わたしを救ってくださる神 2017年8月20日(日曜 朝の礼拝)

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わたしを救ってくださる神

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
詩編 88編1節~19節

聖句のアイコン聖書の言葉

88:1 【歌。賛歌。コラの子の詩。指揮者によって。マハラトに合わせて。レアノト。マスキール。エズラ人ヘマンの詩。】
88:2 主よ、わたしを救ってくださる神よ/昼は、助けを求めて叫び/夜も、御前におります。
88:3 わたしの祈りが御もとに届きますように。わたしの声に耳を傾けてください。
88:4 わたしの魂は苦難を味わい尽くし/命は陰府にのぞんでいます。
88:5 穴に下る者のうちに数えられ/力を失った者とされ
88:6 汚れた者と見なされ/死人のうちに放たれて/墓に横たわる者となりました。あなたはこのような者に心を留められません。彼らは御手から切り離されています。
88:7 あなたは地の底の穴にわたしを置かれます/影に閉ざされた所、暗闇の地に。
88:8 あなたの憤りがわたしを押さえつけ/あなたの起こす波がわたしを苦しめます。〔セラ
88:9 あなたはわたしから/親しい者を遠ざけられました。彼らにとってわたしは忌むべき者となりました。わたしは閉じ込められて、出られません。
88:10 苦悩に目は衰え/来る日も来る日も、主よ、あなたを呼び/あなたに向かって手を広げています。
88:11 あなたが死者に対して驚くべき御業をなさったり/死霊が起き上がって/あなたに/感謝したりすることがあるでしょうか。〔セラ
88:12 墓の中であなたの慈しみが/滅びの国であなたのまことが/語られたりするでしょうか。
88:13 闇の中で驚くべき御業が/忘却の地で恵みの御業が/告げ知らされたりするでしょうか。
88:14 主よ、わたしはあなたに叫びます。朝ごとに祈りは御前に向かいます。
88:15 主よ、なぜわたしの魂を突き放し/なぜ御顔をわたしに隠しておられるのですか。
88:16 わたしは若い時から苦しんで来ました。今は、死を待ちます。あなたの怒りを身に負い、絶えようとしています。
88:17 あなたの憤りがわたしを圧倒し/あなたを恐れてわたしは滅びます。
88:18 それは大水のように/絶え間なくわたしの周りに渦巻き/いっせいに襲いかかります。
88:19 愛する者も友も/あなたはわたしから遠ざけてしまわれました。今、わたしに親しいのは暗闇だけです。詩編 88編1節~19節

原稿のアイコンメッセージ

 ドイツの旧約学者であるクラウス・ヴェスターマンが書いた書物に、『詩編選釈』という書物があります(大串肇訳、教文館、2006年)。その書物においてヴェスターマンは、詩編を「ほめたたえ」と「嘆き」の二つに分類しています。ほめたたえとは、神に向けられて言葉となった喜びであり、嘆きとは、神に向けられて発せられた苦しみであるのです(26頁参照)。さらに、ヴェスターマンは、詩編の主体に従って、個人または共同体の詩編に分類いたします。よって、詩編のおもな様式は次の四つであると言うのです。

①民の嘆きに詩編(詩80)

②民のほめたたえの詩編(詩124、113)

③個人の嘆きの詩編(詩13)

④個人のほめたたえの詩編(詩40、103)

