2019年06月02日 朝の礼拝説教「イエスに従う女性たち」

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イエスに従う女性たち

日付
説教
細田眞 牧師
聖書
ルカによる福音書 8章1節~3節

聖書の言葉

1すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。2悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、3ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。ルカによる福音書 8章1節~3節

メッセージ

さきはどルカによる福音書の8章の1節から3節を聞いていただきました。今晩ご一緒に読み進んでいきますのは、このわずか3節の短い箇所です。私は今回の説教を準備するために、この箇所を最初に読んだ時、ここから説教することはできるのだろうかという思いにとらわれました。7章に記されています主イエスの足を涙でぬらした女の物語と、そしてこの8章4節からの種を蒔く人のたとえの間の、つなぎではないかとも考えさせられました。

しかし、私たちが読んでおります新共同訳聖書では、この8章の1節から3節の段落を区切って、「婦人たちが奉仕する」という小見出しを付けているのです。これはこの段落の3節の中にあるまとまった内容が含まれていることを表しています。この3節に説教すべき内容が含まれていることを表わしているのです。

主イエスは、ガリラヤ地方の町や村を巡回されて、伝道なさいました。その様子を1節はこのように伝えております。すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。「巡って旅を続けられた」と訳されています元の言葉には「歩きまわる」という意味があります。主イエスは、ガリラヤ地方の町や村を残らず巡り歩いて、神の国の伝道をなさろうとされたのです。

このようにして主イエスが宣べ伝えようとされた神の国というのは、神のご支配が始まった――開始された――という知らせです。悪しき霊に支配され、その虜となっていた人間を、神が、ご自分の支配の下に取り戻してくださるという知らせです。主イエスは、ガリラヤで伝道されて間もない頃に、ナザレの会堂で、イザヤ書の御言葉を読み上げられました。それがルカによる福音書の4章の18節です。

主の霊がわたしの上におられる。

貧しい人に福音を告げ知らせるために、

主がわたしに油を注がれたからである。

主がわたしを遣わされたのは、

捕らわれている人に解放を、

目の見えない人に視力の回復を告げ、

圧迫されている人を自由にし、

19主の恵みの年を告げるためである。

 主はこの御言葉を朗読されますと、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」(21節)と宣言されました。

 

当時のユダヤ人たちは、会堂で、律法の説き明かしを受けていました。そして、律法に基づいて自分たちがどう生きるかを学んでいました。彼らは自分たちが何をすべきかについては知っていました。しかしそれを何によって実現するのかについては、知りませんでした。それに対して、主イエスは神の国が今や出来事として起こっていることを人々に告げられました。そして、この神の国こそが、人間を神の下に取り戻し、人間を自由にすることを人々に告げ知らせたのであります。

主イエスが、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたときに実現した。」と言われた時から今(こん)日(にち)まで、神の国は出来事としてわたしたちの間で起こっています。礼拝で神の御言葉が語られる時、主イエスはそこにご臨在くださいます。そして、このおかたはさまざまな思い患いや神ならざるものに捕らわれている私たちに語りかけてくださり、そして、私たちが御言葉に信頼して、私たちがその信仰と生活を御言葉に投げかけていくように促してくださるのです。私たちがこの神の言葉に従って生き始める時に、私たちは、思い患いや神ならざるものから解き放たれるのです。そして神のご支配の中に移されて行くのであります。

主イエスがガリラヤ地方にあまねく神の国を宣べ伝えられている時、その傍らには十二人の姿がありました。この十二人というのは、主イエスがお選びになり、使徒と名付けられた弟子たちのことです。弟子たちは主イエスの側近くで生活をすることを許され、主イエスと共に寝起きをしました。さらに弟子たちは主イエスの伝道旅行に同行して、主イエスの説教の身近な聞き手となりました。また彼らは主イエスの奇跡や癒しの目撃者ともなりました。後に弟子たちは教会の指導者になります。彼らは主イエスの十字架の御言葉を、彼らがその目で見聞きした様々な経験と共に、人々に語ったのであります。

さきほどこのルカによる福音書の8章の1節から3節は短い箇所ではありますけども、あるまとまった内容が含まれているというお話をしました。実はこれはルカによる福音書だけに記されている記事であります。この福音書をしたためた人物は、伝道旅行をする主イエスの一行に女性たちが同行していたことを是非とも伝えたいと考えたようです。

私たちは聖書を読む時に、自分たちが身に付けています今日的な感覚で読んでしまう傾向があります。そうしますと、主イエスの一行に女性が加わっていたこともあっさりと読み進んでしまいます。しかし当時のユダヤ社会では、律法の教師や預言者に女性が同行するということは考えられなかったことでした。

いささか耳障(ざわ)りな言葉でありますが、私たちの社会でも少し前までは、「女、子供」という言葉が半ば公然と囁かれていました。これは女性を子供と同列に見なしている言い方であります。この言葉の背後には、女性を男性と同等に見なしていない考え方が横たわっています。当時のユダヤの社会というのは、まさに女性を「女、子供」と見なす社会でありました。そのためでしょうか、宗教の専門家が女性と共にいること――あるいは、女性と口をきくこと――は、不謹慎なことと考えられていたのです。しかし、主イエスは、そうした習慣や伝統を意に介することもなく、女性たちと言葉を交わされ、交流をされました。

