天の国は近づいた 2013年1月06日(日曜 朝の礼拝)

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天の国は近づいた

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 4章12節~17節

聖句のアイコン聖書の言葉

4:12 イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。
4:13 そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。
4:14 それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
4:15 「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、
4:16 暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」
4:17 そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。マタイによる福音書 4章12節~17節

原稿のアイコンメッセージ

序.

 今朝は2013年最初の礼拝であります。この新しい年を、私たちは「礼拝を第一として歩む」を年間テーマとして、また、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えてあたえられる」マタイによる福音書第6章33節を年間聖句として歩んで参りたいと願います。新年礼拝では、年間聖句からお話することも考えたのですが、昨年からマタイによる福音書を読み続けておりますので、その箇所を学ぶときにお話したいと思います。それで、今朝は昨年の続きである第4章12節から17節までをご一緒に学びたいと願います。

1.引き渡されたヨハネ

 12節に、「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」と記されています。洗礼者ヨハネが捕らえられた経緯については、ここには記されておりませんが、第14章の3節、4節に記されています。新約聖書の27頁です。   

 実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。ヨハネが、「あの女と結婚することは律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。

 ここでのヘロデは、イエス様がお生まれになったときのヘロデ大王ではなくて、その息子でガリラヤとペレアの領主となったヘロデ・アンティパスのことであります。なぜ、領主ヘロデは、洗礼者ヨハネを捕らえて牢に入れたのでしょうか。それは、領主ヘロデが自分の兄弟の妻を自分の妻とすることをヨハネから咎められたからであります。ヨハネは領主ヘロデに対して「あの女と結婚することは律法で許されていない」と言い、罪から神へと立ち帰るように悔い改めを迫ったのであります。しかし、領主ヘロデはそのヨハネを捕らえ牢に入れることによって、悔い改めを拒んだのです。そのようにしてヨハネを通して語られた神の言葉に耳を閉ざすのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約聖書の5頁です。

 「ヨハネが捕らえられた」とありますが、元の言葉を見ますと、「ヨハネが引き渡された」と記されております。「引き渡す」という言葉は、イエス様がエルサレムでお受けになる受難を表すときの決まった言い回しであります。後にイエス様は、人々の手に引き渡されるわけです。その先取りとして、今朝の御言葉ではヨハネが引き渡されたのであります。洗礼者ヨハネは、イエス様のお働きの先駆者でありましたけれども、「引き渡される」ことにおいても先駆者であるのです。ヨハネが引き渡されこと、それは領主ヘロデの手によることでありますが、究極的には神によることであるのです。そして、このことはイエス様にとりまして、伝道を開始するときが来たことを告げるものであったのです。イエス様がガリラヤへと退かれたこと、それは領主ヘロデの敵意から逃れるためであったというよりも、御国の福音を宣べ伝えるためであったのです。

2.カファルナウムに住むイエス

 13節に次のように記されています。「そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた」。イエス様は洗礼者ヨハネの活動の場であったユダヤの荒れ野からガリラヤに退かれましたが、まず郷里のナザレに戻られたようであります。もし、イエス様が領主ヘロデの敵意を逃れるためだけにガリラヤに退かれたとするならば、ナザレでおとなしくしていたと思います。しかし、イエス様はナザレを離れて、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれたのです。カファルナウムはガリラヤ湖の北西にある町でありますが、当時、人口5万人を数えたと言われ、通商の中心地であり、湖畔随一の繁栄を誇っていたと言われています。そのカファルナウムでイエス様は御国の福音を宣べ伝えたのであります。このようにして、カファルナウムは、イエス様のガリラヤ宣教の拠点となるのです。「ガリラヤ」とは「周辺」という意味でありますが、イエス様はそのガリラヤから宣教を始められるのです。そして福音書記者マタイは、「それは預言者イザヤを通していわれていたことの実現するためであった」と言うのです。14節から16節に次のように記されております。「それは、預言者イザヤを通して言われたいたことが実現するためであった。『ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ』」。イエス様がユダヤではなく、ガリラヤで宣教を開始されたのは、ユダヤの荒れ野で活動していた洗礼者ヨハネが捕らえられたからでありました。しかし、そのことを通して、実は預言者イザヤの言葉が実現したとマタイは言うのです。ここでマタイが引用しているのは、イザヤ書の第8章23節と第9章1節の御言葉であります。実際に確かめたいと思います。旧約聖書の1073頁です。イザヤ書の第8章23節の途中から第9章1節までお読みします。

