2019年08月11日 朝の礼拝説教「神の言葉の聞き方」

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神の言葉の聞き方

日付
説教
細田眞 牧師
聖書
ルカによる福音書 8章4節~15節

聖書の言葉

4大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。5「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。6ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。7ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に落ちて、押しかぶってしまった。8また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。

9弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。10イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、

『彼らが見ても見えず、

聞いても理解できない』

ようになるためである。」

11「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。12道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。13石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。14そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いがふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。15良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」

ルカによる福音書 8章4節~15節

メッセージ

伝道は神の言葉の種蒔きであると言われます。種が大地に落ちますと、地中で根を張り、やがて芽を出します。やがて茎が上に伸び、その先に花を咲かせます。そして、やがて実を結ぶことになるのです。それに似て、御言葉という種は、それを聞き、信じた人の人生の中で実を結ばせるのです。現在福島伝道所では伝道のためにチラシを配っています。先月の終わりに三万枚ほどのチラシを印刷しました。このチラシを福島市内の各家庭のポストに入れたり、あるいは直接に人々に手渡しをしたいと考えています。市内をくまなく回って、できるだけ多くの人々にチラシを見ていただくことを願っています。教会にじっとしているだけでは伝道することはできません。御言葉の種蒔きをしなくてはならないのです。

先程、皆さんにはルカによる福音書の8章の4節から15節を聞いていただきました。11節の中程に、「種は神の言葉である。」と記されていますように、まさにここでは伝道が種蒔きにたとえられています。少し前の8章1節に、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた、と記されています。主イエスはガリラヤ地方の町や村をくまなく行き巡って旅を続けられました。それは主イエスが神の国をこの地方の人々に告げ知らせようとなさったからです。主イエスはこの地方に遍(あまね)く御言葉の種を蒔こうとされたのです。

この御言葉の種蒔きであります伝道は、やがて使徒と呼ばれる主イエスの弟子たちによって担われるようになります。そして使徒のパウロらによってこの御言葉の種蒔きは、異邦人世界、やがては海を越えたギリシャでも実行されるようになるのです。

主イエスのなさった種を蒔く人のたとえを読んでみますと、主イエスもそして弟子たちも随分と多くの苦労をしたことがうかがえます。彼らが御言葉の種蒔きであります伝道に赴きますと、幾つもの困難が彼らの前に立ちはだかりました。また多くの試練が彼らに降りかかったようです。せっかく御言葉の種を蒔いても、道端に落ちた種は人に踏みつけられ、空の鳥についばまれて、食べられてしまいます。蒔かれたその側(そば)から取り付く島もなく御言葉の種は取り去られてしまうのです。石地に落ちた種は根を出したものの、水分がないので成長することができませんでした。そのままの状態で種はひからび、枯れてしまったのです。茨の中に落ちた種は芽を出して生長したようですが、茨も生い茂りました。そして茨は種から生えた芽に覆いかぶさってきたのです。

私たちはこのたとえを読みますと、随分と効率の悪い種蒔きをしたものだと考えてしまいます。なぜ最初から軟らかい土の上に種を蒔かないのだろうと考えてしまうのです。一説には当時のパレスティナの農民は畑を耕す前に種を蒔いたと言われています。ですから、種は軟らかい土の上には落ちずに、周囲の道端や石地や茨の中に落ちることが少なくなかったようです。

それと共にこのたとえには、このルカによる福音書が書かれた当時の教会が直面した伝道の困難が反映されているようです。幾ら福音を説いても、なかなか受け入れてもらうことができない伝道の苦労がこうした種蒔きの失敗例の裏側にはあったようです。伝道者たちは、ユダヤ人からの反発あるいは伝道に赴いた先の人々からの冷淡な態度に出会うことも少なくなかったのです。       

