兄弟に腹を立てる者 2013年4月21日(日曜 朝の礼拝)

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兄弟に腹を立てる者

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 5章21節~26節

聖句のアイコン聖書の言葉

5:21 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。
5:22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
5:23 だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、
5:24 その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。
5:25 あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。
5:26 はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」マタイによる福音書 5章21節~26節

原稿のアイコンメッセージ

 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』という者は、火の地獄に投げ込まれる」。これが、今朝は私たちに与えられております主イエスの御言葉であります。「殺すな」という掟は、神の掟の基本法ともいます十戒の6番目の戒めであります。主イエスは、十戒にある「殺してはならない」という戒めを取り上げて、その掟に秘められている神の御心を解き明かされるのです。

 当時の宗教的指導者であった律法学者やファリサイ派の人々は、「殺してはならない」という掟を、殺人の行為そのものを禁じる掟として理解し、人々にもそのように教えておりました。「あなたがたも聞いているとおり」とありますが、そのように教えていたのは律法学者やファリサイ派の人々であります。彼らは、「殺してはならない」という神の戒めを人を殺す行為そのものを禁じる掟と理解し、そのように人々にも教えていたのです。おそらく、私たちも同じように理解していたのではないでしょうか?自分は、人を殺したことはない。だから、自分は「殺してはならない」という掟をちゃんと守っていると考えていたのではないでしょうか?しかし、ただそれだけなら、人間の掟と何ら変わるところがありません。神が「殺してはならない」という掟を与えられたのは、人を殺す行為そのものを禁じるためだけではないのです。そのことを主イエスは、律法の完成者として、教えられるのです。

 「しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』という者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』という者は、火の地獄に投げ込まれる」。律法学者やファリサイ派の人々が、人を殺す行為だけを禁じ、その行為をしなければ裁きを免れるかのように教えたのに対して、主イエスは、その殺意の源である心に湧きおこる怒りや悪しき言葉さえも裁きを免れないと言われます。なぜなら、神様は人の心を御覧になるお方であるからです。人を軽んじる心から「ばか」という言葉が口にのぼり、自分を賢いとするうぬぼれから「愚か者」という言葉が口にのぼるわけであります。主イエスが「しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』という者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』という者は、火の地獄に投げ込まれる」と言われるとき、そこで主張されていることは、律法学者やファリサイ派の人々にまさる権威であり、もっと言えば、律法の制定者である神と等しい権威を主張しておられるのです。ガラテヤ書4章4節に、「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」とありますように、神の御子であるキリストは、本来、律法の上におられる、律法を授与された神その方であるのです。それゆえ、主イエスは、「しかし、わたしは言っておく」と言われるのであります。ただ、誤解してはならないのは、ここで主イエスは、モーセを通して与えられた神の掟を無効とすることを決して意図しておられないということであります。そのような誤解を避けるために、主イエスは17節で、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と前もって言われたのです。「しかし、わたしは言っておく」という言葉に続く主イエスの教えは、律法を無効とするものではなく、律法が求めていることを徹底化しているのです。そして、これこそが、主イエスが求められる律法学者やファリサイ派の人々にまさる義であるのです。キリストの弟子である私たちは、「自分は人を殺したことがないから、裁かれない。自分は神の掟をちゃんと守っている」と考えてはなりません。イエス・キリストは私たちに、殺人の根である兄弟に腹を立てることを、また兄弟に「ばか」「愚か者」と言うことを禁じておられるのです。

 しかし、そのように聞きますと、私たちは「自分は到底、守れそうにない」と思うのではないでしょうか?私は、そのことを誤魔化さずに、しっかりと認めることが大切であると思います。私たちは「殺してはならない」という神の掟を読み、また聞く時、自分は人を殺したことがないから、自分はちゃんと守っていると考えがちであります。しかし、主イエスからこの掟が殺人の行為そのものだけを禁じているのではなく、殺人の根となる怒りや悪い言葉をも禁じておられることを教えられる時、私たちは自分が神の御前に罪人であることがよく分かるのであります。私たちは、「自分は心の中でこれまで何人の人を殺してきたか分からない」と白状せざるを得ないと思うのです。そのような私たちに、主イエスは23、24節でこう言われるのです。「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」。ここで「兄弟」とありますが、兄弟とは、主にある兄弟姉妹、主イエス・キリストにあって、神を父とする神の家族としての兄弟姉妹のことであります。そして、「兄弟」という言葉は、22節にも記されておりました。主イエスは、主にある兄弟姉妹に腹を立てる者、主にある兄弟姉妹に「ばか」「愚か者」という者は裁きを受けると言われたのであります。つまり、ここで第一に問題とされているのは、イエス・キリストを信じて、共に礼拝をささげている教会における人間関係であるのです。

 ここでは、祭壇に供え物をささげる当時の礼拝の場面が描かれております。祭壇に供え物をささげることによって礼拝者は罪の赦しをいただくわけですが、そのときに、色々なことを思い巡らすと思います。神様の御前に出るのですから、神様の御前に自分の歩みがどのようなものであったかを当然、思い起こしたと思います。そのときに、兄弟が自分に対して何かうらみや反感を持っていることを思い出したら、供え物を置いて、まず行って兄弟と仲直りしなさい。それから、供え物を献げなさい、と主イエスは言われるのです。祭壇に供え物を献げる。これは神様と和解するための行為であります。しかし、その行為の前に、まず行って兄弟と仲直りしなさいと主イエスは言われるのです。そして、この主イエスの教えの背後には、私たちが兄弟に対して腹を立て、悪い言葉を口にしてしまうこと現実があるわけです。

