なぜ誓いを立てるのか 2013年5月05日(日曜 朝の礼拝)

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なぜ誓いを立てるのか

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 5章33節~37節

聖句のアイコン聖書の言葉

5:33 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。
5:34 しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。
5:35 地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。
5:36 また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。
5:37 あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」マタイによる福音書 5章33節~37節

原稿のアイコンメッセージ

 イエス様は、5章20節で、「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と言われました。律法の完成者であるイエス・キリストは、弟子である私たちに、律法学者やファリサイ派の人々にまさる義をお求めになるのです。そして、イエス様は、律法学者やファリサイ派の人々にまさる義について、「あなたがたも聞いているとおり、何々と命じられている。しかし、わたしは言っておく。何々」という反対命題によって教えられるのです。

 イエス様は今朝の33節、34節前半で次のように言われます。「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない」。律法学者やファリサイ派の人々は、「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」と命じておりました。これは神の律法に基づいてのことであります。「偽りの誓いを立てるな」は、レビ記19章12節の「わたしの名を用いて偽り誓ってはならない。それによってあなたの神の名を汚してはならない」を要約したものと考えられています。また、「主に対して誓ったことは、必ず果たせ」は、申命記23章22節の「あなたの神、主に誓願を立てる場合は、遅らせることなく、それを果たしなさい」の要約であると考えられています。このように、神の律法に基づいて、律法学者やファリサイ派の人々は、「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」と命じていたのです。けれども、イエス様はこう言われるのです。「しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない」。イエス様は、偽りの誓いばかりでなく、一切誓ってはならないと言われるのです。

 イエス様は、「一切誓いを立ててはならない」と言われたのに続けて、「天にかけて誓ってはならない」「地にかけて誓ってはならない」「エルサレムにかけて誓ってはならない」「あなたの頭にかけて誓ってはならない」と言われましたが、これらはイエス様が禁じられた「一切の誓い」の具体例であります。そして、これらのことを律法学者やファリサイ派の人々は、教えていたのです。つまり、彼らは、「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」と教えながら、その抜け道をも教えていたのです。つまり、彼らは、「天に対する誓いは果たさなくてもよい」と教えていたのです。このあたりの事情は、23章16節以下に詳しく記されています。マタイによる福音書23章16節から22節までをお読みします。新約聖書45ページです。

 ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。あなたたちは、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』という。愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。また、『祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない』という。ものの見えない者たち、供え物と、供え物を清くする祭壇と、どちらが尊いか。祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのだ。天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。

 このところを一つ一つ見ていくことはしませんが、このイエス様の御言葉から分かることは、律法学者やファリサイ派の人々が、誓う対象によって、果たさねばならない誓いか、果たさなくてもよい誓いかに分類していたということであります。今朝の御言葉で言えば、主にかけて誓ったことは必ず果たさねばなりませんが、天にかけて誓ったことは果たさなくてもよいのです。つまり、天を指して誓った誓いは無効、効力が無いのです。

 今朝の御言葉に戻りましょう。新約聖書の8ページです。

 律法学者やファリサイ派の人々が、「天にかけて誓うように」教えた最初の動機は、十戒の第三戒「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」を破らないためであったと思われます。彼らは、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」という掟を守るために、天にかけて誓うように教えたのです。天だけではなく、地やエルサレムや自分の頭といったように、様々なものに対して誓うことを教えていたのです。そして、彼らは「主に対して誓ったことは、必ず果たせ」という掟から、「天に対して誓ったことは、果たさなくてもよい」という結論を導き出したのです。そのように教えることによって、彼らは人々に偽りの誓いを立てさせていたのであります。律法学者やファリサイ派の人々は、「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ」と命じておりました。しかし、彼らは、「天に対して誓ったことは、果たさなくてもよい」と教えていたのです。そのようにして、彼らは人々に偽りの誓いを立てさせていたのです。なぜなら、イエス様は、「天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ」と言われるからであります(23:22)。