私たちがほっとしますのは、ようやく四番目に良い土地に落ちた種のたとえが記されていることです。8節に、「また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」と記されています。良い土地というのは耕かされて、柔らかくなった土地を指します。そのような土地に落ちた種は地中に深く根を張り、芽を出すことによって、茎を上に伸ばすことができます。そして、当初の予想をはるかに上回る百倍の実を結ぶようになると、主イエスは言われるのです。

ある人が、これまで伝道の容易だった時代はないと語りました。確かに二千年に及ぼうとする教会の歴史の中で伝道が順風満帆に進んだ時代はほとんどなかったと思います。どの時代にも教会の外側には幾つもの困難があって、伝道の妨げとなりました。教会がその内側に抱えた問題が足枷になって、伝道の歩みを妨げたこともありました。そうした幾つもの困難がこのたとえにおける多くの種蒔きの失敗として表現されているのです。  

しかし、そうした数多くの失敗例にもかかわらず、伝道は前進したのです。良い土地に落ちて、百倍の実を結んだ種のたとえというのは、他の失敗を補って、なお余りのある成功を表わしています。こうした成功例は多くないのかもしれません。しかし蒔かれた御言葉の種は生え出して、百倍の実を結んだのです。そして、その御言葉の種の実りに支えられて、伝道は主イエスの時代から今日に至るまで受け継がれてきたのです。

福音書が伝えています主イエスのたとえを用いた種の説明を読む時に、強く印象付けられるのはそのイメージの豊かさです。主イエスは人々が日常生活での中で触れているもの、あるいは使用しているものを巧みにたとえの中に登場させられます。そして説教に耳を傾けている人々の内側で、そのイメージが豊かに膨らんでいくのです。ご一緒に読んでまいりました種蒔きのたとえは、まさにそのようなたとえであります。さらに、このたとえには11節から、たとえの説明も付け加えられています。主イエスはたとえの意味を尋ねる弟子たちに「あなたがたは神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。」とお答えになりました。10節の御言葉です。

主イエスは大勢の群衆にはたとえをお語りになりました。おそらく人々はイメージ豊かなたとえに喜んで耳を傾けたことでしょう。しかし、それ以上ではありませんでした。主イエスは「弟子であるあなたがたにはたとえに込められた神の国の秘密を説き明かす」とおっしゃったのです。主イエスは先にお語りになった一つ目のたとえについて、こう説明をされます。道端に落ちて取り付く島もなく取り去られてしまった種というのは悪魔によって心から御言葉を取り去れた人のことであると主イエスは言われるのです。教会が伝道をして、人々に御言葉の種を蒔きますと、その側(そば)から、悪魔が来て、御言葉を奪い去ってしまうと主イエスは言われるのです。

石地に落ちた種というのは、御言葉を受け入れても、それが長続きしない人のことであると、主イエスは言われます。伝道説教を聞いて、魂が揺さぶられるような経験をして、感動の内に洗礼を受ける方がいらっしゃいます。その時には、主イエスと共に人生を新しく始めて、信仰生活をまっとうしようと固く心に決めていたはずです。しかしそのような人の中に、試練や困難に遭うとあっさりと信仰を捨ててしまう人がいるのです。主イエスは「そのような人は、御言葉の種が根を下ろしていない人である。」と言われます。

三番目の茨の中に落ちた種というのは、御言葉を聞いても、その人の心を人生の思い煩いや富や快楽への思いが占領して実を結ぶに至らない人のことである、と言われます。茨というのは旺盛な繁殖力を持つようであります。御言葉がその人の心に落ちて芽を出しても、思い煩いや富や快楽への思いがそれを上回る勢いでその人の心を占領してしまいます。そのようになりますと、その人の心の内で、思い煩いや欲望に対する思いの優先順位がどんどん上がっていくのです。御言葉を育むことはどうしても後回しになってしまいます。そのような人の人生は御言葉の実りを結ぶことがないのです。このように見ていくと私たちはこうしたたとえは伝道の失敗例を並べているだけではないかという印象を持ちます。

