日ごとの糧を与えてください 2013年7月14日(日曜 朝の礼拝)

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日ごとの糧を与えてください

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 6章5節~15節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:5 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6:6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
6:7 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。
6:8 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。
6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。
6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
6:12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。
6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』
6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
6:15 しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」マタイによる福音書 6章5節~15節

原稿のアイコンメッセージ

 マタイによる福音書第6章9節から13節までには、イエスさまが弟子たちに教えられた、いわゆる主の祈りが記されております。主の祈りは、全部で六つの祈願から成り立っています。今朝は、11節に記されている四つ目の祈願、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」について御一緒に学びたいと思います。この第四の祈願はこれまでの祈願とはいささか趣が異なっています。第一の祈願から第三の祈願までは、「あなたのための祈り」「天におられる私たちの父のための祈り」でありました。しかし、第四の祈願から第六の祈願までは、「わたしたちのための祈り」であるのです。第一の祈願の「御名」とは「あなたの名」であり、第二の祈願の「御国」とは「あなたの国」であり、第三の祈願の「御心」とは「あなたの心」でありました。イエスさまは、主の祈りにおいて、私たちが先ず「天におられる私たちの父のために祈る」ことを教えてくださったのです。このことは、まことにありがたいことだと思います。なぜなら、私たちはどのようなことを祈ったらよいのか、分からない者たちであるからです。もし、イエスさまが主の祈りを教えてくださらなければ、私たちが天の父のためにお祈りすることはなかったのではないでしょうか?すぐに、自分たちのために、あるいは、自分のために祈り出したのではないでしょうか?しかし、主イエスが主の祈りを与えてくださいましたから、私たちは、天の父の神様のために祈ることができるのです。天におられる私たちの父のために、何を祈ったらよいのか?イエスさまは、三つことを願い求めるよう教えてくださいました。「御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地のうえにも」。私たちは、この三つの祈願を祈ることによって、天におられる私たちの父のために正しく祈ることができるのです。また、私たちはこの祈りを実行することによって、イエスさまに似た者へと変えられていくのであります。なぜなら、主の祈りは、主イエスが弟子たちに教えられた祈りであると同時に、主イエスが祈られた祈りでもあるからです。イエスさま御自身が、「御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と祈られて、この地上の生涯を歩まれたのです。ルカによる福音書の第11章にありますように、イエスさまは、「祈ることを教えてください」と願い求める弟子たちに、御自分の祈りの言葉を教えてくださったのです。

 では、今朝の第四の祈願、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という祈りもイエスさま御自身の祈りと言えるのでしょうか?わたしは「もちろん、言える」と思います。イエスさまは、聖霊によっておとめマリアからお生まれになりました。イエスさまは、罪を他にして私たちと同じ人となられたのです。イエスさまも空腹を覚えられたのです。イエスさまも日ごとの糧を必要とされたのであります。ですから、イエスさまも「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と御父に祈られたはずです。そして、イエスさまが、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈られたとき、その「わたしたち」には、御自分の弟子たちが含まれていたはずであります。先程、わたしは、イエスさまは主の祈りを祈りつつこの地上の生涯を歩まれたと言いました。では、天に上げられ、父なる神の右に座しておられるイエスさまはどうでしょうか?父なる神の右に座しておられるイエスさまは、今はもう、主の祈りを祈っておられないのでしょうか?わたしは、祈っておられると思います。天におられるイエスさまは、今も主の祈りを祈っておられるはずです。このように聞きますと、そのように言える根拠は何ですか?と質問されそうですが、もちろん、根拠はあります。それは、私たちが主の祈りを祈っていることです。私たちはイエス・キリストの聖霊を与えられて、天の神を「アッバ、父よ」と呼び、「あなたの名が聖なるものとされますように」と祈っているのですが、そのように私たちが祈ることができるのは、今も、イエスさまが神さまを「アッバ、父よ」と呼び、「あなたの名が聖なるものとされますように」と祈っておられるからです。私たちが、主の祈りを祈っていること、そのことが、神の右に座しておられるイエスさまが、今も主の祈りを祈り続けてくださっていることの根拠であるのです。私たちは、主の祈りを祈ることによって、地上を歩まれた、二千年前のイエスさまの祈りを共有しているだけではありません。私たちは、主の祈りを祈ることによって、今、天におられるイエスさまの祈りを共有しているのです。私たちは主の祈りを祈ることによって、今、生きておられ、父なる神の右に座しておられるイエスさまと祈りにおいて一つとなることができるのです。

