悔い改めよ 2012年12月09日(日曜 朝の礼拝)

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悔い改めよ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 3章1節~12節

聖句のアイコン聖書の言葉

3:1 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、
3:2 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。
3:3 これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」
3:4 ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。
3:5 そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、
3:6 罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
3:7 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。
3:8 悔い改めにふさわしい実を結べ。
3:9 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。
3:10 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
3:11 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
3:12 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」マタイによる福音書 3章1節~12節

原稿のアイコンメッセージ

序.

 今朝はマタイによる福音書の第3章1節から12節までをご一緒に学びたいと願っております。

1.洗礼者ヨハネ

 1節、2節に、次のように記されています。「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。」。「そのころ」とありますが、これはマタイが用いる漠然とした時の推移を表す言葉であります。また、旧約聖書によれば、それは重要な出来事を記す決まった言い回しでありました(創世38:1参照)。ルカによる福音書の並行個所を見ますと、「皇帝ティベリウスの治世の第十五年」とありますから、およそ紀元30年頃であったことが分かります(ルカ3:1参照)。マタイは第2章でイエス様の幼少時代について記しましたけれども、第3章からはイエス様がおよそ30歳で始められた救い主としての公の生涯、いわゆる公生涯について記すのです。そして、そのイエス様の公生涯の先駆者とも言えるのが、今朝の御言葉に出て来ます「洗礼者ヨハネ」なのであります。マタイは、洗礼者ヨハネが「ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。」と記しておりますが、これはマタイだけが記している洗礼者ヨハネの宣教の要約の言葉であります。今朝の説教題はここから取ったのでありますが、ヨハネは人々に悔い改めを迫ったのです。「悔い改める」とは「立ち返ること」であります。自己中心の罪の生活に背を向けて、神中心の生活へと立ち返ること。罪から神へと立ち返ること。これが悔い改めであります。なぜ、ヨハネは人々に悔い改めを求めたのでしょうか?それは、「天の国は近づいた」からです。ここで「近づいた」と翻訳されている元の言葉は完了形で記されています。ですから、天の国はもうそこまで来ているのです。それゆえ、洗礼者ヨハネは「悔い改めなさい」と人々に命じたのでありました。「天の国」。これは「神の国」と同じ意味の言葉であります。十戒の第三戒に、「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」とありますように、ユダヤ人は神という言葉を用いることを好みませんでした。それで、マタイはユダヤ人の読者に配慮して、「神の国」を「天の国」と言い表したのだと思います。また、ここで「国」と訳されている言葉は、「王国」であり、「王的支配」をも表します。ですから、「天の国」とは「神の王的支配」のことを表しているのです。天の国、神の王的支配がもうそこまで来ている。それは何を意味するかと言えば、主の日の到来であります。旧約聖書において、主の日とは、イスラエルの神、ヤハウェが全世界の王として君臨し、全世界を裁かれる日であります。その日を迎えるために、洗礼者ヨハネは「あなたたちは悔い改めなさい」と命じたのです。

2.荒れ野で叫ぶ者の声

  福音書記者マタイは、洗礼者ヨハネにおいて預言者イザヤの言葉が実現したと記しております。3節です。「これは預言者イザヤによってこう言われている人である。『荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」』」。ここでマタイはイザヤ書第40章3節の御言葉を引用しております。実際に確かめて見たいと思います。旧約聖書の1123頁です。ここでは1節から5節までをお読みします。

 慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた、と。呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを/肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。

 小見出しに、「帰還の約束」とありますように、3節のイザヤの言葉は、元々はバビロン捕囚からの帰還を預言する言葉であります。神が御自分の民をバビロンの地から導き出して、カナンの地へと導いてくださる。そのために荒れ野に道を備え、広い道を通せと主は言われるのです。

