義に飢え渇く人々は幸いである 2013年2月24日(日曜 朝の礼拝)

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義に飢え渇く人々は幸いである

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 5章1節~12節

聖句のアイコン聖書の言葉

5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
5:2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
5:5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」マタイによる福音書 5章1節~12節

原稿のアイコンメッセージ

序.

 山上の説教の冒頭に置かれております「幸いの教え」について学んでおります。前回は、5節の「柔和な人々は幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」について学びましたので、今朝は6節の「義に飢え渇く人々は幸いである、その人たちは満たされる」について学びたいと願います。

1.義に飢え渇く人々

 「義に飢え渇く人々は幸いである。その人たちは満たされる」。ここでの「義」は「正しさ」でありますが、それは何より神様との関係における正しさであります。聖書において罪が何より神様との関係において言われているように、正しさも何より神様との関係において言われているのです。つまり、義とは「神と人との正しい関係」を意味しているのです。イエス様が言われている義が「神と人の正しい関係」であることは、これまで学んできた「幸いの教え」とのつながりから考えると分かります。前回も申しましたが、イエス様の「幸いの教え」を正しく理解するために大切なポイントが3つあります。1つは、ここでイエス様が幸いであると言われているのは、その人が生まれながらにもっている気質ではなく、聖霊によって与えられる新しい人としての気質であるということです。2つ目は、ここでイエス様は八つの幸いについて教えておられますが、それはただ一つのグループ、御自分の弟子たちについて教えておられるということです。つまり、キリスト者とは心の貧しい人々であり、悲しむ人々であり、柔和な人々であり、義に飢え渇く人々であるのです。ですから、一つだけを切り離して読んではいけない、全体として読まなくてはいけないということであります。3つ目は、イエス様が教えられている順番に従って、前との繋がりから理解するということであります。イエス様は教えられた順番にも大切な意味があるのです。私たちはすでに「心の貧しい人々」、「悲しむ人々」、「柔和な人々」について学んだのでありますが、ここで少しおさらいしておきたいと思います。「心の貧しい人々」とは「霊において乞食である人々」のことであり、神様の御前に誇るべきもの、頼るべきものを何一つ持たない人々でありました。それゆえに神様だけを頼りとする人々、それが心の貧しい人々であります。そして、これこそ、天の国に入る第一の条件であったわけです。また、この「心の貧しい人々」は「悲しむ人々」でもあります。それゆえ、この「悲しむ人々」は、何より「罪を悲しむ人々」でありました。何も持たずに神様の御前に立つ心の貧しい人々は、神様の御意志に従うことのできない自分の罪、また、神様の御意志に従おうとしない他者の罪を悲しむ人々であるのです。また、この「悲しむ人々」は「柔和な人々」でもあります。そして、その柔和さは、自分の罪を悲しむ心とそのような自分が神様に受け入れられている愛の認識を源とする柔和さでありました。また、この「柔和な人々」は「義に飢え渇く人々」でもあるのです。このように考えて来ますと、ここでの「義」が「神と人の正しい関係」であることがお分かりいただけると思います。神様の御前に罪を悲しむ人々は、神との正しい関係に飢え渇く人々であるのです。

2.神と人の正しい関係

 では、「神と人との正しい関係」とはどのような関係を言うのでしょうか?ここで私たちは、創世記の第15章に記されいる神とアブラハムの関係を見てみたいと思います。創世記の第15章1節から6節までをお読みします。旧約聖書の19ページです。

 これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」アブラムは言葉をついだ。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」見よ、主の言葉があった。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

 アブラム、後のアブラハムには子供が与えられておりませんでした。しかし、「あなたの子孫は天の星のようになる」との主の御言葉を信じたのでありました。そして、それは神様に対して正しい態度であったのです。「主はそれを彼の義と認められた」という御言葉は、神様の御言葉を信じたアブラハムの態度は神様との関係において正しい態度であったということです。神様の御言葉を信じ、神様の御言葉に従う。これが人間にとって神様との関係において正しいことであるのです。なぜなら、人間は神様によって造られたからであります。しかも、人間は神様のかたちに似せて、神様との交わりに生きる者として造られたのです。

