天に宝を積みなさい 2013年8月18日(日曜 朝の礼拝)

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天に宝を積みなさい

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 6章19節~24節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:19 「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。
6:20 富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。
6:21 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」
6:22 「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、
6:23 濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」
6:24 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」マタイによる福音書 6章19節~24節

原稿のアイコンメッセージ

 先程は、マタイによる福音書の第6章19節から24節までを読んでいただきました。今朝は、19節から21節までを中心にしてお話ししたいと思います。

 イエスさまは、19節で、弟子たちにこう言われています。「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする」。ここで、「富」と訳されている言葉は、24節の「富」とは、違う言葉が用いられています。イエスさまは、24節で、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と言われていますが、この24節の「富」と今朝の19節から21節までの「富」とは、違う言葉が用いられているのです。口語訳聖書、新改訳聖書を見ますと、今朝の御言葉で「富」と訳されている言葉を「宝」と訳しております。それで、今朝の説教題を「天に宝を積みなさい」としたのであります。今朝の御言葉の「富」が24節の「富」とは違う言葉であること、また、今朝の御言葉で「富」と訳されている言葉が、口語訳聖書、新改訳聖書では「宝」と訳されていることを先ず心に留めていただきたいと思います。

 また、新共同訳聖書は訳出していませんが、元の言葉を見ますと、「あなたがたのために」という言葉が記されています。元の言葉を見ますと、「あなたがたは、あなたがたのための宝を地上にたくわえてはならない」と記されているのです。ちなみに、口語訳聖書を見ますと、「あなたがたのために」という言葉が記されています。口語訳聖書には、こう記されています。「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人が押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない」。今朝の御言葉で、イエスさまは、弟子である私たちが、自分のための宝をどこにたくわえるべきかを、教えてくださっているのです。

 イエスさまは、弟子たちに「あなたがたは、自分のために地上に宝をたくわえてはならない」と言われました。なぜなら、「そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする」からです。当時の人々にとって、「宝」とは、高価な衣服や穀物や貴金属などでありました。しかし、それらは虫に食われたり、さび付いたりして、宝として価値を失ってしまう恐れがあるのです。また、当時の家の壁は土でできていたので、盗人は簡単に家に押し入ることができました。盗人によって、宝そのものを奪われてしまう恐れもあったのです。このように、地上に宝をたくわえても、虫やさびによって価値を失ったり、盗人によって奪われてしまう恐れがあったのです。そして、このことは、現代においても基本的には変わりません。つまり、自分のために地上に宝をたくわえてもあてにならないのです。では、私たちは自分のための宝をどこにたくわえればよいのでしょうか?イエスさまは20節で、こう言われます。「富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むこともない」。新共同訳聖書は、訳出していませんが、元の言葉を見ますと、ここにも「あなたがたのための」という言葉が記されています。「あなたがたは、あなたがたのための宝を天にたくわえなさい」と記されているのです。ちなみに、口語訳聖書で、このところを読みますと、「むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい」と記されています。イエスさまが、弟子である私たちに、「自分のための宝を天にたくわえなさい」と言われるのは、「天では、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むこともない」からです。つまり、天にたくわえられた宝は、価値を失ったり、奪われる恐れがないのです。天は、私たちが宝をたくわえるのに、最も安全な場所であるのです。では、どうすれば、私たちは自分のための宝を天にたくわえることができるのでしょうか?そのことについて、イエスさまは何も言われておりません。今朝の御言葉を何度読んでも、どのようにすれば、私たちが自分のための宝を天にたくわえることができるのかは、記されていないのです。しかし、これまでの文脈から考えるならば、そのことは明らかであろうと思います。イエスさまは、第6章1節で、「見てもらおうと、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」と言われました。そして、2節から18節までで、その善行の具体例として、「施し」と「祈り」と「断食」について教えられたのです。今朝の御言葉は、その続きの御言葉でありまして、特に、善行としての「施し」と深く結び付いています。結論から言えば、イエスさまは、弟子である私たちに、貧しい人々に施すことによって、自分のための宝を天にたくわえなさいと言われたのであります。このことは、第19章21節で、イエスさまがはっきりと言われていることでもあります。イエスさまは、第19章21節で、金持ちの青年に対して、こう言われました。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。この金持ちの青年に対する御言葉から今朝の御言葉を読むとき、イエスさまが言われていることがはっきりします。すなわち、イエスさまは、弟子である私たちに、「地上に高価な衣服や穀物や貴金属をたくわえるのではなくて、それらを売り払って、貧しい人々に施すことによって、天に宝をたくわえなさい」と言われているのです。

 「施し」については、以前にもお話ししましたが、今朝はもう一度おさらいしておきたいと思います。聖書において、貧しい人々に施すことは、神さまが御自分の民に命じておられる善い行いであります。申命記第15章11節で、神さまはイスラエルにこう言われています。「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」。また、箴言第19章17節には、こう記されています。「弱者を憐れむ人は主に貸す人。その行いは必ず報いられる」。そもそも、「施し」と訳されている言葉は、元々は「憐れみ」という言葉であります。私たちの「施し」は、天の父の憐れみを表す業であるのです。天の父の憐れみは、その子らである私たちの施しによって表されるのであります。