この分類から申しますと、今朝の詩編88編は、「個人の嘆きの詩編」であると言えます。4節に、「わたしの魂は苦難を味わい尽くし/命は陰府にのぞんでいます」とあります。詩人は死を間近に感じる重い病を患っているようです。また、9節に、「あなたはわたしから親しい者を遠ざけられました。彼らにとってわたしは忌むべき者となりました。わたしは閉じ込められて、出られません」とありますから、詩人の病は宗教的な汚れと見なされていたようです。祭司によって汚れていると判断された人は、イスラエルの共同体から離れて暮らさねばなりませんでした(レビ記13章参照)。汚れは移るとされていたからです。そこには病気の感染を防ぐという目的があったのかも知れません。しかし、病を患っている人にとっては、寂しいことでありました。詩人は病のゆえに、汚れた者と見なされ、イスラエルの社会から閉め出されていたのです。詩人は、汚れと見なされるその病が神様から与えられたものであると語ります。自分から親しい者を遠ざけたのは、他ならない「あなた」、神様であるのです。また、8節には次のようにも記されています。「あなたの憤りがわたしを押さえつけ/あなたの起こす波がわたしを苦しめます」。死を間近に感じる重い病、汚れと見なされる病を通して、詩人は神の憤りを感じています。神の憤りによって、自分は今、このような苦しみにあっているのだと彼は言うのです。それゆえ、詩人は、昼も夜も神様に救いを祈り求めるのです。2節、3節をお読みします。「主よ、わたしを救ってくださる神よ/昼は、助けを求めて叫び/夜も、御前におります。わたしの祈りが御もとに届きますように。わたしの声に耳を傾けてください」。ここに、詩人が最も言いたいことが記されています。4節以下は、神様に祈りを聞いていただくための現状報告であると言えます。「わたしはあなたによって、以下のような状況にありますから、どうぞ、わたしの祈りに耳を傾けてください」と詩人は訴えているのです。6節で、詩人は墓に横たわる死者について語ります。死んだ人と神様との関係はどうなるのか?詩人はそのことについて否定的であります。つまり、詩人にとって死とは神様との交わりから閉め出されてしまうことであるのです。11節から13節をお読みします。「あなたが死者に対して驚くべき御業をなさったり/死霊が起き上がって/あなたに感謝したりすることがあるでしょうか。墓の中であなたの慈しみが滅びの国であなたのまことが/語られたりするでしょうか。闇の中で驚くべき御業が/忘却の地で恵みの御業が/告げ知らされたりするでしょうか」。これは、いずれも否定的な答えを期待する問いかけであります。つまり、詩人は、「神様は死者に対して驚くべき御業をすることはないし、死霊が起き上がって神様に感謝したりすることはない。墓の中で神様の慈しみが滅びの国で神様のまことが語られたりすることはない。忘却の地で恵みの業が告げ知らされたりすることはない」と語っているのです。だから、詩人は生きている間に、わたしの祈りを聴いてくださいと訴えるのです。詩人の願いは、病を癒されて、きよい者とされ、再び、イスラエルの共同体の中で、愛する者や友と一緒に、神様をほめたたえること、神様を礼拝することであるのです。この詩人の願いが聞き届けられたのかは、分かりません。と言いますのも、この詩編にはそのことが記されていないからです。むしろ、この詩編の終わりは、暗い言葉で終わっています。「愛する者も友も/あなたはわたしから遠ざけてしまわれました。今、わたしに親しいのは暗闇だけです」。詩人は汚れと見なされる重い病のゆえに、愛する者から遠ざけられ、暗闇の中にいる。そして、そこから、神様に祈りをささげるのです。「主よ、わたしを救ってくださる神よ」と。ここで「主」と訳されている言葉は、元の言葉では「ヤハウェ」という神様のお名前であります。ヤハウェとは、その昔、神様がモーセにお示しになったお名前で、「わたしはある」という言葉に由来すると考えられています(出エジプト3:14参照)。「わたしはあなたたちと共にいる」、これが主、ヤハウェというお名前の意味です(出エジプト3:12参照)。そして、主は、そのお名前のとおり、モーセと共にいてくださり、また、イスラエルの民と共にいてくださいました。主はイスラエルと共におられる神として、イスラエルの人々をエジプトの奴隷状態から救い出し、シナイ山で契約を結び、御自分の宝の民としてくださったのです。そのイスラエルの神、主(ヤハウェ)に、詩人は呼びかけているのです。「主よ、わたしを救ってくださる神よ」。これは詩人の信仰告白の言葉であります。詩人は、死を間近に感じる苦難の中にあって、「主はわたしを救ってくださる神である」と告白するのです。そして、そのように信じるがゆえに、暗闇の中にあっても、助けを求めて叫び続けることができるのです。ここにあるのは、詩人の驚くべき信仰であります。イスラエルを救ってくださった主は、わたしを救ってくださる主でもあられるという信仰です。そのような詩人の祈りに、神様は耳を傾けてくださらないでしょうか?いつまでも御顔を隠しておられるでしょうか?詩編そのものはそのことについて沈黙しております。しかし、この祈りによって、詩人は苦難の中にあっても、神様の御前に生きることができたのです。この祈りによって、詩人は闇の中にあっても、神様との交わりにあずかり続けることができたのです。

 詩人は、「神様が死者に対して驚くべき御業をなさったり、死者が起き上がって神様に感謝をささげることはない」と語りました。しかし、福音書記者ルカは、十字架に死んで葬られたイエス・キリストを神様が復活させられたと記しています。先程は、詩編88編に合わせて、ルカによる福音書の御言葉を読みました。イエス様の墓を訪れた婦人たちに対して、二人の天使はこう告げました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」。詩人は、神様が死者に驚くべき御業をしてくださることも、死者が起き上がって神様に感謝をささげることもないと言いました。しかし、神様はイエス・キリストを復活させてくださることによって、死者が復活して神様に感謝をささげるようになることを示してくださったのです。それゆえ、イエス・キリストの復活を信じる者たちにとって、墓はこれまでとは全く違う、新しい意味を持つようになったのです。イエス・キリストが墓に葬られ、墓から復活されたことにより、墓はイエス・キリストを信じる者たちにとって、復活を待ち望む休憩所となったのです。主イエス・キリストを信じる者は、死んだ後どうなるのか?そのことを、ウェストミンスター小教理問答は次のように告白しています(問37)。「信者の霊魂は、死の時、全くきよくされ、直ちに栄光にはいります。信者の体は、依然としてキリストに結び付けられたまま、復活まで墓の中で休みます」。死とは「魂と体の分離である」と言えます(コヘレト12:7参照)。イエス・キリストを信じて死んだ者の魂は、死の時、全く清くされ、イエス様がおられる天国に入ります(ルカ23:43「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」参照)。ですから、イエス様を信じて、墓に葬られている故人の魂は、神様とイエス様がおられる天にあるのです。天で、神様とイエス様を礼拝しているのです。また、故人の遺体(遺骨)は、依然としてキリストに結ばれたまま、墓の中で休んでいるのです。そして、イエス・キリストが再び来られる日、イエス・キリストと同じように朽ちることのない栄光の体で復活させられるのです。これが、イエス・キリストを通して、神様が私たち人間に与えてくださっている希望であります。神様は、「主よ、わたしを救ってくださる神よ」と祈り求めるすべての人に、イエス・キリストを通して、御自分が死者を復活させられるお方であることを示されたのです。神様はイエス・キリストを復活させることによって、神様と私たちとの交わりが死を越えて続いていくこと、死の力も神様と私たちとの交わりを引き裂くことはできないことを示されたのです。

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