉は、この第6章33節の御言葉を受けてのものであります。私たちは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」という祈りの優先順位を教えられている者として、求め続けることが命じられているのです。そして、そのような祈り求めに応えて、天の父はもろもろの良い物を与えてくださるのであります。ルカ福音書は、「もろもろの良い物」として「聖霊」をあげましたけれども、これはマタイ福音書の教えにも通じるものではないかと思います。なぜなら、神の国は、「聖霊によって与えられる義と平和と喜び」であるからです(ローマ14:17参照)。そして、聖霊こそ、「もろもろの良い実」を私たちの内に結んでくださるお方であるのです。「霊の結び実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」と記しているとおりです(ガラテヤ5:22)。天の父が求める者に与えてくださるもろもろの良い物を、聖霊だけに限定する必要はありませんが、聖霊こそ、天の父が与えてくださる最も良いもの(お方)であることを、私たちは心に留めておきたいと思います。

3.黄金律

 イエスさまは12節で次のように言われます。

 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。

 この御言葉は、いわゆる黄金律、ザ・ゴールデンルールと呼ばれています。それほど、大切なことがここで教えられているとキリスト教会は理解してきたのです。イエスさまは、「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」と言われました。このイエスさまの御言葉と似たような言葉を、イエスさまより少し前の時代に活躍したヒレル(前50~後10年)という律法学者が語っています。ヒレルは、こう言ったそうです。「あなた自身にとっていやなことは隣人にも行ってはならない。これがトーラーのすべてである。残りはすべて註解である。さあ、出て行って学びなさい」(『パリサイ派とは何か』50頁)。このヒレルの言葉とイエスさまの御言葉を比べるとき、すぐに気がつくことは、イエスさまはヒレルが否定的に言ったことを、肯定的に言い表されたということです。ヒレルは、「あなた自身にとっていやなことは隣人にも行ってはならない」と言いましたが、イエスさまは、それを肯定的に、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と言われたのです。そして、「これこそ律法と預言者である」と言われたのであります。この「律法と預言者」という言葉は、第5章17節にも記されていました。第5章17節で、イエスさまはこう言われました。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」。この第5章17節の御言葉と対応する形で、イエスさまは今朝の御言葉で、「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」と言われているのです。いわば、ここに、これまでの教えの結論が記されていると言えるのです。律法と預言者を完成するとは、どのようなことか?それは、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」ということであるのです。律法と預言者を完成するために、誰かに教えを乞う必要はない。自分に尋ねてみればよい。自分に尋ねて、人にしてもらいたいことを何でもすればよい、とイエスさまは言われるのです(一ヨハネ2:27参照)。しかし、このようなイエスさまの御言葉を聞きますと、それでは結局、自分自身が基準となってしまうが、それでよいのか?という疑問がわいてきます。確かに、ここでは自分自身が基準となります。しかし、その基準は、祈り求める自分であり、天の父からもろもろの良い物を与えられている自分であるのです。12節のはじめに、「だから」とあるように、ここでのあなたがたは、祈り求めるあなたがたであり、天の父からもろもろの良い物を与えられているあなたがたであるのです。ルカ福音書の並行個所によれば、聖霊を与えられて、イエス・キリストを信じ、天の父の御心を知っているあなたがたであるのです。

結.

 イエスさまは、今朝の御言葉で、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」と言われましたが、第22章37節から40節では次のように言われています。

 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。

 「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」。この御言葉は、第二の掟である「隣人を自分のように愛しなさい」を言い換えたものと読むことができます。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」というイエスさまの御言葉を読むとき、私たちは自分が人にしてもらいたいと思うことを知っていると考えます。しかし、そうではありません。私たちは人にしてもらいたいことが何であるのかを本当のところ知らないのです。ですから、イエスさまが十字架の死を死んでくださり、私たちがしてもらいたいと考えたこともないことを、すなわち罪からの救いを成し遂げてくださったのです。また、私たちは「隣人を自分のように愛しなさい」という御言葉を読むとき、私たちは自分自身を愛していると考えます。しかし、そうではないのです。私たちは自分自身さえ愛することができない者であるのです。それができるようになったのは、天の父が御子を与えられたほどに私たちを愛してくださっていることを知ったからなのです。使徒パウロは、ローマ書の第13章10節で「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」と記しました。その愛は、私たちが生まれながらにもっている愛ではありません。「愛は律法を全うする」と語るその愛は、イエス・キリストの十字架によって示され、聖霊によって注がれている神の愛であるのです(ローマ5:5、8参照)。

 「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」。このイエスさまの御言葉は、天の父から聖霊を与えられ、イエス・キリストを信じ、神の愛の交わりに生きる者とされた私たちに対して語られている御言葉であります。そして、ここに私たちはエレミヤの預言の成就を見ることができるのです。エレミヤ書第31章33節と34節をお読みします。旧約の1237ページです。

 しかし、来たるべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

 このような新しい契約の祝福に生かされている私たちに対して、イエスさまは、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と言われるのです。

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