地の塩、世の光 2013年4月07日(日曜 朝の礼拝)

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地の塩、世の光

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 5章13節~16節

聖句のアイコン聖書の言葉

5:13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
5:14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
5:15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
5:16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」マタイによる福音書 5章13節~16節

原稿のアイコンメッセージ

序.

 先週はイースターを記念する礼拝をささげましたが、今朝から再びマタイによる福音書を読み進めていきたいと思います。今朝は第5章13節から16節までのイエス・キリストの御言葉を御一緒に学びたいと願っております。

1.あなたがたは地の塩である

 13節をお読みします。

 あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、人々に踏みつけられるだけである。

 イエス様は、弟子たちに向って「あなたがたは地の塩である」と言われます。つまり、復活され今も生きておられるイエス様は、今朝私たちに向って「あなたがたは地の塩である」と言われているのです。この「あなたがた」は、3節から12節までに記されていた「幸いの教え」を受けての「あなたがた」であります。私たちは「幸いの教え」を一つずつ丁寧に学んだのでありますが、ここにキリストの弟子たちがどのような人々であるのかが教えられているのであります。すなわち、キリストの弟子たちとは、心の貧しい人々であり、悲しむ人々であり、柔和な人々であり、義に飢え渇く人々であり、憐れみ深い人々であり、心の清い人々であり、平和を実現する人々であり、義のために迫害される人々であるのです。イエス様はそのような私たちに向って、「あなたがたは地の塩である」と言われるのです。

 このようにイエス様が「あなたがたは地の塩である」と言われるとき、3節から12節までの「幸いの教え」を前提としているのでありますが、特に、八番目の幸いを敷衍した11節、12節を受けて言われています。と言いますのも、11節、12節も、「あなたがた」と二人称複数で記されているからです。イエス様は11節、12節でこう言われておりました。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたよりも前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」。イエス様が「地の塩である」と言われるのは、何よりもイエス様のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる「あなたがた」であるのです。

 イエス様は「あなたがたは地の塩である」と言われるのでありますが、塩は人間が生きていくために必要不可欠なものであります。塩には様々な使い道があります。例えば、塩には食べ物に味をつける働きがあります。また、塩には食べ物の腐敗を防ぐ働きがあります。さらに、塩には献げ物を清めるという働きもありました。イエス様が「あなたがたは地の塩である」と言われるとき、そこで考えられているのは、何より、地の腐敗を防ぐものとしての塩の働きであると思います。つまり、イエス様が「あなたがたは地の塩である」と言われるとき、そこでは「地が腐敗している」ことが前提とされているのです。そして、その「地」とは、神様によって造られ、はじめの人アダムにあって堕落した地であるのです。

 地が腐敗していることは、旧約聖書の創世記第6章にすでに記されていることであります。その5節、6節に次のように記されています。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」。神様が地上に人を造ったことを後悔されたほどに、地は腐敗してしまったのです。そして、そのことはノアの洪水の後も同じであるのです。腐敗した世界が今もなお滅ぼされずにいるのは、ひとえに神様の恵みによることであるのです。神様は恵みによってノアとその子孫との間に契約を立て、水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してしないと誓われたのです。ノアの時代の人々が特別に堕落しており、不法に満ちていたのではありません。神様の御目からすれば、今の時代の人間社会も、不法に満ちており、腐敗しているのです。そのような腐敗した人間社会に生きる私たちキリスト者に、イエス様は今朝、「あなたがたは地の塩である」と言われるのです。「あなたがたは地の塩になりなさい」と言われているのではありません。イエス様は、「あなたがたは地の塩である」と断言されるのです。イエス様の教える幸いに生きる私たち、イエス様のためにののしられ、迫害される私たちは、人間社会の腐敗を防ぐ塩であるのです。

 ただここで一つの警告が与えられております。それは塩に塩気がなくなってしまうということです。「だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味がつけられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」。ここで「塩味」とありますので、味をつける働きのことをイエス様が言われているように思えますが、元の言葉は必ずしも「味」のことが言われているわけではありません。新改訳聖書は、このところを次のように翻訳しています。「もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう」。塩が塩けをなくすなどということがあるのであろうかと思われるかも知れませんが、イエス様の時代にはどうやらそういうことがあったようであります。ここで言われている塩は、死海の近くの山から採れる岩塩でありまして、そこからは不純物を多く含む塩けを失ってしまう塩が採れたようです。では、「塩に塩けがなくなる」とはどのようなことを言うのでしょうか。それは、私たちが、イエス様の教えられた幸いに生きていないこと、イエス様のためにののしられ、迫害されることを恥じることであります。もっと言えば、イエス・キリストへの信仰を言い表した者が、イエス・キリストへの信仰を捨ててしまうことです。そのような者は、もはや何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられる。そのようにイエス様は、地の塩である私たちが塩けを失ってしまわないようにと警告しておられるのです(ヘブライ6:5、6参照)。