 イエスさまは、弟子である私たちに「わたしたちのための祈り」として、三つのことを祈り求めるように教えてくださいました。これもありがたいことであります。なぜなら、私たちは自分たちのためにも何を願えばよいか分からない者であるからです。イエス様は、「わたしたちのための祈り」の最初の願いとして、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈るよう教えてくださいました。「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」。私たちが天の父に、自分たちのために先ず祈らなければならないこと。それは今日の必要な糧、日ごとの糧であるのです。私たちは、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と真剣に祈っているでしょうか?このことを先ず自分自身に問うていただきたいと思います。わたしがこのように言いますのは、食べ物が豊かにある現代の日本において、この祈りを真剣に祈るのは難しいのではないかと思うからです。私たちキリスト者の良い習慣の一つに、食前の感謝の祈りがあります。食卓に並べられているご飯を前にして、神さまがご飯を与えてくださった恵みを感謝するのです。この食前の感謝の祈りは、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という祈りがきかれたことの感謝の祈りでもあります。たとえ、私たちが毎日主の祈りを祈らなくても、願う前から、私たちに必要なものを御存じの御父は、日ごとの糧を与えてくださるのです。わたしは、食べ物が豊かな現代の日本において、この祈りを真剣に祈ることは難しいのではないか、と言いましたが、それでは、この祈りは食べ物がなかなか手に入らなくなったときに真剣に祈ればよいのかと言えば、そうではないと思います。むしろ、私たちは、食べ物が豊かにあるからこそ、この祈りの意味を真剣に問い、祈らねばならないと思うのです。「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という祈りは、言い換えれば、「わたしたちに必要な糧を今日与えてくださるのは、天におられるわたしたちの父です」ということであります。これは一つの信仰の告白でもあります。私たちに必要な糧を今日与えてくださるのは、イエス・キリストにあって私たちの父となってくださった神さまである。それゆえ、私たちは、この御方に、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈るのです。そして、食卓に並べられているご飯を前にして、「天の父なる神さま、ご飯をありがとうございます」と祈り、感謝をささげるのです。そのようにして、私たちを生かしているのは、ご飯そのものでも、また、ご飯を手に入れた自分の力でもないことを、私たちは告白するのです。

 「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」。この祈りの背景には、出エジプト記の第16章に記されている「マナ」の記事があります。神さまは、イスラエルの民を、荒れ野において、天からのパン、マナによって養われました。イスラエルの民が40年間も荒れ野を放浪することができたのは、神さまが日ごとの糧として、天からのパン、マナを与えてくださったからであるのです。このことによって、イスラエルは体験として、日ごとの糧を与えてくださるのは、神さまであられることを知ったのでありました。このマナは、イスラエルの民がカナンの地に入国するまでの40年間続いたのでありますが、それでは、カナンの地に入ってからは、神さまはイスラエルの民を養ってくださらなかったのでしょうか?もちろん、そうではありません。モーセは、カナン入国に先立って、次のように言っています。旧約聖書の申命記第8章11節から20節までをお読みいたします。旧約の294ページです。

 わたしが今日命じる戒めと法と掟を守らず、あなたの神、主を忘れることのないように、注意しなさい。あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった。あなたは、「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い出しなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである。

 もしあなたが、あなたの神、主を忘れて他の神々に従い、それに仕えて、ひれ伏すようなことがあれば、わたしは、今日、主があなたたちの前から滅ぼされた国々と同じように、あなたたちも、あなたたちの神、主の御声に聞き従わないゆえに、滅び去る。

