1. 人生における究極の問題
私たちがこの地上で直面する数々の問題の中で、最も深刻で究極的なものは、やはり「命と死の問題」ではないでしょうか。病気や事故、老いや衰え、そして社会的な危機(感染症や戦争)も、突き詰めれば「生きるか死ぬか」という生と死の狭間にある問題に行き着きます。通常、生と死は対立するものとして私たちに重くのしかかります。しかし、今朝の箇所を読むと、投獄され死刑の危機に瀕している使徒パウロの中に、私たちの理解とは全く異なる、信仰者としての超越した死生観が表れているのを見ることができます。
2. 生きるにも死ぬにも、キリストの栄光のために
パウロは20節で、彼自身の望みを切に語っています。
「そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」
「恥をかかず」とは、世間に対して福音を恥じることなく、公の場、たとえ死刑を宣告される法廷の場に立たされたとしても、これまでと同じようにキリストの福音を堂々と証しすることを願っています。パウロにとって、この状況で最も重要なことは、彼自身の釈放や命の存続ではありません。彼が生きるか死ぬか、どちらの結果になったとしても、それを通してキリストの御名が公然と広がり、褒め称えられること、すなわちキリストが「あがめられる(大きくなる、広がる)」ことこそが、彼の切なる願いであり希望なのです。この願いは、パウロの中でキリストが大きくなればなるほど、相対的に彼自身の問題や存在が小さくなり、「自分が生きるか死ぬか」という究極の問題ですら、本質的な問題ではなくなっていくことを示しています。パウロはここで、すでに生と死を超越した視点に立っています。
3. キリスト者とは「キリストを生きる者」
その超越した死生観を、パウロは続く21節で鋭く言い表します。
「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」
「生きるとはキリストである」という言葉は、私たちキリスト者の本質を捉えています。キリスト者とは、単にイエス様の教えに共感し、その教えに従って努力する人のことではありません。キリスト者は、「イエス・キリストを生きる者」、すなわちキリストという真の命を与えられ、その命を生きる者たちのことです。ガラテヤ書2章19節以下でパウロは「生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私のうちに生きておられるのです」と述べています。洗礼は、古い私たちが死に、キリストの命をいただいて新しく生まれ変わったことを象徴しています。私たちキリスト者にとって、生きる根拠はイエス・キリストという御方であり、このキリストが私たちの命となられたのです。私たちはこの御方と離れがたく一つに結びつけられた者、すなわち「キリストの命を生きる者」なのです。
B. 死ぬことは利益である
そして、「死ぬことは利益(益)です」という言葉もまた、驚きをもって響きます。パウロにとって、生きることも「キリストにあって生きる」ことであるように、死ぬことも「キリストにあって死ぬ」ことに他なりません。23節では、「一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」と告白しています。パウロにとって肉体の死は、世を去ってキリストと永遠に共にいることができるようになることであり、それは大きな利益、最も望ましいことなのです。
この希望は、地上の苦しい生活に絶望し「早く楽になりたい」という厭世的な思いから来るものではありません。私たちキリスト者が抱く希望は、地上における最大の敵である死をも打ち破られた主イエス・キリストの命が、私たちの内に流れているという揺るぎない確信に基づいています。死の危機に瀕しても、私たちの死を通してキリストの栄光が現されるのですから、私たちはそれに打ち勝って喜ぶことができるのです。
4. 留まることも、去ることも益
パウロは、キリストと共にいること(死)が遥かに望ましいと熱望しながらも、地上の教会のために留まることもまた益であることを理解しています。
「肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。」(22節)
パウロの頭を悩ませている問題は、生きるか死ぬかという選択肢ではありません。彼にとって、どちらを選んでもそれはキリストと共にあることなので、大きな問題ではないのです。しかし、彼はフィリピ教会の人々の信仰の成長を思い、自分が地上に留まって彼らと共にいることが、実り多い働きにつながることを知っています。ここでいう「実り多い働き」とは、使徒や伝道者という特別な働きに限定されるものではありません。キリストの命を生きる者とされた私たちは、たとえ肉体が衰え、身体が思うように動かなくなっても、生涯の最後まで、そのキリストを証しし、キリストを喜び、キリストの栄光を表す働きができるのです。礼拝に出席すること、誰かのために祈ること、それ自体がキリストの栄光を表す働きなのです。そしてその生涯を終えた時には、いよいよ深くキリストと結ばれて喜ぶことができるのです。
5. 弱い私たちと互いの祈り
パウロは自身の状況について語る中で、その文章の乱れから、彼自身も「生か死か」という問題に直面した時の心の動揺や高ぶりがあったことがうかがえます。だからこそ、彼は19節で、イエス・キリストの霊の助けと共に、フィリピの兄弟姉妹たちの祈りを必要としていることを率直に打ち明けています。私たちは皆、弱い者です。生と死の狭間に立たされる時、恐れや動揺を抱くことは当然です。私たちにはキリストの命が流れていますが、同時に人間的な弱さも持ち続けています。だからこそ、私たちは今も聖霊の助けを必要とし、そして主にある兄弟姉妹が互いに祈り合い、支えあうことが必要なのです。
私たちは、私たちの命の主イエス・キリストという御方に堅く結ばれ、その霊を注がれています。そして、同じキリストの命を分け合っている兄弟姉妹の祈りによって支えられています。この確信があるからこそ、私たちはこの地上の生と、いつか訪れる肉体の死のどちらにおいても、主イエス・キリストの栄光を表し、主イエス・キリストを喜ぶことができるのです。死も苦難も私たちからこの喜びを奪い去ることはできません。