2.あなたがたは世の光である

 14節をお読みします。

 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。

 イエス様は弟子たちに、また私たちに「あなたがたは世の光である」と言われます。ここでも「世が闇である」ことが前提とされています。神様の御目に地は腐敗しているように、神様の御目から見れば世は闇であるのです。イエス様は、そのような闇の世に生きる私たちに「あなたがたは世の光である」と言われるのです。イエス様はヨハネによる福音書第8章12節で、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われました。世の光であるイエス・キリストのものとされた私たちも世の光とされているのです。光の特質、それは何より輝くことであります。ですから、イエス様は、「山の上にある町は、隠れることができない」と言われるのです。ここでも夜のことが言われているのだと思います。夜の山の上にある町が隠れることができないように、イエス・キリストの幸いに生きる私たちは隠れることができないのです。私たちは闇の世に輝く光とされているのです。

 15節と16節をお読みします。

 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。

 ここでイエス様は、世の光である私たちの働きについて言われています。あるいは、イエス様が私たちを世の光とされた目的について語っておられます。ともし火をともすのは、もちろん升の下に置くためではありません。燭台の上に置いて、家の中のものすべてを照らすためであります。それゆえ、イエス様は、「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と言われるのです。私たちがイエス・キリストにあって「世の光」としていただいたのは、私たちだけでその光を楽しむためではありません。それはともし火を升の下に置くような愚かな行為です。私たちがイエス・キリストにあって世の光とされたのは、暗闇である人々の前に私たちの光を輝かせるためであるのです(エフェソ5:8参照)。

 では、人々の前に輝かす「私たちの光」とは何でしょうか?それは、「私たちの立派な行い」であります。そして、その立派な行いとは、「人々が、わたしたちの天の父をあがめるようになる」ために為される立派な行いであるのです。ここでイエス様が言われる「あなたがたの光」とは、「あなたのがたの立派な行い」であり、その立派な行いは、「人々が、あなたがたの天の父をあがめるようになるため」という動機によって為される行いであるのです。新共同訳聖書は「立派な行い」と翻訳していますが、新改訳聖書、口語訳聖書では「良い行い」と翻訳しています。私たちの良い行いを見て、人々がわたしたちの天の父をあがめるようになるのは、ちゃんとした理由があります。それはわたしたちの良い行いの出所が、唯一の善いお方である神を源としているからです(マタイ19:17参照)。すなわち、「わたしたちの善い行い」とは、私たちの父である神様が、私たちのうちに実を結んでくださる行いであるのです。イエス様はヨハネによる福音書の第15章8節で、「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」と言われましたが、それと同じ主旨のことが、ここで言われているのです。

 では、父なる神が私たちに行わせてくださる良い行いとは、具体的にはどのような行いでしょうか。色々あると思いますが、その最たるものは、イエス・キリストの名によってささげられる礼拝であります。イエス・キリストにあって、私たちの父となってくださった神様を崇め、ほめたたえること。これこそ、私たちの光であり、私たちの良い行いであるのです。イエス・キリストの名によってささげられる神礼拝こそ、人々がわたしたちの天の父をあがめるようになるためになされる、私たちの良い行いであるのです(一コリント14:24、25参照)。

結.すべての人に開かれた礼拝共同体

 先週、私たちは主の日の礼拝を、イースター特別伝道礼拝としてささげました。なぜ、特別伝道礼拝と言うのかと言えば、それは主の日ごとに行われている礼拝が、いつも伝道礼拝であるからです。近頃は、「特別伝道礼拝」という言葉を用いないで、「オープンチャーチ」という言葉を用いる教会もあるようですが、私は少し違和感を覚えます。と言うのも、主の日ごとの礼拝はすべてオープンチャーチであるからです。「オープンチャーチ」という言葉を用いると、どうも他の、いつもの礼拝がクローズドであるような印象を受けるからであります。もちろん、そうではないわけですが、私にはどうも違和感があるのです。私たちがこのところで週ごとにささげている礼拝は、升の下に置くともし火ではなく、燭台の上に置かれるともし火であります。私たちは世の光とされている者たちとして、すべての人に開かれた礼拝をささげているのです。ですから私たちは、イースター礼拝のはり札を貼り、チラシを配ったわけです。また、一万枚のチラシを印刷し新聞に折り込んだわけであります。しかし、残念ながら、初めて教会を訪ねて来られた方はありませんでした。では、私たちの行いは意味がなかったのでしょうか?私はそうは思いません。なぜなら、私たちは地の塩、世の光とされているからです。日曜日ごとに、この場所で礼拝がささげられていること。そして、その礼拝にはすべての人が招かれていること。そのことを、私たちは何度でも示していかなければならないのです。私たちは、これからも主の日ごとの礼拝を通して、人々の前に私たちの光を輝かせていきたいと願います。

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