 イエス様は34節後半から36節で、次のように言われます。「天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである」。律法学者やファリサイ派の人々は、「天に対して誓うこと」と「主に対して誓うこと」は別のことであると教えておりました。しかし、イエス様は「天に対して誓うこと」と「主に対して誓うこと」は同じことであると言われるのです。なぜなら、天は神の玉座であるからです。ここでイエス様はイザヤ書66章1節の「主はわたしの王座、地はわが足台」を念頭において語っておられます。天が神の王座であることは、律法学者やファリサイ派の人々も信じている聖書が教えていることであるのです。同じことが、地においても、またエルサレムにおいても言うことができます。詩編48篇2節によれば、エルサレムは「神の都」と言われています。神の都であるエルサレムにかけて誓うことは、神にかけて誓うことであるのです。では、自分の頭にかけて誓うはどうでしょうか?天や地やエルサレムよりも、自分の頭を指して誓う方が、拘束力が弱いと考えてよいのでしょうか?そうではありません。なぜなら、私たちは、自分で、髪の毛一本すら白くも黒くもできないからです。自分の頭でさえ、神様と無関係に存在しているのではないのです。自分の頭にかけて誓うことも、私たちの髪の毛までも一本残らず数えておられる神様にかけて誓うことであるのです。それゆえ、イエス様が、「一切誓いを立ててはならない」と言われるとき、その一切の中に、「天にかけて」「地にかけて」「エルサレムにかけて」「自分の頭にかけて」誓うことが含まれているのです。天にかけてであれ、地にかけてであれ、エルサレムにかけてであれ、自分の頭にかけてであれ、誓ったことは、主に対して誓ったことであり、必ず果たさねばならない誓いであるのです。しかし、律法学者やファリサイ派の人々は、主に対する誓いと、天に対する誓いを切り離して、果たさなくてもよい誓いを考えだし、教えていたのです。そのようにして、人々に偽りの誓いを立てさせていたのであります。そのような状況にあって、イエス様は、「一切誓いを立ててはならない」と言われたのです。そもそも、なぜ、人は誓い立てるのでしょうか?それは、誓いを立てることによって、人に信頼してもらうためであります。神を保証人として呼び出すことによって、人の信頼を得るのです。神を保証人として呼び出すわけですから、神に対して誓ったことが果たされねばならないのは当然のことであります。神に対して誓うには、誓ったことを必ず果たす誠実さと覚悟が求められるわけであります。そして、そこに誓いの言葉の重みがあるわけです。しかし、律法学者やファリサイ派の人々は、誓ったことを必ず果たす誠実さと覚悟なしに、信頼を得る術を、「天にかけて誓う」という仕方で考え出したわけであります。そして、そのような誓いの言葉は、軽い薄っぺらなものとなっていたわけです。イエス様が、「しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない」と言われたとき、そこで問題としておられることは、誓いの言葉が持つ重みが失われていたということであります。果たさなくてよいとされる誓いが、頻繁に誓われるほど、誓いの言葉は重みを失う。そして、それは神様が御自分の名によって誓うことを命じられた目的を台無しにしてしまう行為であったのです。申命記6章13節に、「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」と記されています。主が御自分の御名によって誓うように命じられたのは、主の民であるイスラエルの中に真実を打ち立てるためであります。しかし、その主の御心を、律法学者やファリサイ派の人々は、果たさなくてよい誓いを教えることにより、台無しにしていたのです。ですから、イエス様は「一切誓いを立ててはならない」と言われたのであります。

 また、イエス様は、37節で次のように言われます。「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである」。「然り」とは「はい」で、肯定的な答えを表します。また、「否」とは「いいえ」で、否定的な答えを表します。「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい」。ここでイエス様が求めておられることは、「瞬間、瞬間の誠実かつ明確な答え」であります(岩波訳参照)。主イエスは誓いによって信頼を確保するのではなくて、誠実かつ明確な言葉によって信頼を確保するよう命じられるのです。そして、キリストの弟子である私たちは、一切誓いを立てる必要がないほどに、真実な言葉を語り得る者たちとされているのです。なぜなら、神の約束はキリストにおいて、ことごとく「然り」となったからです。使徒パウロは第二コリント書の1章18節から22節で次のように記しています。新約聖書の326ページです。

神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、「然り」であると同時に「否」であるというものではありません。わたしたち、つまり、わたしとシルワノとテモテが、あなたがたの間で宣べ伝えた神の子イエス・キリストは、「然り」と同時に「否」となったような方ではありません。この方においては「然り」だけが実現したのです。神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン」と唱えます。わたしたちとあなたがたとをキリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に霊を与えてくださいました。

 神の約束は、イエス・キリストにおいてことごとく「然り」となりました。それゆえ、私たちも「然り」は「然り」、「否」は「否」と誠実かつ明確な言葉を語ることができるようになったのであります。このことは、エデンの園における最初の罪に思いを向けるとき明らかとなります。アダムの最初の罪は、神の言葉への不信によって引き起こされました。アダムとエバは、「善悪の知識の木からは決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」という神の言葉を「否」とし、「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる」という蛇(悪魔)の言葉を「然り」としたのであります。そして、このことによって、人間の言葉そのものが堕落したのです。神の言葉を信頼できないものとした人間の言葉は、互いに信頼できないものとなったのです。しかし、イエス様は、神の言葉を信頼し、従われることによって、私たちをも神の言葉を信頼し、従う者としてくださったのであります。神様は御自分の約束がことごとくイエス・キリストにおいて然りとなったことを私たちが信じられるよう、その保証として教会に聖霊を与えてくださったのです。

 神の言葉が真実な言葉として語られ、真実な言葉として聞かれる教会の交わりにおいてこそ、私たち人間の言葉が回復され、その重みを取り戻すのです。私たち人間の言葉が信頼に足る真実な言葉となる道は、誓いを立てることではなくて、キリストにあってことごとく「然り」となった神の約束を信じることから始まるのです。

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