 ここに記されているのは、カナン入国に先立ってモーセが語った警告の言葉であります。イスラエルの民は、荒れ野において、毎日、マナを与えられることによって、主なる神こそが、自分たちを生かす御方であることを身をもって知りました。しかし、乳と蜜の流れる土地カナンに入り、食べて満足し、立派な家を建てて住み、財産が豊かになると、自分の力と手の働きによって、この富を築いたと考えるようになる。今日の必要な糧を与えてくださるのは神さまであることを忘れてしまう。そのようにして、他の神々、偽りの神々に仕えるようになると言うのであります。このモーセの警告は、私たちにもそのまま当てはまるのではないでしょうか?私たちは、自分の力と手の働きによって、毎日の糧を得ていると考えがちであるからです。そして、それはある意味、真実であるのです。神さまは、私たちの労働を祝福して日ごとの糧を与えてくださるからであります。しかし、そこで忘れてはならないことは、その仕事を与え、その働きをする力を与えてくださるのは神さまであるということです。17節、18節に、「あなたは、『自分の力と手の働きで、この富を築いた』などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であ」ると記されているとおりです。モーセは、「あなたの神、主を忘れて、他の神々に従い、それに仕え、ひれ伏さないように」と警告しましたが、私たちも、毎日の必要な糧を与えてくださる御父を忘れる時、他の神々に仕える者となってしまうのです。そして、その他の神々とは、糧そのもの・富であり、また、自分自身であります。私たちを生かすのは、糧そのもの・富であると考える時、私たちは糧そのもの・富に仕える者となるのです。また、私たちを生かすのは、自分の力と手の働きだと考える時、私たちは自分自身に仕える者となるのです。そのような過ちを犯さないために、イエスさまは、私たちに、主の祈りを与えてくださったのです。「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と毎日祈ることによって、私たちは、「私たちを、今日も生かしてくださるのは、御父である」と告白するのです。

 先程、わたしは、父なる神の右に座しておられるイエスさまは、今も、主の祈りを祈っておられると言いました。そうであれば、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」の「わたしたち」は、キリストの弟子である私たちに限定されないのではないでしょうか?なぜなら、イエス・キリストにある「わたしたち」は、すべての人に開かれている「わたしたち」であるからです。イエス・キリストにあって誰もがこの「わたしたち」に加わることができるのです。このことは、私たちが、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈るときに、その「わたしたち」とは誰のことを考えているのか?という問いと深く結びついています。「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈るときに、その「わたしたち」とは誰のことでありましょうか?先ず言えることは、主の祈りを一緒に祈っている羽生栄光教会の兄弟姉妹のことでありましょう。さらに言えば、日本キリスト改革派教会の兄弟姉妹であり、日本の主にある兄弟姉妹であり、世界の主にある兄弟姉妹と言えるかも知れません。しかし、私たちが忘れてはならないのは、世界には、今も飢えによって多くの人々が命を失っているという現実であります。イエス・キリストの精神に基づいて活動するNGOに、日本国際飢餓対策機構という団体があります。そのニュースレターによれば、「1分間に17人(内12人が子ども)、1日に2万5000人、一年間では約1000万人が飢えのために命を失ってい」るとのことです。私たちが生きている世界は、そのような世界であるのです。そして、そのような世界の中で、イエス様は、私たちに「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈るようにと言われるのです。多くの人々が今日の必要な糧を食べることができずに命を失っていく現実を覚えて、主の祈りを祈るとき、私たちは与えられているものに感謝するだけではなく、与えられているものを分かち合うようにと促されるのではないでしょうか?「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という祈りは、私たちを受ける者から与える者へと変えてくださる祈りでもあります。そのようにして、私たちは御父の御心を行い、イエスさまに似た者となるのです。私たちは、「わたしたちに必要な糧を今日与えください」と祈られたイエスさまが、五つのパンと二匹の魚で、5000人もの人々を養われたことを忘れてはならないと思います。

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