二年前の七月に私は福島伝道所にやってまいりました。伝道所に着きまして、すぐに私を案内してくださった長老の方が渡してくださったのが『日本キリスト改革派福島伝道所伝道開始五十周年記念誌』でした。この記念誌には1960年の伝道開始以来、約50年の間に実に多くの方がこの伝道所に出入りし、関わってくださったことが克明に記されていました。私はこの記念誌を到着した日の晩にほとんど読み終えてしまいました。

そして読み終えて、考えさせられたことは、当時この伝道所に関わった方々は、今、どうなさっているのだろうということです。どうしてこの方々が教会に留まらずに、散り散りになってしまったのか。そのことを考えさせられました。蒔かれたはずの御言葉の種が、彼らの――彼女らの――内側で、深く根を伸ばすことがなかったからでしょうか。それともたとえにありましたように、悪魔が彼らの心から御言葉を奪い去っていったのでしょうか。

私たちはこの種を蒔く人のたとえを自分たちの伝道の経験と重ね合わせて読んでしまうところがあります。日頃に伝道の苦労を経験している人がこのたとえを読みますと、もう何をしてもダメだという気持ちになってしまいます。しかしある人は主イエスのこの種を蒔く人のたとえを貫くのは、他でもない伝道の楽観主義であると言います。先程触れました四番目に出てきますたとえは「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人」のたとえであります。たとえの中では、「良い土地に落ちた種は生え出て、百倍の実を結んだ。」と語られています。

創世記の26章12節に、「イサクがその土地に穀物の種を蒔くと、その年のうちに百倍もの収穫があった。」と記されています。さらにますます富み栄えるイサクをペリシテ人がねたむほどであったということが伝えられています。百倍というのは当初考えることができないほどの法外な実りを指します。それは他の失敗や損失を補って余りあるほどの実りであります。破格な実りであり、また収穫であると言ってもいいと思います。

主イエスは弟子たちが、そして、後(のち)の教会が数々の伝道の困難に直面することをご存知だったと思います。主イエスは困難に直面して、信仰者たちが数々の失敗に陥ることもご存知だったと思います。信仰者の行く手には困難と試練が壁のように立ち塞がります。しかし、主イエスは、彼らが御言葉を聞き、守り、忍耐するならば、その壁の向こうに実りを見ることができることを示唆されたのです。主イエスは、困難な事態に神が介入してくださり、伝道の困難を打開してくださることを信じなさいと言われるのです。ですから、私たちは、伝道を阻んでいた困難が突き破られ、あるいは、取り去られて、御言葉の結ぶ実をそこに見出すことができるのです。それは百倍の実を結んだと言われていますように、法外な私たちの予想をはるかに超えた大きな実りなのです。

8節の終わりに、たとえを語り終えられた主イエスが、「『聞く耳のある者は聞きなさい』と大声で言われた」ことが記されています。この「大声で言われた」の元の言葉は「繰り返し叫んだ」という意味の言葉です。主イエスは群衆に是非ともこのたとえを聞くように、繰り返して大声で呼びかけられたのであります。

ご存知な方もいらっしゃるかもしれませんが、私の父親は昨年の一月に、94歳で亡くなりました。感謝なことに、父は亡くなる二年前に洗礼を受けてくれました。父が洗礼を受けたいと言い出したのは、その半年くらい前のことだったと思います。父は唐突に私に「お母さんの所に行きたいので、洗礼を受けたい」と言い出したのです。先に逝った妻である母の元に行きたいという、突然の申し出に私は驚きました。それと共に、私は、これは神のみ業以外の何ものでもないと感じました。私は神が父に洗礼の意志をお与えくださったと感じました。

家族伝道というのは私たち一人一人に与えられた課題です。それはとても難しい課題でもあります。同じ屋根の下で生活しているお互いでありますから、お互いの表も裏も知り尽くしている間柄です。信仰者である私の欠けや至らない所も、家族はすべて知っています。御言葉を宣べ伝えても、この私に御言葉と裏腹な部分があれば、たちまちに見透かされてしまいます。

