罪をお赦しください 2013年7月21日(日曜 朝の礼拝)

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罪をお赦しください

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 6章5節~15節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:5 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6:6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
6:7 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。
6:8 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。
6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。
6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
6:12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。
6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』
6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
6:15 しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」マタイによる福音書 6章5節~15節

原稿のアイコンメッセージ

 マタイによる福音書第6章9節から13節までには、主イエスが弟子たちに教えられた主の祈りが記されております。主の祈りは全部で六つの祈願から成り立っていますが、初めの三つは「あなたのための祈り」「天におられるわたしたちの父のための祈り」であり、後の三つは「わたしたちのための祈り」と呼ぶことができます。今朝は、第五の祈願、「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」について御一緒に学びたいと願います。

 「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」。ここでの「負い目」は「罪」を指しています。ルカによる福音書第11章に記されている「主の祈り」を見ますと、こう記されています。「わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」。このように、ルカ福音書の「主の祈り」では、「罪」と「負い目」が置き換え可能な同義語として用いられていることが分かります。新約聖書の原典は、ギリシャ語で記されておりますが、イエス様はアラム語をお話しになりました。そのアラム語では、「負い目」は、罪をも意味していたのです。それゆえ、言葉としては、ルカ福音書よりも、マタイ福音書の第五の祈願の方が古いのではないかと考えられているのであります。ともかく、負い目は、当然支払われるべきものが支払われていない状態を指しており、それは当然なされるべきことがなされていない罪をも表すのであります。

 「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」。この第五の祈願だけを読むならば、神さまの赦しに、私たちの赦しが先立つように思えます。しかし、主の祈り全体から読むならば、私たちの赦しに、神さまの赦しが先立っていることは明らかであります。なぜなら、イエスさまは、弟子である私たちに、神さまを、「天におられるわたしたちの父よ」と祈るように言われているからです。「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかける祈りの中で、私たちは「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と祈っているのです。私たちが、神さまを「天におられるわたしたちの父よ」と呼ぶことができるのは、イエス・キリストにあって、罪の赦しにすでにあずかっているからであるのです。神さまを「天におられるわたしたちの父よ」と呼び、祈ることができる。そのこと自体が、私たちがイエス・キリストにあって罪赦されていることの証拠であるのです。なぜなら、祈りは神さまとの親しい交わりであるからです。イエス・キリストの弟子である私たちにとって、祈りは、御父との親しい交わりなのであります。御父に祈ることができる、もっと言えば、御父を礼拝することができるのは、罪赦されていることのしるしである。このことは、罪が神さまとの離別をもたらしたことを考える時、よくお分かりいただけると思います。はじめの人類であるアダムとエバは、エデンの園において罪を犯したことによって、神さまとの親しい交わりを失いました。罪を犯したアダムとエバは、神さまから身を隠し、神さまを恐れるようになりました。そして、神さまは御自分の御言葉に背いて罪を犯したアダムとエバをエデンの園から追放されたのです。このように人は罪を犯したことによって、神様との交わりは失ってしまったのです。人間の罪が神さまとの交わりを阻んでいることをはっきりと教えているのは、イザヤ書第59章の御言葉であります。1節から4節までをお読みします。旧約の1158ページです。

 主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が/神とお前たちとの間を隔て/お前たちの罪が神の御顔を隠させ/お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。お前たちの手は血で、指は悪によって汚れ/唇は偽りを語り、舌は悪事をつぶやく。正しい訴えをする者はなく/真実をもって弁護する者もない。むなしいことを頼みとし、偽って語り/労苦をはらみ、災いを産む。

 なぜ、人間の罪が神さまとの交わりを阻むのでしょうか?それは、神さまが罪に怒りを燃やされる聖なる御方、義なるお方であるからです。アダムにあって堕落し、罪をもって生まれてくる人間が、神さまの御前に出ることは本来耐えられないこと、滅びを意味することであったのです。このことをはっきりと教えているのは、同じイザヤ書の第6章に記されている「イザヤの召命」の出来事であります。1節から8節までをお読みします。旧約の1069ページです。

 ウジヤ王の死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の中に住む者。しかも、わたしの目は/王なる万軍の主を仰ぎ見た。」するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」

 このように、神さまを見たイザヤを捕らわれたのは、滅ぼされるという恐れでありました。それは、イザヤが汚れた唇の者、罪ある者であったからです。しかし、神さまは炭火によってイザヤの咎を取り去り、罪を赦してくださいました。そして、御自分に代わる預言者として、イザヤを遣わされるのです。イザヤを預言者として遣わすためには、まず、彼の咎を取り除き、罪を赦す必要があったのです。

 人間の罪が神さまとの交わりを阻んでおり、その交わりを回復するためには、神さまに人間の罪を赦していただかねばなりません。そのため、神さまは御自分の民イスラエルに祭司制度と献げ物の諸規定をお与えになったのです。レビ記の第4章は、「贖罪の献げ物」について記していますが、その27節から31節までをお読みします。旧約の167ページです。

 一般の人のだれかが過って罪を犯し、禁じられている主の戒めを一つでも破って責めを負い、犯した罪に気づいたときは、献げ物として無傷の雌山羊を引いて行き、献げ物の頭に手を置き、焼き尽くす献げ物を屠る場所で贖罪の献げ物を屠る。祭司はその血を指につけて、焼き尽くす献げ物の祭壇の四隅の角に塗り、残りの血は全部、祭壇の基に流す。奉納者は和解の献げ物から脂肪を切り取ったように、雌山羊の脂肪をすべて切り取る。祭司は主を宥める香りとしてそれを祭壇で燃やして煙にする。祭司がこうして彼のために罪を贖う儀式を行うと、彼の罪は赦される。