 主イエスは、「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』という者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』という者は裁きを受ける」と言われて、「だから、あなたたちはもう絶望するしかないのだ」と言われたのではありません。そうではなくて、主イエスは「兄弟と仲直りしなさい」と言われるのです。兄弟と仲直りしてから、供え物を献げて、神を礼拝しなさいと言われるのです。ここでも、主イエスが問題とされているのは、私たちの心であります。兄弟に腹を立てていながら、兄弟を軽んじ、兄弟を不信仰者と裁きながら、神を礼拝することができるでしょうか?主イエスは「できない」と言われます。ですから、供え物を祭壇の前に置いて、まず行って兄弟と仲直りせよ、と言われたのです。もし、兄弟に対して腹を立てたままで、兄弟を軽んじ、兄弟を不信仰者と裁く心で神を礼拝をするならば、その人は神の裁きを招きかねないのです。なぜなら、神はその独り子を与えられたほどにその兄弟を愛しておられるからです。

 また、ここで、「兄弟が自分に反感を持っているのを思い出したなら」と記されていることに注目したいと思います。「自分が兄弟に反感を持っている」のではなくて、「兄弟が自分に反感を持っている」のです。ここでの眼目は、自分が神様を真実に礼拝するためというよりも、自分に対して何か恨みや反感を持っている兄弟が神様を真実に礼拝することができるようにという配慮であります。私たちは主の日ごとに集まって礼拝をささげておりますが、私たちが兄弟姉妹への怒りや兄弟姉妹を軽んじる心を捨てて、仲直りをしなければ、真実の意味で神様を礼拝することができないのです。もし、私たちが兄弟姉妹に対して腹を立て、兄弟姉妹を軽んじ、兄弟姉妹を不信仰者として裁いているならば、私たちは罪の赦しをいただくどころか、罪に定められてしまうのです。ですから、主イエスは、25節でこう言われるのです。「あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたを牢に投げ込まれるにちがいない」。ここでの「あなたを訴える人」とは、「自分対して何か恨みや反感を持っている兄弟」のことでありましょう。当時は時間を決めて裁判所に集まることになっておりましたから、途中で、自分を訴える人と一緒になるということがあったようであります。しかし、これはたとえでありますから、ここで主イエスが言われる「あなたを訴える人と一緒に道を行く場合」とは、「あなたに対して反感を持っている兄弟と一緒に神を礼拝して歩むこと」を意味していると思います。すなわち、ここでも早く兄弟と和解すること、仲直りすることが求められているのです。今と言うときに、早く兄弟と和解しなければ、主なる神の厳しい裁きが待っているのです。26節の「はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない」という主イエスの御言葉は、「早く兄弟と和解しないと取り返しのつかないことになるぞ」という警告の言葉であります。そのようにならないために、私たちは自分を訴える兄弟と早く和解すべきであるのです。

 「殺すな」という掟から始まって、「和解せよ」という命令で今朝の御言葉は閉じられているわけでありますが、これは別のことではありません。なぜなら、私たちは自分に反感を持っている兄弟姉妹と仲直りすることによって、また、自分を訴える兄弟姉妹と和解することによって、「殺してはならない」という掟を守ることができるからです。「殺してはならない」という掟は、一人では守ることができません。なぜなら、「殺してはならない」という掟は、兄弟に腹を立てること、兄弟に対して悪口を言うことをも禁じているからです。もし、一人で守ろうとすれば、絶望するしかないのです。しかし、その兄弟と仲直りすることによって、私たちはこの掟を守ることができるのです。そのようにして、主イエスは、私たちが「殺してはならない」という掟を守ることを望んでおられるのであります。

 ある人が、「私たちの怒りには、いつも正義がこびりついている」と言っておりました。私たちは兄弟よりも自分が正しいと思うから兄弟に対して腹を立てるのです。そのような者たちが、仲直りすることができるのでしょうか?和解することができるのでしょうか?主イエスは「できる」と言われるのです。それは、主イエスが私たちの罪のために死んでくださり、和解の献げ物となってくださったからです。互いにそれぞれの言い分はあるでしょう。自分が正しいという思いもあるでしょう。しかし、そこに留まっていては和解はできません。その人が主にある兄弟姉妹であることにまで思いを高めなければ、和解はできないのです。教会は、気の合う者同士が集まるクラブやサークルではありません。主イエス・キリストの血潮によって、罪から贖われた主にある兄弟姉妹の交わりであります。そして、そのような私たちの交わりにおいてこそ、「殺してはならない」という神の掟を真実に守られるのです。礼拝の只中に、御言葉と聖霊によって御臨在してくださる主イエス・キリストが、私たちに「殺してはならない」という掟を守らせてくださるのです。「まず行って兄弟と和解しなさい」という主イエスの御言葉に聞き従う交わりにおいてこそ、「殺してはならない」という神の掟は満たされるのです。

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