最初は張り切って、家族に伝道しようとして、伝道集会のチラシを渡しても、やがて煙たがられるようになる。そうなってきますと、教会に誘うことも、チラシを目に付く所に置くことも止めてしまいます。

私は父の救いのために祈り続けましたけども、一向にその兆しが見えない中、十年、二十年、三十年と祈り続けました。父が九十を過ぎ、もう信仰を持つことはないのかと考え出した矢先に、父の方から「洗礼を受けたい」と言い出してくれたのです。それは全く思いがけないことでした。私はこの時、神が父に働きかけてくださったと思いました。

このルカによる福音書が伝えます種を蒔く人のたとえとその説明にはある特徴があります。主イエスは「種は神の言葉である。」とはっきり言われました。ところが、少し後になりますと、例えば、12節では、「道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。」こういうふうに記されています。このように12節になりますと、種は神の言葉を聞いたその人を指すようになっていくのです。それは続く13節でも、14節でも、そして、15節でも同じことです。これらの箇所では、神の言葉とそれを聞いた人が一体となって考えられているのです。ここで問題となりますのは、神の言葉をどのように聞くのかということです。

ある教会指導者は、今日の信仰者はもう十分過ぎるほど聖書についての知識を持っていると指摘します。その上で、この指導者は「現代の信仰者にとって必要なことは、その聖書の知識に基づいて、生きることである。」と言います。彼は「神の言葉に聞き従うことが求められている」と言うのです。

このたとえの中で、主イエスが強調なさっているのは、御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶことです。いずれも私たちが何か能動的に自分の方から行動することは求められていません。神が私たちに種として与えてくださった御言葉が私たちの内側で、芽生え、育まれ、実を結ぶに至るのを待つという言わば、受け身の姿勢が強調されているのです。この姿勢を保つためには、神に対する深い信頼が求められます。

働かれるのは神ご自身であることを知って、その神のお働きの中に、自分自身を明け渡すことが求められています。ともすると、私たちは、神のみ業が現われるのが遅いと考えがちです。自分の考えたとおりに神が働いてくださらないと、信仰そのものをさえ投げ出してしまいかねないのが私たちです。しかし、神は、私たちの思いを超えて、働き続けておられます。そして、神は、御言葉の種を、忍耐して育む者に大きな実りを与えてくださるのです。

今日、この世界を見渡してみれば、世界の隅々まで御言葉の種が蒔かれ、そして、その種の実りである教会が建てられていることに気が付きます。今日の世界で教会が建てられていない国や地域を探すことはむしろ難しいのではないのでしょうか。かつてパレスティナの小さな集団であった主イエスの弟子たちはこうした事態を想像することができたでしょうか。御言葉の種は蒔かれ、芽生え、それは大きな木に成長しました。そして、その大きな木の枝は、今や、全世界を覆っています。それが教会です。その教会につらなり、さらに御言葉の種蒔きに、励む者になりたいと思います。

お祈りいたします。        (31分09秒)

私たちの主イエス・キリストの父なる神様、

御名をあがめます。

あなたは、倦(う)むことなく繰り返し御言葉を

私たちに届けてくださいます。

たとえ御言葉が人々の間で、取り付く島もなく

取り去られたり、

あるいは、人間の思い煩いや欲望によって

覆われてしまうようなことがあっても、

なお、あなたは御言葉を届けてくださいます。

どうぞ、今一度、私たちが、あなたが届けてくださる

御言葉に正面から向き合い、

耳を傾ける者とならせてください。

そして、どうか、与えられた御言葉を

私たちがその内側で育むための忍耐を

お与えください。

そして、どうか、御言葉の種を育み、実を結ぶに

至らせてくださるあなたご自身に対する信頼を

厚くしてください。

どうか、私たちが、その人生の中で

御言葉の種の実りを見ることができるように

させてください。

イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。(32分48秒)

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