1. 苦難の中にある「福音の前進」
パウロは今、獄中にあります。しかし、彼は自分の不自由さや苦しみを訴えるのではなく、フィリピの教会の人々に「私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」と告げます。
ここで使われている「前進」という言葉は、軍隊が障害物を打ち砕きながら道を切り拓いて進む様子を表す強い言葉です。パウロ自身は囚われの身となり、自由な宣教活動は封じられました。しかし、彼が獄中で神を賛美し、祈り続ける姿を通して、「彼が監禁されているのは犯罪のためではなく、キリストのためである」という事実がローマの兵営全体に知れ渡ることとなりました。人間的な目で見れば「停滞」や「敗北」に見える状況であっても、神の福音は決して縛られることなく、むしろ困難を突き抜けて力強く前進していたのです。
2. 私たちの礼拝は「前進」の最前線
この事実は、現代を生きる私たちにとっても大きな励ましとなります。私たちは今、教会の衰退が叫ばれ、コロナ禍などの困難に直面し、自分たちの集いが小さく無力に思える時があります。「自分たちの捧げている礼拝に、この地域社会を変える力があるのだろうか」と不安になることもあるかもしれません。しかし、パウロが牢獄で一人捧げた賛美が福音の道を作ったように、私たちが日曜日に集まり捧げる礼拝は、決して無意味なものではありません。礼拝こそが、世の支配や絶望を打ち破って進む「福音の行進」の最前線なのです。たとえ目に見える数字や状況が厳しくとも、私たちが主を仰ぎ、礼拝を捧げ続けること自体が、キリストの勝利を世に証しする「前進」そのものなのです。
3. 不完全な動機さえも用いる主の恵み
パウロはさらに、教会の中にある複雑な現実にも触れています。当時、パウロを妬み、彼をおとしめようとする「不純な動機」でキリストを宣べ伝える者たちがいました。しかし、パウロは「それが何であろう。とにかくキリストが告げ知らされているのだから、私はそれを喜ぶ」と断言します。
私たちは、自分の奉仕や信仰が常に純粋な愛に基づいているとは限りません。そこには習慣、義務感、あるいは他者への嫉妬や恐れが混じることもあるでしょう。しかし、伝道において決定的に重要なのは、人間の側の動機の清さではなく「キリストが正しく語られているか」という点です。主は、私たちの不完全で不十分な思いや決断さえも、ご自身の目的のために用いてくださいます。
結び:聖霊の助けを信じて
コロナ禍のような未曾有の事態の中で、各教会は悩み抜き、祈りの中でそれぞれの決断を下してきました。その判断が人間的に見て正解だったかどうか、あるいは純粋な動機だけであったかは分かりません。しかし、主を求めて下した決断であれば、その歩みを通してキリストは証しされます。私たちの働きは不十分かもしれません。しかし、主は私たちが聖霊の助けを求めて祈る時、その弱さをも用いて福音を前進させてくださいます。私たちは、自分の小ささに落胆するのではなく、今、この場所で主を礼拝できていることを心から喜び、主がなしてくださる「福音の前進」に信頼して歩んでいきましょう。