3節の後半に、「彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」と記されています。主イエスに同行した女性たちのある者は、自分の財布からお金を出して、一行に仕えていたようです。また別の者は自分の持ち物をお金に換えて、生活に必要なものを揃えていたようです。それは13人の男たちと、彼らに同行する自分たち女性たちの日々の食事の用意をするためでありました。

さらに毎日の衣服の用意と洗濯が女性たちに任されていました。それに加えて、毎晩の泊まる所、宿の確保も女性たちが担当していたようです。一行の全員が寝泊まりできるような邸宅に招待してくれる人物がいれば好都合であります。しかし、そのような幸運が毎日続くわけではありません。時には野外に天幕を張って、夜露をしのぐこともあったようであります。こうした日々の雑務、雑務と言っても、決してどうでもいいことではありません。日常生活を送る上では、欠くことができない労働でありますが、こうしたことの一切は、女性たちが引き受けていたようです。

一行の行く先々の町や村で、人々の注目が集まるのは説教をなさる主イエスに対してであり、あるいは、その周囲にいる十二人の弟子たちに対してでありました。女性たちは人目に付かない、いわば裏方の仕事に携わっていたのです。

私は現在、福島伝道所の建物で寝起きをして、教会にお仕えをしております。一週間の前半には看板を作り、教会の庭の手入れをし、また牧師館の掃除をいたします。そして週末には週報を作り、礼拝堂の掃除をし、掲示板の書類の整理をしています。私はこういう仕事をしながら、もっと広い敷地の大きな礼拝堂を構えた教会ならば、一体どうなるだろうと考えることがあります。私一人がしていることを、何人もの人の手を借りないとすることができないでしょう。私たちは教会の働きと言いますと、専ら牧師あるいは長老・執事がするのだと思い込んでいる節があります。しかし教会というのは、表に名前の出てくることのない多くの人々によって支えられ、そして保たれているのであす。

主イエスの一行につき従った女性たちについて、ルカによる福音書は次のように紹介をしております。2節からです。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、3ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。

主イエスに付き従った女性たちの中には、かつて悪霊に取り憑かれて、様々な苦しみの中を引き回された女性たちがいました。また重い病気にかかって、その苦しみの中に閉じ込められた歳月を過ごした女性も含まれていました。自分ではどうすることもできずに、医者の手にかかり、また、宗教家の手を借りても、一向に事態は改善されませんでした。主イエスがこうした女性たちを深い苦痛と苦悩の淵から救い出されたのであります。

そうした女性たちの中で最初に名前が挙げられているのがマグダラの女と呼ばれたマリアです。マグダラというのは、イスラエルのゲネサレト地方の南側に位置した町です。当時はガリラヤ地方で有数の町で、産業も盛んだったようであります。マリアはこの町でマグダラの女と呼び習わされていました。これは彼女が有名であったということでなくて、その悪名が高かったということです。七つの霊に取り憑かれるというのは尋常なことではありません。彼女は時に、何かに取り憑かれたような奇声を上げました。また時に、彼女は周囲の人々に攻撃的な振る舞いに出たようであります。

こうした常軌を逸した言動を、当人はもちろん、周囲もどうすることもできずにいました。いつしかマグダラの女として人々から遠ざけられ、忌み嫌われるようになっていきました。そのマリアが、この町を訪れた主イエスによって、取り憑いていた七つの悪霊から救い出されたのです。そしてその感謝から、彼女は主イエスにつき従い、主イエスへ奉仕する者へと変えられていったのです。

今晩読み進んでおります箇所の直前の7章の36節から50節には、香油の入った石膏の壺を持って主イエスに近付いた女性のことが記されています。彼女は主イエスの足を涙でぬらして、自分の髪の毛でぬぐいました。さらにこの女性は主イエスの足に接吻をして香油を塗りました。この女性がこうした行為に及ぶまでの経緯(いきさつ)、そして主イエスの関わりについては、聖書は何も語っておりません。

しかし、主イエスはこの女性について、「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。」(47節)と言われました。この御言葉からこの女性が、多くの罪を主イエスによって赦していただいたことが分かります。そしてその喜び、主イエスの愛が、彼女にこうした大胆な行動を取らせたのです。かつてマグダラの女と呼ばれていましたマリアは、主イエスによって、苦しみの淵から救っていただく経験をしました。その感謝の思いは間もなく主イエスへの愛へと変わっていきました。主イエスへの愛に支えられて、彼女は伝道の旅の間、主イエスにお仕えしたのです。