 天に宝を積むことが、貧しい人々に施すことであり、施しが、天の父の憐れみを表す善行であることを御一緒に確認しましたが、それが「あなたがたのために」と言われていることについて、更に思いを深めたいと思います。イエスさまによれば、貧しい人々に施すことは、私たち自身のための宝を天にたくわえることであります。このことは、イエスさまがルカによる福音書第16章の「不正な管理人のたとえ」で教えられていることでもあります。今朝はこのところを御一緒にお読みしたいと思います。ルカによる福音書第16章1節から9節までをお読みします。新約の140ページです。

 イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」

 この「不正な管理人のたとえ」は、解釈が難しいたとえ話であります。例えば、イエスさまのたとえ話がどこまで続いているのかも研究者によって、意見が分かれます。私は8節前半の「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」までがたとえ話であり、「この世の子らは」以下は、たとえ話を受けてのイエスさまの教えであると理解しております。このたとえ話の要点は、自分の立場を最大限に用いて、自分を家に迎え入れてくれる者を作ろうとした、管理人の抜け目のなさ、思慮深さにあります。主人がほめているのは、管理人の不正ではなく、管理人の抜け目のなさ、思慮深さにあるのです。このたとえ話を受けて、イエスさまは、9節でこう言われました。「不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」。ここでの「不正にまみれた富」とは「この世の富」のことであります。ここで、イエスさまは、弟子たちに、この世の富を用いて、貧しい人々に施しをし、自分たちを永遠の住まいに迎え入れてくれる友達を作るように言われているのです。このイエスさまの御言葉は、貧しい人々が天の国に入れられていることを前提としています。そして、そのことは、イエスさまが平地の説教で教えられたことでもありました。イエスさまは、平地の説教において、「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」と言われました。マタイによる福音書の山上の説教では、「心の貧しい人々は幸いである」と言われていましたが、ルカによる福音書の平地の説教では文字通り「貧しい人々は幸いである」と言われているのです。貧しい人々、今飢えている人々、今泣いている人々こそ、永遠の住まいである天の国の住民なのです。私たちはその人々と友達となり、永遠の住まいに迎え入れてもらうために、地上の富を施すことが求められているのです。

 イエスさまは、「不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」と言われましたが、この御言葉を読むとき、私たちは、イエスさまこそが、私たちを永遠の住まいに迎え入れてくださる友であることを思わずにはおれません。イエスさまは、ヨハネによる福音書第15章15節で弟子たちにこう言われました。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」。そのイエスさまが、第14章2節、3節ではこう言われていたのです。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」。このように、イエスさまこそ、私たちを永遠の住まいに迎え入れてくださる、私たちの友であるのです。そのイエスさまの友として、私たちがイエスさまの命じることを行うとき、私たちは貧しい人々の友ともなることができるのです。私たちを「天の住まいに迎え入れてくれる友」とは、イエスさまであり、また、貧しい人々であるのです(マタイ25:31~46参照)。そのことを覚えて、私たちは、自分のための宝を天に積むことが求められているのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の10ページです。

 イエスさまは、21節でこう言われます。「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」。ここに、イエスさまが、天に宝を積みなさいと言われる積極的な理由があります。つまり、イエスさまが弟子である私たちに、天に宝を積みなさいと言われるのは、私たちの心を天へと向けさせるためであるのです。もし、私たちが、この世の人々と同じように、地上に宝をたくわえるならば、私たちの心は地上へと向けられます。しかし、私たちが天に宝をたくわえるならば、私たちの心は天へと向けられるのです。そして、これこそ、「天の父のもとでいただく報い」を期待する私たちにふさわしいことであるのです。「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのだ」。このイエスさまの御言葉から教えられますことは、「お金の使い方で、その人の心がどこにあるのかが分かる」ということです。私たちはキリストの弟子でありますが、この世の人々と同じように、地上に宝を積みがちであります。それは地上の宝によって、この世の生活を確保したいと考えるからです。しかし、この世を越えた天の住まいがあることを信じる私たちは、天にこそ宝をたくわえなくてはならないのです。イエスさまから「友」と呼ばれている者として、イエスさまの御心に従い、貧しい人々に施すことによって、永遠の住まいに迎え入れてくれる友達を作るべきであるのです。

 今朝は最後に、21節のイエスさまの御言葉が、二人称単数形で記されていることに着目して終わりたいと思います。イエスさまは、「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」と二人称単数形で言われました。このことは、貧しい人々への施しが、私たち一人一人の自由な意志に基づく、神の御前になされる憐れみの業であることを表しています。私たちは、他人を見て、「あの人は、宝を天にたくわえているのかしら」と詮索する必要はありません。イエスさまが、「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」と言われたように、ここで問われているのは、「あなたの宝とあなたの心のありか」であるのです。今朝の御言葉で、イエスさまは、私たち一人一人に、「あなたの心は天に向けられているか」と問われるのです。そして、もし、あなたの心が天に向けられていないならば、「あなたの宝を天に積みなさい」と言われるのであります。

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