 では、今朝の御言葉に戻りましょう。新約聖書の3頁です。マタイは、洗礼者ヨハネを預言者イザヤが記した人であったと記していますが、まさしくヨハネの宣教の場は、ユダヤの荒れ野であり、彼は荒れ野で叫ぶ者でありました。しかし、ヨハネはバビロン捕囚からの帰還の道ではなく、主をお迎えする道を整え、その道筋をまっすぐにせよ、と命じております。つまり、「悔い改める」とは主をお迎えする道を整え、その道筋をまっすぐにすることであるのです。

3.悔い改めの洗礼

 4節に、「ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物にしていた。」とありますが、この服装は旧約時代の預言者、特にエリヤと同じであります(列王下1:8参照)。私はここに、ヨハネの自己主張、自分はエリヤの使命を担う者であるとの主張を見ることができると思います。なぜなら、旧約聖書の最後の預言書であるマラキ書は、主の日の到来に先立って、エリヤが遣わされることを記しているからです。このところも実際に確認してみたいと思います。旧約聖書の1501頁です。マラキ書の第3章19節から24節までをお読みいたします。

 見よ、その日が来る/炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は/すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには/義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように/躍り出て跳び回る。わたしが備えているその日に/あなたたちは神に逆らう者を踏みつける。彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため/ホレブで掟と定めを命じておいた。見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。

 このようにマラキ書は、主の日が来る前に預言者エリヤが遣わされることを預言しておりました。洗礼者ヨハネは、そのエリヤとして、主の日の到来を「天の国は近づいた」という言葉で言い表し、人々に悔い改めるようにと命じたのです。そして、このヨハネのもとに、エルサレムとユダヤ全土から、またヨルダン川沿いの地方一帯から人々が来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けたのでありました。 では、今日の御言葉に戻ります。新約聖書の4頁です。

 ヨハネのもとに来た人々は、彼らのもろもろの罪を告白し、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたのでありますが、ここで「洗礼」と訳されている言葉(バプティゾー)の元々の意味は「水の中に浸す」という意味であります。ヨルダン川は、ヘルモン山などを水源としてパレスチナを縦断し死海へと流れ込む大きな川でありますが、その川の中で人々はヨハネから洗礼を受けたのです。彼らはヨハネによって頭まで水の中にザブッンと沈められたわけであります。ヨハネは、悔い改めたことのしるしとして洗礼を授けましたけれども、当時、洗礼は異邦人がイスラエルの宗教に改宗する際に行われた儀式でありました。イスラエル人ではない異邦人が、イスラエルの神を信じて、その共同体の一員となるために、洗礼を受けることと割礼を受けることが求められていたのです。しかし、ヨハネはイスラエルの民にも悔い改めることを求め、そのしるしとして洗礼を授けたのであります。悔い改めるべきであるのは、異邦人だけではありません。神の民であるイスラエルこそ、悔い改めの洗礼を受けて、主の日を迎える備えを、今、しなければならないのです。

4.悔い改めにふさわしい実を結べ

 7節から9節に次のように記されています。「ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。『蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。「我々の父はアブラハムだ」などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。』」。同じような激しい言葉がルカによる福音書にも記されておりますが、ルカでは「群衆」に対して言われているのに対して、マタイによる福音書では、「ファリサイ派やサドカイ派の人々」に対して語られております。ファリサイ派は、律法を厳格に守っていたまじめな人々でありました。また、サドカイ派は、裕福な祭司階級でありました。「ファリサイ派やサドカイ派の人々」は、当時のユダヤの指導者たちであったのです。しかし、ヨハネは彼らを「蝮の子らよ」と呼びかけ、洗礼は悔い改めのしるしであり、洗礼は悔い改めの実を結んでこそ意味があると語るのです。ヨハネは彼らの心の中にある選民意識、「自分たちはアブラハムの子孫である」という選民意識が主の裁きの前には何の役にも立たないと断言いたします。ヨハネは、「天の国は近づいた」と言いましたけれども、それは言い換えれば、「斧は既に木の根元に置かれている。」ということであるのです。ここから私たちが教えられますことは、ヨハネにとって、主の日とは何よりも裁きの日であるということです。斧は既に木の根元に置かれているのですから、悔い改めにふさわしい良い実を結べとヨハネは言うのです。もし、そうでないなら、切り倒されて火に投げ込まれるとヨハネは言うのであります。