 このように、神さまは、祭司がささげる動物犠牲によって、罪の赦しを与え、イスラエルの民と共に歩まれたのでありました。祭儀制度は、神さまがイスラエルの民と共に歩むために、必要な制度であったのです。そして、この祭儀制度は、来るべき御方、イエス・キリストを指し示すものでありました。ヘブライ人への手紙をよれば、イエス・キリストこそ永遠の大祭司であり、永遠の贖いを成し遂げられたいけにえであるです。ヘブライ人への手紙第9章11節、12節にこう記されています。新約の411ページです。

けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。

私たちは、レビ記の記述にしたがって、贖いの献げ物をささげることはいたしません。それは、ヘブライ人への手紙が記しておりますように、イエス・キリストが十字架において永遠の贖いを成し遂げてくださったと信じているからです。洗礼者ヨハネが言いましたように、イエス・キリストこそ、「世の罪を取り除く神の子羊」であられるのです。それゆえ、聖書は、イエス・キリストを信じるならば、すべての罪が赦されると教えているのです。イエス・キリストにあって、神さまとの親しい交わりに生きる道が開かれたのです。そして、それは神さまを「天におられるわたしたちの父よ」と呼ぶことのできるほどに親しい交わりであるのです。その親しい交わりの中で、私たちは、「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と祈るように言われているのです。しかし、そうであれば、私たちは「わたしたちに負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と祈る必要はないのではないか?と思われるかも知れません。イエス・キリストの十字架の贖いのゆえに、すべての罪が赦されているならば、私たちは、毎日、「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」と祈る必要はないのではないか?と思われるかも知れません。しかし、そうではないのです。なぜなら、私たちは日々、神さまの御前に罪を犯しているからであります。私たちは日々、神さまに対して負い目を増し加えている者たちであるからです。そのような私たちが神さまとの親しい交わりに日々生きるために、私たちは自分の罪を言い表し、神さまの赦しを願い求めなければならないのです。そのようにして、私たちは、イエス・キリストの永遠の贖いにあずかるのです。

 神さまは、独り子を世にお遣わしになることによって、さらには、十字架に上げられることによって、罪の赦しの道を、御自分との和解の道を開いてくださいました。ヨハネの手紙一に記されているように、イエス・キリストは、ここにいる私たちだけではなくて、「全世界の罪を償ういけにえ」であるのです。しかし、どうでしょうか?イエス・キリストを信じて、罪の赦しにあずかろうとする人の何と少ないことでしょうか?いや、人の事ばかり言ってはいられません。私たちは、毎日主の祈りを祈り、「わたしたちの負い目をお赦しください、わたしたちも自分に負い目のある者を赦しましたように」と祈ることによって、毎日、イエス・キリストにある罪の赦しにあずかっているだろうか?と反省させられるのであります。

 先程、わたしは、主の祈りの後半の第四の祈願から第六の祈願までは、「わたしたちのための祈り」であると申しましたが、元の言葉を見ますと、この三つの祈願は、「そして」という接続詞でつながれております。そのことに着目しまして、ある説教者は、「私たちが生きて行くために毎日必要なもの、それは日ごとの糧と罪の赦しである」と言っておりました。私たちが生きて行くために必要なもの、それは日ごとの糧と罪の赦しである。この言葉はあまりピンとこないかも知れません。私たちが生きて行くために、日ごとの糧が必要なのはよく分かります。誰もご飯を食べずに生きることはできないからです。では、罪の赦しについてはどうでしょうか?毎日を生きて行くために、罪の赦しは本当に必要でしょうか?このように考えてしまうのは、日本において、イエス・キリストを信じていなくても生きている人がたくさんいるからであります。しかし、毎日の生活が神さまと共にある生活であったらどうでしょうか?毎日を神さまと共に生きてくためには、どうしてもイエス・キリストにある罪の赦しが必要なのであります。そして、神さまと共に生きるところにこそ、本当の命があるのです。神さまが共にいない人生は、どんなに人の目に華やかで、幸せそうに見えても、神さまの御目からすれば失われている人生であり、もっと言えば死んでいるのと同然であるのです。ですから、私たちが神さまによって造られた者として、神さまが願っておられる人生を生きるためには、日ごとの糧と共に、罪の赦しがどうしても必要であるのです。

 よく「西洋は罪の文化であり、日本は恥の文化である」と言われたりいたします。この言葉は、日本人が罪を神さまとの関係において捉えていないことをよく言い表していると思います。わたしも教会に行くまで、罪というものが分かりませんでした。正直に申しますと、今でもよく分からないところがあります。そのようなとき、私たちは、イエス・キリストの十字架に思いを向ければよいのではないかと思います。神さまは、私たちの罪を赦すために、御子イエス・キリストを十字架の死へと引き渡されました。私たちの罪はそれほどの神の怒りと呪いに値するものであるのです。私たちは、「神さまなのだから、何も言わずに罪を赦してくれてもいいじゃないか」と罪を軽く考えてしまいがちでありますが、それは罪を犯した者の言い分です。罪を犯された側、被害者である神さまが罪をお赦しになるには、罪のないイエス・キリストにすべての罪を担わせ、罰する必要があったのです。そのようにしてしか、神さまの正しさと愛は貫かれることができなかったのです。私たちの罪を贖うために、十字架についてくださり、復活してくださったイエスさまが、「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人をゆるしましたように」祈りなさいと言われます。そのようにして、イエス様は、私たちを生きる者としてくださるのです。

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