 では、私たち人間は自分の力で神様の御言葉を信じ、従うという正しい関係に生きることができるのでしょうか?いいえ、できません。なぜなら、すべての人がはじめの人アダムにあって堕落しているからです。すべてに人がアダムの罪を受け継いで生まれてくるからであります。アダムの罪とは何であったか?それは先程のアブラハムの態度とちょうど逆でありました。神様はアダムに「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」という言われました。しかし、アダムは蛇の「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」という言葉に唆されて、禁じられていた木の実を女の手を通して食べてしまうわけです。アダムは、「神様が禁じられたのだから私は食べない」とは言いませんでした。そうではなくて、神様の御言葉を疑い、自分も神のようになりたいという欲望をもって、禁じられた木の実を食べたのです。このようにして、神様と人間との正しい関係は失われてしまったわけです。アダムとエバがエデンの園から追放されるという出来事は、私たちにそのことを教えているのです。ですから、生まれながらの人間は、「神様との正しい関係に飢え渇く」ことなどできないのです。「飢え渇く」とは命にかかわる欲求でありますけれども、それほどまでにアダムにあって堕落した人間は神様との正しい関係を求めることはできないのです。むしろ、神と人との正しい関係に飢え渇いたのは、神様であられます。神様が人間との正しい関係に飢え渇いて、御子イエス・キリストを遣わされたのであります。神様はイエス・キリストにおいて、人間に対する神の正しさ、神の義を示されたのです。

 

3.イエス・キリストにおいて示された神の義

 イエス・キリストにおいて示された神の義については、使徒パウロがローマの信徒への手紙の中で記しております。第3章21節から26節までをお読みいたします。新約聖書の277ページです。

 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。

 イエス・キリストにおいて示された神の義、それはイエス・キリストにあって罪人を正しい者とする神の義であります。イエス・キリストにおいて示された神の義は、罪人を裁く義ではなくて、罪人を正しい者とする義であったのです。なぜ、そのようなことが可能であるのか?それはイエス・キリストが私たちの罪を償う供え物として十字架の上で血を流してくださったからであります。このように考えて来ますと、イエス・キリスト御自身が、「義に飢え渇く人」であったことが分かります。イエス様の御生涯は、義に飢え渇いた人としての生涯でありました。イエス様は私たちに先立って、義に飢え渇いた人としてこの地上を歩まれたのです。そして、イエス様は「義に飢え渇いた人」として、十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのか」と叫ばれたのです。そのイエス様を、神様は死者の中から三日目に栄光の体で復活させられました。それは、イエス・キリストにあって、すべての人が神様との正しい関係に生きることができることを確証されるためであります。イエス様は、「義に飢え渇く人々は幸いである、その人たちは満たされる」と言われましたけれども、神様はイエス・キリストを復活させ、御自分の右に挙げられたことにより、イエス様の義に対する飢え渇きを満たしてくださったのです。

結.その人たちは満たされる

 「義に飢え渇く人々は幸いである。その人たちは満たされる」。この御言葉を読むとき、私たちはイエス様こそが義に飢え渇く人であったことを忘れてはなりません。私たちは、そのイエス様の聖霊を与えられているがゆえに、義に飢え渇く者たちとされているのです。私たちはイエス・キリストの聖霊を与えられて、イエス・キリストを信じ、神様との正しい関係に生きる者たちとされたのです。そのような者たちとして、私たちは神様との交わりに飢え渇いているのです。詩編の第42編に「涸れた谷に鹿が水を求めるように/わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て/神の御顔を仰ぐことができるのか」とありますように、私たちもイエス・キリストにあって神様との交わりに飢え渇く者とされているのです。そしてここに、私たちキリスト者が、日曜日の朝に教会に集い、礼拝をささげている理由があるのです。なぜ、私たちは礼拝を第一として歩むのか?それは私たちキリスト者が、義に飢え渇く人々であるからです。そのような私たちの飢え渇きを神様は御言葉と聖霊をもって満たしてくださいます。「義に飢え渇く人々は幸いである、その人たちは満たされる」。このイエス様の御言葉は、今朝、礼拝をささげている私たちのうえに実現しているのです。

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