イエス・キリストの系図 2012年11月11日(日曜 朝の礼拝)

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イエス・キリストの系図

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 1章1節~17節

聖句のアイコン聖書の言葉

1:1 アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
1:2 アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、
1:3 ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、
1:4 アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、
1:5 サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、
1:6 エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、
1:7 ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサを、
1:8 アサはヨシャファトを、ヨシャファトはヨラムを、ヨラムはウジヤを、
1:9 ウジヤはヨタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、
1:10 ヒゼキヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、
1:11 ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。
1:12 バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを、
1:13 ゼルバベルはアビウドを、アビウドはエリアキムを、エリアキムはアゾルを、
1:14 アゾルはサドクを、サドクはアキムを、アキムはエリウドを、
1:15 エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、
1:16 ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。
1:17 こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。マタイによる福音書 1章1節~17節

原稿のアイコンメッセージ

序.

 今朝からマタイによる福音書をご一緒に読み進めていきたいと願っております。マタイによる福音書は、伝承によれば、使徒マタイによって記された福音書であると言われております。そのことに懐疑的な学者も多いのですが、この福音書がギリシャ語の堪能なユダヤ人キリスト者によって書かれたことは確かなことであります。私としては、伝承に従って、この福音書の著者を「マタイ」と呼びたいと思います。マタイによる福音書全体を呼んで分かりますことは、マタイはこの福音書をユダヤ人と異邦人の読者に向けて記しているということです。もっと言えば、マタイによる福音書は、ユダヤ人と異邦人とからなる教会のために記された福音書であるのです。マタイによる福音書を読むとき、マタイがユダヤ人を読者として強く意識していることは、この福音書が、「イエス・キリストの系図」から書き始められていることからも分かります。ユダヤ人は系図を大変重んじました。そのことは旧約聖書、特に歴代誌などを読みますと、すぐに分かります。歴代誌上の第1章から第9章には、長々と系図が記されていますが、それはユダヤ人が系図を重んじたことを如実に表しています。今朝は、マタイが記した、「イエス・キリストの系図」についてご一緒に学びたいと願っております。

1.アブラハムの子、イエス・キリスト

 1節に、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」と記されています。私たちの用いている新共同訳聖書は、「アブラハムの子ダビデの子」と記しておりますが、新改訳聖書は、「アブラハムの子」と「ダビデの子」との間に、句読点を打っております。新共同訳聖書のように、「アブラハムの子ダビデの子」と続けて翻訳すると、「アブラハムの子」は「ダビデの子」にかかって、「アブラハムの子であるダビデの子」となります(口語訳参照)。しかし、私は、新改訳聖書のように、「アブラハムの子」と「ダビデの子」との間に句読点を打った方がよいと思っております。「アブラハムの子」と「ダビデの子」との間に句読点を打ちますと、「アブラハムの子」も、「ダビデの子」も、イエス・キリストにかかるようになるわけです。そして、これこそ、マタイが私たちに伝えたいことであると思うのであります。イエス・キリストは、アブラハムの子であり、ダビデの子である。そのことをマタイは、系図によって、私たちに伝えているのです。

 イエス・キリストは、アブラハムの子である。この主張は、どのような意味を持っているのでしょうか。血縁からすれば、すべてのユダヤ人がアブラハムの子であるわけですから、ここには、特別な意味が込められています。それは、主なる神が、アブラハムに与えられた約束と関係があります。私たちは夕べの礼拝で、創世記を学んでおりますが、その第22章に、「アブラハムがイサクをささげる」お話が記されています。その15節から18節までをお読みいたします。旧約聖書の32頁です。

 主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。御使いは言った。

「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

 主なる神は、アブラハムに、「地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る」と自らにかけて誓われました。そして、マタイは、このアブラハムの子孫こそが、イエス・キリストであると宣言しているのです。主なる神は、アブラハムの子孫によって、地上のすべての諸国民を祝福するという約束を、イエス・キリストにおいて成就してくださったのです。ですから、イエス・キリストの救いは、ユダヤ人だけではなく、すべての民にも及ぶのであります。イエス・キリストは、私たちに主の祝福を与えるアブラハムの子孫であるのです(ガラテヤ3:16参照)。では、今朝の御言葉に戻ります。新約聖書の1頁です。

