人を裁くな 2013年9月22日(日曜 朝の礼拝)

問い合わせ

日本キリスト改革派 羽生栄光教会のホームページへ戻る

人を裁くな

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 7章1節~6節

聖句のアイコン聖書の言葉

7:1 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
7:2 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
7:3 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
7:4 兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。
7:5 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。
7:6 神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」マタイによる福音書 7章1節~6節

原稿のアイコンメッセージ

序.

 私たちは、マタイによる福音書を続けて学んでおりますが、今朝から第7章に入ります。今朝は、第7章1節から6節までを御一緒に学びたいと願っております。

1.人を裁くな

 イエスさまは、第7章1節、2節で次のように言われます。

 人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。

 イエスさまは、「人を裁くな」と言われます。3節以下に「兄弟」と何度も記されているように、ここでの「人」は第一に「主にある兄弟姉妹」のことであります。主イエス・キリストを信じている私たちは、神さまを父とし、イエスさまを長兄、一番うえの兄とする兄弟姉妹であるのです。その主にある兄弟姉妹である私たちに、イエスさまは、「人を裁くな」と言われるのであります。「裁く」と訳されている言葉は、元々は、「分ける」「判断する」という意味でありますが、ここでは、「非難する」、「罪に定める」と言った否定的な意味で用いられています。人を裁くとは、兄弟姉妹を非難し、罪に定めてしまうことであるのです。あの人はキリスト者失格であると判断してしまうこと、それがここで言われている「人を裁く」ということであります。しかし、イエスさまは、そのようなことをするなと言われるのです。そして、その理由として、「あなたがたも裁かれないようにするためである」と言われるのです。「あなたがたも裁かれないようにするためである」。ここには、誰によって裁かれるのか記されておりませんが、これは言うまでもなく、神さまによってであります(神的受動態)。イエスさまは、「人を裁くな。あなたがたも神さまによって裁かれないようにするためである」と言われるのです。そして、私たちの裁きと神さまの裁きとの間に相関関係があることを教えられるのです。「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」。私たちが兄弟姉妹を裁くとき、そこにはある基準があります。ある基準、量りをもって、兄弟姉妹を裁くのです。そして、神さまもその私たちが用いている基準、量りをもって、私たちを裁かれる、とイエスさまは言われるのです。使徒パウロはローマの信徒への手紙第2章1節から3節で次のように記しています。新約の274ページです。

 だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れると思うのですか。

 私たちが兄弟姉妹を裁くとき、実はそこで、私たちは神さまの裁きを招いているのです。私たちが兄弟姉妹に厳しい裁きをすればするほど、神さまも私たちを厳しく裁かれるのです。それゆえ、私たちは兄弟姉妹を裁いてはならないのであります。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の11ページです。

2.おが屑と丸太

 そもそも、なぜ、私たちは兄弟姉妹を裁くのでしょうか?様々な理由があげられると思いますが、その一つは、自分が神さまによって裁かれる者であることを忘れてしまうことにあると思います。自分が神さまによって裁かれる者であるにもかかわらず、私たちはそのことを忘れて、兄弟姉妹を裁いてしまうのです。しかし、イエスさまは、兄弟姉妹を裁くあなたの目に、丸太があるではないかと言われるのです。3節から5節をお読みします。

 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向って、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。

 ここで、イエスさまは、兄弟姉妹を裁く人は、自分の目の中にある丸太に気づかずに、「あなたの目からおが屑を取らせてください」と言っている人と同じであると言われます。これはもちろん誇張的な修辞法(レトリック)でありますが、ここには、「自分には甘いが、他人には厳しい」私たちの姿が描かれています。私たちは「自分には甘く、他人には厳しい」ゆえに、自分の目にある丸太に気づかずに、兄弟姉妹の目にあるおが屑が気になるのです。ここで「おが屑」とか「丸太」と言われているのは、裁きの対照である「罪」を指しています。兄弟の罪は気になっても、自分の罪は気にならない。では、自分の罪は兄弟の罪よりも小さいのかと言えば、そうではない。自分の罪は兄弟の罪よりも大きいのに、その自分の大きな罪をまるでないかのようにして、兄弟の小さな罪を取り除こうするのです。ここに、描かれているのは、まさに私たち一人一人の姿ではないでしょうか?そして、そのような私たちをイエスさまは「偽善者よ」と言われるのです。なぜ、イエスさまは、兄弟に向って、「あなたの目からおが屑を取らせてください」という者を偽善者と呼ばれるのか?それは、その人が自分の目に丸太がないかのように、振る舞っているからです。「偽善者」と訳されている言葉は、元々は「役者」という意味であります。人を裁くものは、自分の目の中にある丸太がまるでないかのように演じているゆえに、偽善者なのです。人を裁き、兄弟に向って、「あなたの目からおが屑を取らせてください」という者は、罪のない自分を演じなければ到底そのようなことは言えません。人を裁き、兄弟に向って、「あなたの目からおが屑を取らせてください」という者は、偽善者にならざるを得ないのです。そもそも、聖書において、人を裁くこと、兄弟姉妹を裁くことは、神さまのなさることであります。なぜなら、神さまだけが人を正しく裁くことのできるお方だからです。ヤコブの手紙第4章12節に、「律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか」とありますように、神さまだけが人を裁かれるのです。ですから、兄弟姉妹を裁く人は、自分を神さまの位置においているわけです(ローマ14:4も参照)。人を裁く、兄弟姉妹を裁くことの背後にあるのは、自分を神さまの位置に置くという高慢であるのです。ですから、その人の目にはまさしく丸太、大きな罪があるわけであります。それゆえ、イエスさまは、「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」と言われるのです。兄弟姉妹を裁き、「あなたの目からおが屑を取らせてください」という私たちに求められること、それは自分を神さまの位置に置く高慢の罪を取り除くということであります。では、どのようにして、私たちは自分の目から丸太を取り除くことができるのでしょうか?それは、私たちが、イエス・キリストにあって憐れみを受けたことを絶えず思い起こすことによってであります。私たちの目にも兄弟と同じおが屑があること、そのおが屑とも言える罪がイエス・キリストにあって、赦されていることに感謝することであります。そのとき、私たちははっきり見えるようになるのです。そのとき、私たちは自分も神さまによって裁かれる者として、兄弟の目からおが屑を取り除くことができるようになるのです。使徒パウロは、ガラテヤの信徒への手紙第6章1節から4節で次のように記しています。新約の350ページです。

 兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。

自分も同じ罪を犯してしまう罪人であることを自覚する柔和な心で、罪に陥った人が正しい道に立ち帰ることを願うとき、私たちの言葉は人を裁く言葉ではなく、神の憐れみの映し出す言葉となるのです。そのようにして、私たちは、はっきりと見える澄んだ目で、兄弟姉妹の目からおが屑を取り除くことができるのです。主の兄弟ヤコブは、「憐れみは裁きに打ち勝つ」と記しました(ヤコブ2:13参照)。神さまの憐れみによって、私たちの高慢な思いを打ち砕いていただくとき、私たちは互いの目からおが屑を取ることができるようになるのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の11ページです。

3.神聖なものを犬に与えるな

 イエスさまは、6節で次のように言われます。

 神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。

 ここでの「神聖なもの」とは、元々は、いけにえにささげられた動物の肉を指しています。祭司の任職の際にささげられる動物の肉は、「聖なるもの」とされ、祭司だけが食べ、一般の人は食べることができませんでした(レビ22:10参照)。そのような「神聖なもの」を犬に与えてはならないのは当然のことであります。また、ことわざにもなっているように、豚に真珠を投げても、豚には真珠の価値が分かりませんから、無意味なことであります。むしろ、豚は真珠が食べられないので、それを足で踏みにじり、向き直ってかみついてくる、と言うのです。私は、今、このところを文字通りに読み、解説したのですが、しかし、これが譬えであることは明らかであります。では、「神聖なもの」と呼ばれ、「真珠」に譬えられているのは何でしょうか?それは神の国の福音、イエス・キリストの福音であります(13:45、46参照)。そして、イエス・キリストの福音を聞いても受け入れず、それに反対して、迫害する者たちが、ここで「犬」とか「豚」と呼ばれているのです。ここで、イエスさまが教えておられることは、私たちがイエス・キリストの福音を宣べ伝えても、受け入れず、反対し、迫害する者たちがいるということです。イエス・キリストの福音は、聖なるものであり、真珠のように価値のあるものですが、誰もが、その神聖やその価値を認めることができるわけではないのです。福音を受け入れず、反対し、迫害する者たちに、イエス・キリストの福音を与えるならば、それは福音の神聖さを汚すことであり、福音の価値を損なうことになるのです。そうであれば、私たちはどのような人に福音を語っているのかを見分ける力、識別力が求められます。しかし、ここで誤解してはならないのは、私たちは初めから、「この人は犬だ、あの人は豚だ」と決めてかかってはならないということです。もし、そのようにするならば、私たちは、「人を裁く」ことになるのです。私たちは、人を裁いてはならず、すべての人にイエス・キリストの福音を宣べ伝えなくてはなりません。なぜなら、イエス・キリストは、すべての人を救うために、十字架の死を死んでくださったからです。しかし、私たちが覚えておかなければならないことは、すべての人がイエス・キリストの福音は神聖であり、絶大な価値があることを認めるわけではないということです。第10章に、イエスさまが十二人を派遣したことが記されていますが、その際、イエスさまは次のように言われています。第10章11節から15節までをお読みします。

 町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、「平和があるように」と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようとしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の塵を払い落しなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。

 ここには、神の国の福音を宣べ伝える者の毅然とした態度が記されています。私たちは、多くの人に受け入れてもらおうと、福音をこの世的なもの、無価値なものとしてはなりません。神の国の福音を受け入れず、反対し、迫害する者には、足の塵を払い落して、去っていくことが求められているのです(使徒13:45、46参照)。そして、そのようにできるのは、福音を受け入れず、反対し、迫害する者の目を開かれるのは、ただ神さまだけであることを信じているからです。使徒パウロは、その実例であると言えます。ステファノの説教を受け入れず、反対し、迫害したパウロに、栄光の主イエスは現れてくださり、その目を開いてくださいました。そのようにして、パウロは、「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」と語ることができる者とされたのです(一コリント9:23参照)。

結.

 今朝の御言葉は、「人を裁くな」という言葉に始まりましたけれども、私たちは、イエス・キリストの福音を受け入れず、反対し、迫害する者をも裁いてはならないのです。私たちは、キリスト教会の最初の殉教者であるステファノが、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んで、眠りについたことを忘れてはならないと思います(使徒7:60参照)。

関連する説教を探す関連する説教を探す