5.ヨハネよりも力ある方

 7節から9節までは、ファリサイ派やサドカイ派の人々に向けて語られた言葉でありますが、11節、12節は、ヨハネのもとに来たすべての人々に対して語られた言葉であります。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」。マルコによる福音書とルカによる福音書では、ヨハネの洗礼は、「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」でありますが、マタイによる福音書は、「罪の赦し」については記さず、「悔い改めの洗礼」とだけ記されています。なぜなら、罪の赦しはヨハネの後から来る方、イエス・キリストにおいて与えられるからです(1:21参照)。ヨハネの役割は、人々を悔い改めへと導くところまでであるのです。普通、後から来る者は、先の人の弟子であったり、先の人より劣った者であるのですが、しかし、この方においてはそうではありません。なぜなら、ヨハネの後から来る方は、ヨハネよりも優れたお方、力あるお方であるからです。「履物を脱がせること」は、奴隷にとっても卑しい仕事でありましたが、ヨハネは自分はそれをするのにも値しないと言うのです。また、ヨハネより後から来る方が、ヨハネより優れていることは、洗礼によっても明かであります。ヨハネが水で洗礼を授けていたのに対して、来るべきお方は、聖霊と火で洗礼をお授けになるのです。このようなお方は、約束のメシア、救い主に他なりません。天の国はこのメシア、救い主によって到来しつつあるのです。水は外面の汚れを清めますけれども、聖霊は私たちの内面を清めることがおできになります。私たちキリスト者が受けたのはこの聖霊による洗礼であります。父と子と聖霊の御名によって注がれる水の洗いは、聖霊による洗礼を受けたことの目に見えるしるしであるのです。私たちは聖霊の洗礼を受けることによって、すべての汚れから清められ、主の掟に従って歩む新しい心を与えられたのです(エゼキエル36:25~27参照)。

結.裁き主としての主イエス 

 ヨハネは自分の後から来られる方が、「聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」ことに続いて、「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」ことを記しました。私はこの二つを一体的に捉えることが大切であると思います。と言いますのも、聖霊が与えられることについて、エゼキエル書の第36章25節から27節に次のように記されているからです。旧約聖書の1356頁です。

 わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。

 このように聖霊を与えられた者たちは、良い実を結ぶことができる者とされているわけです。聖霊の洗礼を受けた私たちは、良い実を結ぶことができる者とされているのです(ヨハネ15:1~10参照)。ですから、私たちも悔い改めにふさわしい、良い実を結ぶことができるのです。たとえそれが不完全であっても、聖霊を与えられた私たちは良い実を結ぶことを主イエスから期待されているのです。

 今朝の御言葉に戻ります。新約聖書の4頁です。

 「そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」。この12節の御言葉は、再臨のイエス様において実現することであります。私たちが使徒信条において、「そこから来られて、生きている者と死んでいる者とを裁かれます。」と告白しておりますように、イエス様が栄光の主として来られる日に、主の日の裁きは実現するのです。私たちは今、待降節、アドベントを迎えておりますけれども、待降節は、かつて来られたイエス・キリストが、裁き主として再び来られることを思い巡らす季節でもあります。そのような私たちに対しても、洗礼者ヨハネは、「悔い改めよ」と命じているのです。「わたしはイエス・キリストを信じているから大丈夫だ」と思って安心している私たちに、「悔い改めにふさわしい実を結べ」とヨハネは言うのです。洗礼者ヨハネの「悔い改めよ」との言葉は、聖霊を与えられ、イエス・キリストの御心を知っている私たちにこそ、向けられているのです。

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