2.ダビデの子、イエス・キリスト

 次に、イエス・キリストがダビデの子であるとの主張について、見ていきたいと思います。イエス・キリストは、ダビデの子である。この主張の背後には、主なる神が、預言者ナタンを通してダビデ王に告げられた預言があります。サムエル記下第7章11節後半から17節までをお読みいたします。旧約聖書の490頁です。

 主はあなたに告げる。主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が過ちを犯すときは、人間の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。あなたの前から退けたサウルから慈しみを取り去ったが、そのようなことはしない。あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」

 ナタンはこれらの言葉をすべてそのまま、この幻のとおりにダビデに告げた。

 このナタンの預言に基づいて、ユダヤ人はダビデの子孫からメシア、救い主が起こさることが待望しておりました。マタイは、イエス・キリストこそが、王権をとこしえに堅く据えるダビデの子であると主張しているのです。今朝の御言葉に戻ります。新約聖書の1頁です。

 このようにイエス・キリストの系図は、単なる血縁関係を表しているのではなくて、神の約束に従って記されているのです。言い換えれば、ここには、神の約束を受け継ぐ者たちの系図が記されているのです。そして、アブラハムに始まり、ダビデに受け継がれた神の約束は、イエス・キリストにおいて実現した。そのことをマタイは、系図をもって私たちに示しているのです。今朝の御言葉の最後、17節に次のように記されています。「こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である」。マタイは、イエス・キリストの系図を大きく三つに分け、それぞれ14代ずつ記しました。これはマタイが意図的に編集したものでありますが、マタイは、完全数である7の二倍の14を三度重ねることによって、神の準備期間が満ちたことを表したのです。

3.イエス・キリストの系図

 マタイは、イエス・キリストがアブラハムの子であり、ダビデの子であることを系図によって示したのでありますが、最後に、系図そのものについて見ていきたいと思います。この系図で、何よりも私たちの目を引くのが、マリアを除いて、4名の女性の名前が記されていることです。3節に、「ユダはタマルによってペレツとゼラを」とありますが、「タマル」は女性です。また、5節に、「サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを」とありますが、「ラハブ」と「ルツ」は女性であります。さらに、6節後半に、「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」とありますが、「ウリヤの妻」が女性であります。このようにイエス・キリストの系図には、タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻の四人の女性が出て来るのです。タマルについては、創世記の第38章に記されています。そこには、義父であるユダが息子を自分の夫として与えてくれないゆえに、遊女に変装して、ユダと関係を持ち、子供を宿したことが記されています。また、ラハブについては、ヨシュア記の第2章に記されています。ラハブは遊女でありましたが、エリコを探りに来た兵士たちをかくまったゆえに、滅ぼされずに済みました。ちなみにラハブによってボアズが生まれたことは、旧約聖書には記されておらず、この系図にだけ記されていることであります。ルツについては、ルツ記を読むとお分かりのように、義理の母であるナオミに尽くしたモアブの女であります。最後、ウリヤの妻でありますが、ウリヤの妻については、サムエル記下の第11章に記されています。そこには、ウリヤの妻が「バト・シェバ」という名前であったことが記されています。ダビデ王は、バト・シェバがウリヤの妻であることを知りながら、彼女を召し入れて姦淫の罪を犯しました。さらにダビデは、ウリヤを戦闘の激しい最前線に送ることによって、殺人の罪をも犯したのです。この4人は、それぞれに逸話を持つ女性たちでありましたけれども、なぜ、マタイはこの4人の女性の名をイエス・キリストの系図の中に記したのでしょうか?ある人は、この4人は罪の女性である。マタイはイエス・キリストの系図の中に罪深い女性たちの名を記すことによって、イエス・キリストが罪を担って生まれてくださったことを教えているのだと主張します。けれども、本当にそうでしょうか?確かにタマルは、遊女に変装して義理の父であるユダと関係を持ちました。しかし、それはユダが当時の習慣に反して、タマルに息子を夫として与えなかったからです。ユダ自身が、「わたしよりも彼女の方が正しい。わたしが彼女を息子のシェラに与えなかったからだ」と言っているように、聖書はタマルを決して罪ある女として描いていないのです。また、ラハブは確かに遊女でありましたが、むしろイスラエルの神、主を畏れる女として描かれています。ルツはモアブ人でしたが、やはりイスラエルの神である主を信じ、義理の母に仕えた立派な女性として描かれています。ウリヤの妻であるバトシェバについては、むしろ被害者です。ですから、この4名の女性を罪ある女と見ることは、間違いであると思います。では、この四名の女性に共通なことは何でしょうか?それは、この4名の女性がいずれもユダヤ人ではない、異邦人であったということです。タマルとラハブは、カナン人であったと思われます。ルツはモアブ人です。ウリヤの妻は、ウリヤがヘト人でありましたから、ヘト人と同じように扱われているのだと思います。なぜ、マタイはイエス・キリストの系図の中に、異邦人の女性の名前を記したのでしょうか?