次に名前が出てきますクザの妻ヨハナは、かつては主イエスから悪霊を追い出し、病気をいやしていただいた経験を持つ女性であったと思われます。彼女の夫のクザは領主ヘロデの宮殿に仕えていました。ヘロデは洗礼者ヨハネのことも、そして、主イエスのことも快く思っていなかったようです。こうした上司の下で働くクザは、主イエスに付き従う妻のことをどのように思っていたのでしょうか。領主ヘロデと妻の間で、板挟みになって複雑な感情を抱いていたのでしょうか。それともクザ自身が信仰を持って、喜んで妻を送り出していたのでしょうか。詳しいことは分かりませんが、彼女も主イエスへの愛に支えられて、一行に加わって主イエスにお仕えしたのでした。三番目のスサンナについては、ここにだけ名前が記されている女性であります。

私たちはこのルカによる福音書を読み進んでいきますと、もう一度このマグダラのマリアとヨハナの名前に出会うことになります。この福音書の24章には、主イエスが復活なさった週の初めの日の明け方早くに、女性たちが準備をした香油を持って、墓に行ったことが伝えられています。そこで、彼女たちは主イエスの遺体がないことに気が付きます。さらにそこで出会った二人の御使いから「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(6節)と告げられるのです。

こうした一部始終を、使徒たちとほかの弟子たちに伝えた女性たちの名前の初めの方に、マグダラのマリアとヨハナの名前が記されるのです。彼女たちが報告に行った十一人の人というのは、主イエスが捕えられた時、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した人々であります。彼らは一度主イエスを捨て去った男性たちです。

しかしマリアとヨハナを初めとする女性たちは、そのことに一言も触れずに、墓で見聞きしたことを伝えたのです。今日の私たちであれば、避難と弁解の応酬の議論が持ち上がっていたかもしれません。しかし、マリアたちは、自分たちのすべきことだけを終えて、聖書の舞台から立ち去って行くのです。おそらく彼女たちはその後も、主イエスの愛に支えられて黙々と奉仕のわざに携わったのだと思います。

神戸改革派神学校長の吉田隆先生が4年前の2015年の四国中会の長老・執事・委員研修会でなさった講演の記録が手元にありました。吉田先生は、この研修会の中で、「古代教会に学ぶ伝道スピリット」という講演をなさっています。この講演の中で吉田先生は、ある学者の分析を紹介して、初代教会が成長した要因の幾つかを紹介されています。吉田先生が挙げてらっしゃる初代教会の成長の要因の四番目が、女性の働きというものであります。女性たちが教会の中で所を得て、生き生きと働いたことが、初代教会の成長の要因になったと言うのです。吉田先生は講演の中で、ローマの教会に手紙を届けたフィベという女性についても触れて、初代教会の中では、こうした重要な仕事を女性も担っていたと、話されていました。

教会が主イエス・キリストにあって、男も女もないという共同体を作ったことは、当時の社会に強い印象を与えました。男性も女性もどちらが上で、指導権を握るかということではなく、主イエスへの愛において、共に働いたのであります。このことがローマの社会に新鮮な衝撃を与えて、多くの人々を教会に引きつけることになったと言うのです。

既に一ヶ月以上前のことになりますが、4月29日に、東北中会の女性会の定期会が開かれました。私も初めてこの女性会に出席をいたしました。当日は46名の参加者があり、会場となりました東仙台教会の仮礼拝堂はほぼ満席でありました。私が驚きましたのは、この女性会に集まった皆さんの溢れるような明るさでありました。ある女性は「今日皆さんとお会いできると思うと、昨晩は嬉しくて眠ることができなかった。」という証しをされました。春の日差しと相まって、女性会は一日眩しいような明るさに包まれました。私たちはその明るさの中で、礼拝をおささげし、また講演に耳を傾けたのでした。当日の会の運営や進行はすべて女性たちによって担われていました。この一日を包んださわやかな明るさは、私が福島に帰ってからも印象に留まり続けました。それは主にあることからくる喜びでした。主にある喜び、その喜びに裏付けられた奉仕、それがこの女性会を一日彩りました。

ある人が伝道というのは知識を伝えるということよりも、むしろ、熱を伝えることであると語りました。この熱というのは、主イエス・キリストの十字架の愛が私たちにもたらす熱のことです。この熱は、私たちの内側で、主イエスに対する愛をかき立てます。その火は私たちを、主イエスにお仕えすることへと促します。それは黙々と神と人に仕えて行く奉仕です。それは決して他人への押しつけがましい奉仕のことではありません。この主イエスのもたらしてくださる熱に生かされるところに教会のすばらしさはあります。この幸いを覚えて、主の教会に生きる者となりたいと思います。

お祈りいたします。(31分20秒)

父なる神様、御名をあがめます。

あなたは、御子イエス・キリストを

お送りくださいました。

私たちは、この方にあって、この方を通して、

愛というものを知りました。

そして、その愛に捕えられて、

愛に生きる幸いの中に

生かされている者であります。

この幸いに生きることにあっては、

男性も女性もありません。

主イエスの十字架がもたらす熱によって生かされ、

共に愛を育む交わりを、共同体を

形づくっていくことができるように、

私たちを励まし、支えてください。

どうか、あなたと人に

黙々と仕える者とさせてください。

イエス・キリストの御名によって祈ります。

アーメン。(32分23秒)

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