御国が来ますように 2013年7月07日(日曜 朝の礼拝)

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御国が来ますように

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 6章5節~15節

聖句のアイコン聖書の言葉

6:5 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6:6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
6:7 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。
6:8 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。
6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。
6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
6:12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。
6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』
6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
6:15 しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」マタイによる福音書 6章5節~15節

原稿のアイコンメッセージ

序.

 イエス様が弟子たちに教えられた主の祈りを学んでおります。今朝は、第二の祈願と第三の祈願を合わせて、御一緒に学びたいと思います。

1.あなたの王国、王的支配

 主の祈りの第二の祈願は、「御国が来ますように」であります。私たちが用いている新共同訳聖書は「御国」と訳していますが、元の言葉を直訳すると「あなたの王国」、「あなたの王的支配」となります。イエス様は、「天におられる私たちの父の王国、王的支配が来ますように」祈りなさいと教えられたのです。イスラエルの神が世界と歴史を統治しておられる王であることは、イスラエルの民が信じるところでありました。しかし、その神様の王国、王的支配が見えない現実があったのです。旧約聖書のイザヤ書の63章15節から19節には次のように記されています。

 どうか、天から見下ろし/輝かしく聖なる宮から御覧ください。どこにあるのですか/あなたの熱情と力強い御業は。あなたのたぎる思いと憐れみは/抑えられていて、わたしに示されません。あなたはわたしたちの父です。アブラハムがわたしたちを見ず知らず/イスラエルがわたしたちを認めなくても/主よ、あなたはわたしたちの父です。「わたしたちの贖い主」これは永遠の昔からあなたの御名です。なにゆえ主よ、あなたはわたしたちを/あなたの道から迷い出させ/わたしたちの心をかたくなにして/あなたを畏れないようにされるのですか。立ち返ってください、あなたの僕たちのために/あなたの嗣業である部族のために。あなたの聖なる民が/継ぐべき土地を持ったのはわずかの間です。間もなく敵はあなたの聖所を踏みにじりました。あなたの統治を受けられなくなってから/あなたの御名で呼ばれない者となってから/わたしたちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降ってきてください。御前に山々が揺れ動くように。

 紀元前586年エルサレムはバビロン帝国によって滅ぼされました。そのような中にあって、イザヤは神様の王的支配が見えないと嘆くのです。神様が世界と歴史を王として統治しておられるにもかかわらず、その神様の統治にあずかることができない。神様の王的支配を現実のこととして実感できないのです。そして、このことは、紀元1世紀のイエス様の時代にも言えることであったのです。イエス様の時代、イスラエルはローマ帝国の属州となっておりました。神の民であるイスラエルがまことの神を知らない異邦人の支配の下に置かれていたのです。ですから、イエス様の時代のイスラエルの人々も、神様の王国、神様の王的支配の到来を待ち望んでいたのです。そのようなとき、イエス様は、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められたのです。

2.神の国の現在性と未来性

 マタイによる福音書4章17節に、「そのときから、イエスは『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた」と記されておりましたが、「天の国」は「天の王国、天の王的支配」のことであり、「神の王国、神の王的支配」を指しています。また、「近づいた」とは「もうそこまで来ている」という意味であり、到来を告げる言葉です。つまり、イエス様は、御自分において神の王的支配が到来したことを宣べ伝え始められたのです。このイエス様の御言葉には、「わたしは油注がれた者、メシアである」との自己主張も含まれています。なぜなら、神の国は、神によって油を注がれた王、メシアによってもたらされると信じられていたからであります。そして、イエス様は神の国をもたらすメシアとして、ガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民衆のありとあらゆる病気を癒されたのです。ですから、神の国は、イエス・キリストにおいて既に来ていると言えるのです。イエス様はそのことを12章28節ではっきりと言われています。「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。イエス様がなされた様々な奇跡、病の癒しや悪霊の追放は、イエス様において、神の王的御支配がすでに来ていることのしるしであるのです。神の国は、イエス・キリストにおいてすでに到来しているのです。

 では、なぜ、イエス様は、「御国が来ますように」祈りなさいと教えられたのでしょうか?それはイエス様において到来した神の国はいまだ完成していないからです。イエス様は、神の国が御自分において到来したと言われましたが、同時に、神の国がこれから来ることをも教えられました。16章で、イエス様は御自分の死と復活について予告されましたが、その27節、28節で次のように言われました。「人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる」。ここで、イエス様は御自分の再臨について語っておられます。イエス様が栄光に輝いて再び来られるとき、神の国も共に来るのです。このようにイエス・キリストにおいて到来した神の国は、イエス・キリストの再臨によって完成されるのです(マタイ26:64も参照)。