 そもそも、なぜ、人は系図を記すのでしょうか。それはその系図によって自分の家柄や血筋の良さを示すためであると思います。もし、マタイがそのような目的で系図を記したならば、異邦人である四人の女性の名前を記さなかったはずです。しかし、マタイは異邦人の女であるがゆえに、この4人の女性の名前を記しました。それは、マタイがこの系図によってイエス・キリストの家柄や血筋の良さを示すことが第一のこととせず、アブラハムに始まり、ダビデへと受け継がれた神の契約を指し示すものであるからです。この異邦人である4人の女性たちは、アブラハムの子であるイエス・キリストの祝福にすべての民があずかること、またダビデの子であるイエス・キリストの王権にすべての民が入れられることの、いわば「しるし」であるのです。ユダヤ人の血が、約束のメシアを生み出すのではないのです。系図の背後に流れている神の契約に対する真実が、約束のメシアを生み出すのです。御自分の契約に真実である神が、メシアと呼ばれるイエスをヨセフの妻マリアから生んでくださるのです。16節に、「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」と記されています。この所だけ書き方が違うことにすぐにお気づきになると思います。なぜ、「ヨセフはマリアによってイエスをもうけた」とマタイは記さなかったでしょうか?それは、次週学ぶ18節以下に記されているように、ヨセフのいいなずけであるマリアが聖霊によって、イエス様を身ごもるからです。イエス様とヨセフは血のつながりはありません。けれども、法的には、ヨセフはイエス様の父であり、イエス様はヨセフの子であるのです。イエス・キリストはダビデの子としてお生まれになったのです。

結.復活の光の中で系図を読む

 私たちはイエス・キリストの系図について学んできたのでありますが、実は13節の「アビウド」以下は、旧約聖書に記されておりません。ということは、アビウド以下は、マタイが入手した独自の資料に基づいて記されているということです。ですから、イエス・キリストを信じないユダヤ人たちは、当然、この系図を受け入れなかったと思います。ゼルバベルまでは、旧約聖書に記されているので受け入れたと思いますが、アビウド以下は本当かどうか分からないと言って受け入れなかったと思います。しかし、イエス・キリストを信じる者たちは、マタイが記したイエス・キリストの系図を受け入れました。それは、彼らがイエス・キリストにおいて神の祝福にあずかっていたからです。また、イエス・キリストの王的支配に入れられていたからであります。つまり、彼らは、イエス・キリストの系図を復活の光の中で読み、信仰を持って受け入れたのです。私たちは今朝からマタイによる福音書を読み進めていくわけですが、そのとき忘れてはならないことは、福音書のすべての記事が復活の光の中で記されているということです。聖書は神の霊の導きのもとに書かれた書物でありますが、それは言い換えれば、聖書はすべて復活の光の中で書かれた書物であるのです。もちろん、マタイは信頼できる資料を用いて、アビウド以下についても記したと思います。しかし、確かな系図を示せば、それによって、イエスをメシア、救い主と信じることができるわけではないのです(一テモテ1:4参照)。「メシアと呼ばれるイエス」とありますが、私たちがこのお方をメシア、救い主と呼ぶかどうかの信仰の決断が求められているのです。そして、私たちがイエスをメシア、救い主と呼ぶとき、私たちは神がアブラハムに約束された祝福にあずかり、ダビデに約束されたとこしえの王権に入れられるのです。そのとき、私たちは、イエス・キリストの系図を復活の光の中で読んでいると言えるのです。

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