1. 感謝と喜びにあふれる祈り
パウロは、獄中という過酷な状況にありながら、フィリピ教会の兄弟姉妹を思い起こすたびに「わたしの神に感謝し、いつも喜びをもって祈っている」と語ります。ここでの「わたしの神」という親密な呼びかけは、パウロが神との深い個人的な対話の中にいることを示しています。
パウロがこれほどまでに喜びをもって祈れるのは、フィリピ教会との間に深い愛の絆があったからです。彼らは決して裕福な教会ではありませんでしたが、パウロの宣教活動を経済的にも霊的にも献身的に支え続けました。パウロは、一人一人の顔と名前を思い浮かべながら祈るたびに、彼らを通して示された神の恵みを思い、感謝せずにはいられなかったのです。
2. 一般的な祈りとキリスト者の祈りの違い
世の中には多くの「祈り」がありますが、その多くは苦難の中での悲壮な願いや、何とかして神仏の加護を引き出そうとする「取引」のような性質を帯びがちです。もちろん、キリスト者も切実な願いを神に打ち明けます。しかし、パウロが教える祈りの特徴は、たとえ自分の願いが「NO」と答えられたとしても、あるいは沈黙が続いたとしても、なおそこには「感謝と喜び」が土台としてあるという点です。
パウロ自身、かつて自分の持病(肉体のとげ)を取り去ってほしいと三度も切に願いましたが、神の答えは「わたしの恵みはあなたに十分である」というものでした。願いが聞き届けられるかどうかを超えて、すでに神の恵みの中に置かれているという確信があるからこそ、キリスト者の祈りは、状況に左右されない喜びを保つことができるのです。
3. 「善い業」を始められた方への確信
なぜパウロは、目の前の困難に囚われず、常に喜びをもって祈れるのでしょうか。その理由は6節に記されています。
「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」
「善い業」とは、単なる慈善活動のことではなく、キリストによる「救いの御業」そのものです。フィリピの人々が初めて福音を聞いたその「最初の日」から、キリストは彼らの中に救いの働きを開始されました。そしてパウロが見据えているのは、目先の成功や失敗ではなく、遠く「キリスト・イエスの日(再臨の時)」です。
私たちは信仰を持ってからも、相変わらず罪を犯し、性格の欠点に悩み、同じ過ちを繰り返す自分に失望することがあります。教会の歩みも、順風満帆な時ばかりではありません。しかし、救いは私たちの努力によって完成するのではなく、それを始められたキリストご自身の手によって、終わりの日に必ず完成へと導かれます。この「神の誠実さ」に対する確信こそが、パウロの祈りの源泉でした。
4. 救いの途上を共に歩む「神の家族」
私たちは今、救いの「開始」と「完成」の間の途上を生きています。教会の少子高齢化や会員減少、あるいは社会の混乱など、私たちを不安にさせる要素は尽きません。しかし、近視眼的な視点を捨て、キリストが完成させてくださる終わりの日に目を向けるなら、今日の苦難もまた、神の大きな計画の一部であることを知らされます。
「恵みにあずかる(コイノニア)」とは、この救いの完成への道を共に歩む仲間のことです。私たちが互いのために祈る時、それは単なる儀礼ではなく、キリストが始められた御業が、愛する兄弟姉妹の上で必ず成し遂げられることを共に喜び、信頼し合う交わりとなります。
私たちの祈りを、恐れや不安による「懇願」から、確信に基づく「感謝」へと変えていきましょう。キリストは、この教会に、そしてあなたの中に、すでに「善い業」を始めておられます。その御業は、途中で投げ出されることはありません。 今日という日を、救いの完成へと向かう確かな一歩として受け入れ、互いに喜びをもって祈り合う神の家族として共に歩んで行くのです。