3.神の国の樹立

 イエス・キリストの公生涯の開始と共に神の国は到来し、イエス・キリストの再臨によって神の国は完成されるのでありますが、では、神の国はこの地上でどのようにして樹立されたのでしょうか?到来したものが完成されるには、樹立されることが必要でありますが、イエス様はどのようにして、神の国を樹立されたのか?それは、イエス様が御父の御心に従って十字架につけられることによってでありました。イエス様は、御父の御心に従って十字架につけられることにより、神の国を樹立されたのです。このことは、主の祈りの第二の祈願と第三の祈願を結びつけて読むとき、よく分かると思います。第二の祈願は、「御国が来ますように」であります。そして、第三の祈願は、「御心が行われますように。天におけるように、地のうえにも」であります。御国とはどのようなところか?それは御心が行われるところであります。ですから、第三の祈願は、第二の祈願を敷衍したもの、展開したものと言えるのです。「あなたの王国がきますように」と祈る者は、当然、「あなたの御意志がなりますように」と祈る者であるのです。今、自分が御父の王的支配に生きているかどうか、それは御父の御意志に従っているかどうかによって示されるのです。ですから、御父の御意志に完全に従うことができる人がいるならば、その人こそが、御父の王的支配にこの地上に樹立することができる人であるのです。そして、その人こそイエス様であるわけです。イエス様は天で行われている御心を地のうえでも成し遂げてくださったお方であるのです(イザヤ53:10参照)。イエス様は、全人類の罪の裁きとしての十字架の死を、神様の御心として受け入れられ、十字架の死を死なれました。イエス様は、ゲツセマネの園で、「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」と三度祈り、御父の御心を御自分の心とされて十字架におつきになったのです。そのようにして、神の王国、神の王的支配をこの地上に樹立されたのです。そして、神様はそのイエス様を、死から三日目に復活させられ、天へと上げられ、御自分の右の座に着かせられました。そのようにして、天においても、地においても、イエス・キリストの王権は樹立されたのです。28章で、復活されたイエス様は、「わたしは天と地の一切の権能を委ねられている」と言われていますが、これは御父の右に座するお方としての御言葉であります。イエス様は、弟子たちに「御国が来ますように。御心が行われますように。天におけるように、地のうえにも」と祈るように教えられましたけれども、何より、イエス様ご自身がこのように祈り求め、この地上を歩まれたのです。御自分によって到来した御父の王的支配を樹立するために、イエス様は死に至るまで、それも十字架の死に至るまで御父の御心に従われたのでありました。そして、御父はそのようなイエス様を復活させられ、御自分の右の座に上げられたのです。そのようにして、御父は、イエス・キリストに天と地の一切の権能を委ねられたのです。ですから、御父の王国と、イエス・キリストの王国は一体的な関係にあります。ヨハネの黙示録に記されておりますように、新しいエルサレムには、全能者である神と子羊であるイエス・キリストがおられるのです(黙示21:22参照)。

結.御国が来ますようにという祈りで、私たちは何を祈っているのか?

 イエス様は、「わたしたちの天の父の王国、王的支配が来ますように」祈りなさいと弟子である私たちに教えてくださいました。そして、私たちは礼拝において、「御国を来たらせたまえ」と祈っているわけです。しかし、そのとき、私たちは一体何を祈り求めているのでしょうか?イエス様が、祈り求めるように言われているのは、「あなたの王国、あなたの王的支配」であります。そうであれば、この祈りもイエス・キリストにあっての祈りであることが分かります。なぜなら、私たちは、ただイエス・キリストにあって天の神を「アッバ、父よ」と呼ぶことができるものとされているからです。「御父の王国がきますように」と祈ることができる。そのこと自体が、すでにイエス・キリストの救いにあずかっていることを証ししているのです。そして、私たちは御父の王的支配が、恵みの御支配であり、愛の御支配であることを知っているのであります(マタイ9:13、ヨハネ13:34参照)。その御父の恵みの御支配、愛の御支配は、今既に私たちの間に来ており、イエス・キリストの再臨によって完成されるのです。使徒パウロは、ローマ書の14章17節で、「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」と記しておりますが、その中心的な現れこそ、キリストの教会であるのです。イエス・キリストによって到来し、樹立された御父の国は、御言葉と聖霊による御支配であります。ですから、そこには信仰が求められるわけです(ルカ17:20参照)。私たちは、そのような御父の御支配に生かされている者として、御父の御意志を行うことができるよう祈り求めているのです。では、御父の意志とは何でしょうか?イエス様は18章14節でこう言われています。「小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」。御父の御心は、小さな者が一人でも滅びないこと、すなわち、イエス・キリストにあって救われることであります。救われるとは、イエス・キリストを信じて、御父の王的支配を受け入れるということです。このように、「御国を来たらせたまえ、御心の天になるごとく地にもなさせたまえ」という主の祈りは、私たちの福音宣教の根本にある祈りであるのです。また、「御国を来たらせたまえ」という祈りは、イエス様の再臨を祈り求める祈りでもあります。なぜなら、イエス・キリストの再臨によって完成された神の国は到来するからです。しかし、その時や時期は、御父が御自分の権威をもって定めておられ、私たちには知ることが許されておりません(使徒1:7参照)。では、私たちは何もせずに、ただ待っていればよいのでしょうか?そうではありません。私たちはイエス・キリストにおいて到来し、十字架と復活によって樹立された御父の御支配を、御心を行うことによって、この地上で証しし、すべての人が、イエス・キリストを信じて、今、ここで、御父の恵みの支配に入っていただくよう福音を宣べ伝えていくのです(マタイ24:14参照)。そのようにして、私たちはイエス・キリストの再臨によって到来する御父の王国を待ち望んでいるのです(二ペトロ3:1~13参照)。

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