1. 苦難の中にある「喜び」の門出
春は別れと出会いの季節です。恵那教会は、長年牧会された前任牧師との別れを経て、今、神学校を卒業したばかりの新米牧師と共に、新しい一歩を踏み出そうとしています。 客観的に見れば、日本の教会全体が直面している伝道の停滞、会員の高齢化、そしてコロナ禍の影響など、前途には厳しい課題が山積しています。しかし、教会の新しい歩みを始めるにあたり、私はまず皆様と共に「喜ぶ」ことから始めたいと願っています。
なぜなら、キリスト者を形作る最も根本的な原動力は「喜び」だからです。今朝から読み進めるフィリピの信徒への手紙は、別名「喜びの手紙」と呼ばれます。パウロはこの短い手紙の中で16回も「喜び」という言葉を繰り返しました。驚くべきは、この手紙が書かれた時、パウロ自身は獄中にあり、先行き不透明な苦難の中にいたという事実です。
2. 「キリストの僕」という身分
パウロはこの手紙の冒頭で、自らを「キリスト・イエスの僕」と名乗っています。他の手紙で見られるような「使徒」という権威ある肩書きをあえて使わなかったのは、フィリピ教会との間に深い信頼と愛の関係があったからです。 ここでパウロは、愛弟子テモテを自分と全く同列に並べて「僕たち」と呼びました。この「僕(ドゥロス)」という言葉は「奴隷」とも訳されます。当時の社会で奴隷は最低の身分でしたが、パウロにとって「キリストの奴隷」であることは、最大の誇りと喜びでした。かつて罪の奴隷であった自分が、キリストの十字架によって買い取られ、今はキリストのものとされている。この圧倒的な愛の確信こそが、牢獄の中にいてもパウロに「喜び」を歌わせる力となったのです。
3. 「聖なる者たち」としての教会
パウロはフィリピ教会の信徒たちを「聖なる者たち」と呼び、さらに「監督たちと奉仕者たち」と付け加えました。これは現在の牧師、長老、執事といった教会の役員に相当する人々を指します。 しかし、教会において役職者が信徒の上に君臨することはありません。教会の主体は、特定の役員ではなく、キリストに結ばれた「聖なる者たち」一人一人です。ここで注目すべきは、パウロが問題の多い教会に対しても等しく「聖なる者」と呼びかけている点です。フィリピ教会にも、信徒同士の争いや反対者の侵入といった問題がありました。彼らもまた、私たちと同じように日々の生活に悩み、罪を犯し、欠けを持った普通の人々でした。 「聖なる」とは、彼ら自身が道徳的に優れているという意味ではありません。ただ「キリストによって聖められ、神のものとして特別に取り分けられた」という意味です。欠けだらけの私たちを、主はご自分の血によって贖い、「聖なる者」として受け入れてくださいました。その一点において、教会は「聖なる者たち」の集まりなのです。
4. キリストにあって結ばれた一つの家族
パウロは最後に「父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」と祝福を送ります。獄中にありながら、自分の苦境を訴えるのではなく、教会の平安を祈るパウロの姿には、キリストにあって一つに結ばれた者としての深い愛が表れています。
私と皆様は、まだお互いのことを十分に知り合っているわけではありません。しかし、私たちはすでに固く結ばれています。それは、私たちが共にイエス・キリストに結ばれ、同じ愛を注がれ、同じ御方によって聖なる者とされているからです。このキリストという源泉があるからこそ、私たちは互いに祈り合い、神の家族として歩み出すことができるのです。
今日、ここから恵那教会の新しい歴史が始まります。私たちの目の前には困難があるかもしれません。しかし、私たちは「キリストの僕」であり、主の愛によって「聖なる者」とされた群れです。 パウロが獄中から喜びを伝えたように、私たちもまた、どのような状況にあっても主からの「恵みと平和」を分かち合い、喜びをもって前進していきましょう。愛する恵那教会の皆様の上に、主イエス・キリストの豊かな祝福がありますように。