 先に/ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが/後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた/異邦人のガリラヤは、栄光を受ける。闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。

 この御言葉は、イザヤ書の文脈によれば、アッシリア帝国の侵略を背景にして語られております。列王記下の第15章29節を見ますと、アッシリアの王ティグラト・ピレセルが攻めて来て、ガリラヤ、およびナフタリの全地方を占領し、その住民を捕囚として連れ去ったことが記されています。アッシリア帝国の占領政策は、住民を入れ替えてしまうというものでありましたから、ガリラヤにはイスラエル人の代わりに多くの異邦人が連れて来られました(列王記下17章24~33節参照)。それゆえ、ガリラヤは「異邦人のガリラヤ」と呼ばれるようになるのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約聖書の5頁です。

 福音書記者マタイが、ガリラヤを「異邦人のガリラヤ」と呼び、そこに住む民を「暗闇に住む民」、「死の陰の地に住む者」と呼びますときに、そこで言われている「暗闇」「死の陰」は何より真の神を知らない霊的な暗さであります。しかし、イエス様はそのようなガリラヤの地で御国の福音を宣べ伝え始められたのです。そのようにして、「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」のです。

3.悔い改めよ。天の国は近づいた

 17節に次のように記されています。「そのときから、イエスは、『悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた」。ここには、イエス様がどのような言葉をもって宣教を始められたのかが記されています。イエス様の宣教の要点は何であったのかと言えば、それは「悔い改めよ。天の国は近づいた」ということであったのです。このイエス様の御言葉は、洗礼者ヨハネが言った言葉と全く同じ言葉であります(3:2参照)。イエス様は洗礼者ヨハネと同じ言葉をもって、ガリラヤでの宣教を開始されるのです。領主ヘロデはヨハネを捕らえ牢に入れることによって神の声を消し去ろうとしましたけれども、その神の声は今やイエス様において語られるのです。では、イエス様は洗礼者ヨハネの働きを受け継いだだけなのでしょうか?そうではありません。私たちは洗礼者ヨハネが「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と言っていたことを思い起こしたいと思います。確かに、イエス様は洗礼者ヨハネと全く同じ言葉で宣べ伝え始められました。しかし、その言葉の指し示す恵みはより大きなものであるのです。なぜなら、天の国は、イエス・キリストにおいてまさしく到来したからです。天の国、神様の御支配は、イエス・キリストにおいて、この地上に到来したのであります。ですから、人々はいよいよ悔い改めなければならないわけです。私たちは、イエス様が神様によって聖霊を注がれ、天の声によってメシア、救い主として任職されたことを学びました。イエス様は神の独り子であり、イスラエルの王であり、主の僕であるメシア、救い主であります。そして、イエス様は悪魔の誘惑をことごとく退けることによって、神の試練に耐え、実質的にもメシアとしてふさわしい者であることを証明されたのです。そのようなイエス様が、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められたのであります。神の王国であり、神の王的支配である天の国は洗礼者ヨハネの後から来られるお方、神からメシアとして任職され、悪魔の誘惑をことごとく退けられたイエス・キリストにおいて、この地上に到来したのです。そして、この天の国の中心的な現れが、イエス・キリストの名によってささげられる礼拝であるのです。

結.天の国の前味としての礼拝

 今朝の週報の第2面に、私たち日本キリスト改革派教会の創立20周年記念宣言の一節を抜き書きしておきました。そこには次のように記されています。「教会の生命は、礼拝にある。キリストにおいて神ひとと共に住みたもう天国の型として存する教会は、主の日の礼拝において端的にその姿を現わす。わが教会の神中心的・礼拝的人生観は、主の日の礼拝の厳守において、最もあざやかに告白される。神は、礼拝におけるみ言葉の朗読と説教およびそれへの聴従において、霊的にその民に臨在したもう」。ここに記されておりますように、「キリストにおいて神ひとと共に住たもう天国の型として存する教会は、主の日の礼拝において端的にその姿を現す」のです。イエス・キリストにおいて到来した天の国の祝福を味わいたいと願うならば、主の日の礼拝に出席すればよいのであります。礼拝に出席し、イエス・キリストを通して神を崇め、賛美するとき、その人は天の国の祝福がどのようなものであるのかを知ることができるのです。その天の国の祝福を知っている者たちとして、私たちはこの新しい年を礼拝を第一として歩んで参りたいと願います。

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